第20話
翌朝、朝食のトーストを齧りながら、ぼんやりとニュースを見ていた。それは俺と同じ年の高校生が、いじめを苦に飛び降り自殺をした報道だった。
──死にたい。
ふいに雪乃のあの言葉がよぎった。あの日以来、一度も聞こえてこないが、雪乃は今でも死にたいと思っているのだろうか。彼女を見る限り、自殺願望があるようには到底思えなかった。
「また今日も、えっと、伊吹くんだっけ? 黒板に書くのかな」
洗い物をしながら姉は訊いてくる。伊吹のことは昨日の病院の帰りに姉に話してある。
「たぶん書くだろうな。どうしたらいいと思う?」
いつも的確なアドバイスをくれる姉に、俺は訊ねてみた。
「うーん、とりあえず様子を見てみたら? 事実に反することを書いてたり、誰かを傷つけるようなことを書いてたら止めたほうがいいと思う」
「そうするよ。ごちそうさま」
現状そうするしかなさそうだった。井浦が援助交際をしているのかはまだ確認が取れていないが、これ以上過激なことを書くようなら止めざるを得ない。
まだ家を出るには少し早い気もしたが、俺は学校へ急いだ。
早い時間に家を出たせいか、いつも心の中で悪態をついているサラリーマンも、世界の終わりを願っている学生もいなかった。
この日は気温が低めで、肌を撫でる風が涼しくて心地よかった。
鳥のさえずり、颯爽と吹き抜ける風。文句のつけどころのない爽やかな朝だが、数十分後に俺のクラスで起きるであろう悲劇を思うと、気分が落ち込んでこの清々しい朝を素直に享受できなかった。
まだ生徒の姿が少ない通学路を走り抜け、この時間だからかガラガラの駐輪場に自転車を止める。そこから早歩きで二年の教室を目指す。
教室に入ると、まだ数人の生徒しかいなかった。伊吹の姿もない。
【おはよう。黒板、見て】
雪乃と目が合い、彼女は俺にそう訴えかける。
『高梨美晴は、頻繁に万引きをしている』
目を疑うような言葉が、黒板には書かれていた。
高梨が万引き? するようには見えなくもないが、これは悪質極まりない。万引きをしていたとしても、わざわざ黒板に書くようなことでもない。伊吹は有罪だ、と俺は判断した。
黒板の文字を消すべきか逡巡しているうちに、続々と生徒たちがやってきて、スマホで写真を撮り出す奴も出てきた。こうなってしまうと消しても意味がない。黒板の文字を消す生徒は一人もいなかった。
「うおっ! 高梨さん万引きってマジ? ショックなんだけど」
高梨に好意を寄せている小泉が登校してきて、早速黒板の文字に気づいた。嘘だろう、と膝をつきガックリと項垂れる。芝居じみていて笑っている生徒が何人かいた。
さらに数分後、一連の出来事の首謀者である伊吹が素知らぬ顔で教室にやってきた。朝早くに黒板に文字を書き、今頃になっていけしゃあしゃあと登校してきたのか、と思うと憎たらしくて腹が立った。彼は黒板を一瞥すると、にやりと笑って自分の席に着いた。
【盛り上がってる盛り上がってる。ざまぁ】
伊吹はそんなことを考えていた。
さらに数分後、井浦と高梨がやってきて黒板の文字に気づいた。
「ちょっと、なんなのよこれ!」
高梨は慌てて黒板の文字を消す。その光景にデジャブを感じながら、もう一度伊吹に目を向ける。
【ばーか。雪乃さんをいじめた罰だ】
そんな言葉が頭に届き、伊吹が何故こんなことをしたのか、ようやく動機がはっきりとした。伊吹は雪乃に好意を寄せていて、何もできない雪乃の代わりに復讐をしているのだ。それにしても陰湿なやり方だが、不覚にも伊吹を見直してしまった。もう少し様子を見てもいいかもしれないな、と思った。
一時間目が終わった後の休み時間に、俺は高梨に呼び出された。何を訊かれるかある程度予想はしていたが、彼女の問いにどう答えるべきか、まだ決めかねていた。
「ねえ、あれは誰の仕業なの? まだ犯人見つからないの?」
三階の階段の踊り場で、高梨の口から想像通りの鋭い言葉が飛んでくる。
「ごめん、まだ見つかってない。もう少し探ってみるよ」
犯人が伊吹であると伝えてしまうと、さらに厄介なことになりかねない。今は無難にそう答えるしかなかった。
「ところでさ、黒板に書かれてたこと、したのか?」
「はあ? 万引きなんてするわけないでしょ」と高梨は俺を睨みつける。
「やっぱり書かれてたことは嘘なのか。じゃあ昨日の井浦のことは?」
「愛美もやってないって言ってるし、全部でたらめだよ。まじ迷惑なんだけど」
犯人分かったらすぐに教えてよ、そう言い残して高梨は階段を上がっていった。
【犯人見つかったら、ぶっ殺してやる!】
美少女が到底吐かないであろう台詞を、高梨は心の中で叫んでいた。
教室内に淀んだ空気が漂ったまま授業が進み、ようやく誰もが待ち望んだであろう放課後がやってきた。教室の外へと駆け出していく生徒たちを見送りながら、今日はどうやって時間を潰そうか考えていた。
問題の伊吹は、どしどしとでかい図体を揺らしながら下校していった。生徒たちが帰るまでまだ時間がありそうなので、俺は一階に下りて自販機でコーラを買った。
昇降口に目を向けると、皮肉にも井浦たちのグループと伊吹が靴を履き替えていた。
【また明日が楽しみだなぁ】
どうやら伊吹は、明日も黒板に文字を書くつもりらしい。
「まじで誰だよ、あれ書いたの。ほんとむかつく」
書いた奴がすぐ隣にいることも知らず、井浦は刺々しい声で文句を垂れていた。
コーラを片手に再び教室に戻ると、窓際の席に座る雪乃を残して、他の生徒たちは早くも下校したようだった。
俺は適当な席に座り、コーラをひと口飲んでから雪乃に視線を投げる。
【伊吹くん、どうしてあんなこと書いたのかなぁ】
「あいつ、雪乃のことが好きらしいよ」
言っていいものか一瞬躊躇ったが、問題ないだろうと判断して雪乃に告げた。彼女は目を丸くして俺を見つめる。
【それ、本当の話?】
「本当だよ。雪乃のことをいじめてる奴らに罰を与えてるんだとよ。お前、けっこうモテるんだな」
雪乃はそんなことないよ、と謙遜しながらまんざらでもない顔をしていた。
【でも、嘘を書いてるなら止めたほうがいいよね。美晴ちゃん、万引きなんてしないだろうし】
「うん。でもあいつ、また明日も書くつもりらしい。さすがにそろそろ止めるか」
【私のためにやってくれてるのは嬉しいけど、やっぱり人を傷つけるのはよくないと思う】
そうだなぁ、と軽い返事をしてコーラをひと口飲む。
「でも、どうやってやめさせるのがいいかな」
【うーん、直接言うとか?】
「黒板に書くのはどうだろう。『書いたのは伊吹です』って」
【それはだめだよ。そんなことしたら、今度は伊吹くんがいじめられちゃう】
自業自得だからいいだろうと思ったが、正義感の強い雪乃に反論されそうな気がして言葉を飲み込んだ。
「とりあえず、もう少し考えてみるよ。また明日な」
コーラをぐびっと飲み干した後、立ち上がって教室を出る。廊下に出て教室を振り返ると、雪乃はクマのキーホルダーに視線を落とし、深くため息をついていた。
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