第19話

 放課後、一旦教室を出て校内をぐるっと一周して、再び教室に戻る。まだ数人の生徒が残っていたので、仕方なくもう一周して時間を潰す。毎日放課後に自分の席に居座っていると怪しまれそうで、時折こういうこともしていた。

 三階の渡り廊下からぼんやりと窓の外を眺めていると、背後から声をかけられた。


「ねえ森田、本当にあんたと令美はやってないの?」


 振り返ると、高梨が俺を睨んでいた。聞きようによってはいかがわしくも思えるが、きっと今朝の黒板のことを言いたいのだろう。


「俺らじゃないよ。模倣犯っていうんだっけ、こういうの。面白がって誰かが真似たんだろうな」

「ふうん。じゃあ森田なら犯人見つけられるんじゃないの? 心の声、聞こえるんでしょ?」


 犯人ならすでに突き止めていたが、高梨に伝えるのは躊躇われた。


「いや、実はまだ見つけられてないんだ。一人一人心の中を覗いてみたけど、それらしい奴はいなかった。もしかしたら他のクラスの奴かもな」


 素知らぬ顔をしてそう答えた。高梨は得心がいかないのか、目を細めて俺を見ている。


「本当に、あんたたちじゃないのよね?」

「本当に、俺たちじゃないよ」


 分かった、信じる。そう言って高梨は踵を返し去っていく。渡り廊下の向こう側で、彼女はもう一度振り返る。


「犯人が分かったら、すぐに教えてよ!」

「了解」


 そう返事をすると、高梨は小さく微笑んで歩き去っていった。相変わらず美少女なのだった。

 教室に戻ると生徒たちは下校したようで、窓際の席にぽつんと雪乃が座っていた。彼女は今日も空を見上げている。


【太陽が眩しい】

「そりゃ眩しいだろうよ。なんせ太陽なんだからな」


 教室に戻るなり、俺は適当な席に腰掛けて雪乃に声をかけた。雪乃は振り返り、ニコッと笑う。


【黒板に書いた犯人、誰なんだろうね】

「ああ、それならもう見つけたよ。意外な人物だった」

【もう見つけたんだ。誰だったの?】

「伊吹だよ。伊吹弘昌。明日も書くって言ってたよ」

【伊吹くんが? どうしてあんなことを書いたんだろう】

「それは知らないけど、ただの悪戯じゃないかな」


 うーん、と唸りながら雪乃は腕を組む。明日の黒板の文字が井浦に関することなら、個人的に井浦に恨みがあるということになる。もう少し伊吹を泳がせてもいいように俺は思う。何より、普段威張り散らしている井浦が狼狽していて、ある意味痛快でもあった。おそらくほとんどの生徒がそう思ったに違いない。


【伊吹くんとは一年生の頃同じクラスだったけど、無闇に人を傷つけるようなことしないと思うけどなぁ】

「雪乃には分からないと思うけど、人間には表と裏の顔が正反対のクズもいるんだよ。温厚そうに見える奴ほど内心えぐいこと考えてたりするからな」

【碧くんが言うと、説得力あるね】

「伊達に人の心を覗いてないからな。それで、どうする? 伊吹にやめさせるのか、このまま放っとくのか」


 うーん、と再び唸りながら雪乃は考え込む。俺は壁に掛けられた時計をちらりと見る。母さんのお見舞いに行く約束をしていたので、そろそろ帰らないと姉に怒られてしまう。雪乃の返事を待たず、鞄を持って立ち上がる。


【あれ、もう帰っちゃうの?】

「今日はちょっと用事があるんだ。伊吹のことは、また明日考えよう」

【分かったぁ。私はもう少しボーッとしてから帰る】

「そうか。じゃあな」


 本当に呑気な奴だな、と苦笑して教室を後にする。


 自転車を飛ばして駅へ向かう。学校を出たところで姉から着信があり、すでに駅前のバス停に着いたとのことだった。車が来てないことを確認し、赤信号を渡る。俺はこう見えて真面目な人間だ。普段は赤信号では止まっているが、この日ばかりは先を急いだ。赤信号を渡るよりも、姉の機嫌を損ねるほうがよっぽど危険なのだ。立ち漕ぎをして、最短のルートで目的地へと向かう。



「間に合ったぁ!」


 駅の駐輪場に自転車を止め、バス停でバスを待っている姉にピースサインを送る。


「いやいやいやいや、間に合ってませんけど。もうバス、行っちゃいましたけど」


 姉は芝居がかった動作で文句を垂れる。さすが演劇部所属なだけはあるな、と思った。


「悪い悪い。いろいろあって雪乃と話してたんだ。それより姉ちゃん、最近部活出てないみたいだけど、大丈夫なの?」

「ああ、いいのよ別に。あたしもいろいろ忙しいのよ」


 姉の将来の夢は女優になることだ。小さい頃から何度もそう言っていた。俺は一度、姉の高校の学園祭に行って演劇部の公演を見に行ったことがある。お世辞抜きで姉の演技は素人レベルではなく、もはやプロと遜色ない素人女優なのだった。姉は演劇関係の専門学校に進学する予定だったのだが、母さんが倒れてからは進学を悩んでいるらしい。もちろんそのことは、姉の心の中を覗いて知ったことだ。その専門学校は自宅から通うには距離的に難しく、一人暮らしをしなくてはならないのだ。姉は俺と父さんを残して家を出ることに躊躇っており、進路は未だに決めかねている様子だった。

 それにしても俺の周りには悩んでいる奴が多すぎる。改めて聞こえてしまう声にうんざりした。


 数分後バスがやってきて、姉は前の座席に腰掛け、俺は後ろの座席に腰掛けた。

 流れていく外の景色を眺めながら、俺は雪乃のことを考えていた。姉よりもクラスメイトたちよりも、雪乃の悩みを解決してやりたい気持ちが、最近になって芽生えてきたのだ。どうしてかは自分でも分からない。雪乃に対するいじめを見て見ぬ振りをしていることの、良心の呵責からきた気持ちかもしれない。誰より自分が一番苦しんでいるのに、他人の心を救おうとする雪乃の姿に胸を打たれた自分がいるのかもしれない。

 どちらにせよ、まずは伊吹をどうにかしなければならない。

 そんなことを考えているうちに、病院前のバス停に到着した。


 母さんはこの日も、穏やかな表情で眠っていた。姉は母さんの爪を切ってやったり、手を握ったりしながら学校で起きた出来事などを話している。あの性格の悪い橋下と、今度映画を観に行く約束をしたらしい。

 退院したらお母さんも映画行こうね、と姉は母さんに声をかける。当然返事はないが、それでも構わずに姉は一人で話し続ける。

 母さんの心の声は、やっぱり聞こえてこない。姉の数々の言葉たちは、本当に母さんの耳に届いているのだろうか、と俺はその様子を懐疑の目で見ていた。


「ほら、碧もお母さんに声かけてあげて」

「いいよ、俺は。姉ちゃんが声かけたほうが母さんも喜ぶよ」


 そんなことないから、と姉はため息をつく。母さんは見違えるほど痩せこけていて、直視するのが辛かった。腕は細く青白い。血管が浮き出ていて、骨の形がはっきりと分かるほどだ。身体には何本もの管が刺さっていて、もはや機械によって母さんは生かされているようでもあった。


「そろそろ帰るよ」


 鞄を手に持ち、姉は病室を出ていく。俺は病室を出る前に、もう一度母さんに目を向けた。俺の耳にも、頭の中にも母さんの声は届かない。もう二度と口うるさい母さんの声が聞こえないのだと思うと、少し寂しかった。

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