第7話
翌日から、俺はさっそく授業中に藍田さやかの観察を試みた。幸い彼女の席は前のほうで、黒板を見てるフリをして藍田を観察できる。一番後ろの、クラスメイトたちを見渡せるこの席でよかったと改めて思った。他にも重い悩みを抱えてそうな生徒は何人かいたが、まずは藍田に照準を当てることにした。雪乃に視線を移すと、彼女はこの日も真面目に授業を受けている。
再び視線を藍田に戻し、俺はノートにメモを取る。板書を書き写すのではなく、藍田の心の呟きで、気になったものを箇条書きで書き写しているだけだ。
・どうしよう。病院行かなくちゃ。
・どうしよう。学校はどうなるんだろう。
・どうしよう。言ったら彼に捨てられちゃうのかな。
・どうしよう。お父さんとお母さんにも、誰にも相談できないよ。
・どうしよう。お金、いくらかかるのかな。
・どうしよう。死にたい。
どうしようまでは書く必要はなかったが、何度も呪文のように唱えているので、一応書いておいた。何を悩んでいるのかは判然としないが、とにかく藍田は相当逼迫しているらしい。
病院、彼、お金、誰にも相談できない、死にたい。キーワードはそのあたりだろう。
ちょうど今は数学の時間だったが、数学の問題を解くよりも、藍田の心の問題を解くことに俺は夢中だった。
ようやく昼休みになって、姉が作ってくれた弁当を食べる。姉の機嫌はすっかり良くなっていて、この日はいつも通りの弁当に戻っていた。
窓際の席で一人寂しく弁当を食べている雪乃を、チラリと見る。
【卵焼き、ブロッコリー、唐揚げ、ご飯】
食べる前に、その食べ物の名前を呟いてから彼女は口に運んでいた。相変わらず、何を考えているのか分からない奴だ。
今度は藍田さやかに視線を移す。女子三人で弁当を食べている。こちらも相変わらず、【どうしよう】と同じことを心の中で呟いていた。藍田は普段、なんでもない時でもニコニコしている女だ。愛嬌が良く、おそらく男子からはモテるのだろう。彼女を観察して、なんとなく分かった。心を読める俺以外は、決して彼女が大きな悩みを抱え込んでいるなんて微塵も思わないだろう。傍から見れば、藍田は高校生活を満喫している女子生徒にしか見えないのだ。
放課後、この日は晴れていたのでクラスメイトたちは足早に教室を出ていった。高梨美晴は席を立たない俺を訝しげに見ていたが、井浦愛美たちと一緒に下校していった。
【昨日の雨が嘘のように晴れてるね】
身を乗り出して窓枠に肘をつき、空を見上げながら雪乃はぽつりと呟く。彼女の言う通り、雲一つない快晴が広がっていた。
俺は席を立ち、雪乃の机にノートを置いた。
「これ、藍田の心の呟きをメモったやつ」
雪乃は振り返り、さっそくノートに手を伸ばす。彼女は俺が書いた文字を、心の中で反芻する。
「これだけじゃ分かんないよな。また明日、探ってみるよ」
【もしかして藍田さん、妊娠してるんじゃないかな?】
「え? 妊娠?」
まさかそんなはずは、と思い、ノートを雪乃から奪う。
確かに雪乃の言う通り、どれもこれも藍田が妊娠していたらしっくりくるキーワードだ。もし本当にそうだとしたら、これはとんでもない悩みだ。高校二年生の女子が妊娠しているなんて、大問題になる。学校に知られたら停学か、いや退学だろうか。どっちにしろ大騒ぎになるのは間違いない。雪乃は唇に人差し指を当て、難しい顔をしていた。
「いやでも、もし本当に藍田が妊娠してても、俺らにできることはないよな。産むのか下ろすのか、決めるのは藍田だ。これは聞かなかったことにしよう」
ノートのページを破り捨てようとすると、雪乃がそれを阻止した。
「なんだよ」
【見捨てるなんて酷いよ。藍田さん、一人で抱え込んでて、きっと苦しんでる。なんとかしてあげようよ】
「なんとかって、無理だろ。それに、なんでそこまでする必要があるんだ? 雪乃がいじめられてるのに、見て見ぬ振りをしてる奴なんだぞ? まあ、俺もだけど」
雪乃はしばらく黙り込んだ後、【少し、考えてみる】と心の中で言った。鞄を小脇に抱え、彼女は教室を出ていった。
一人ぽつんと教室に取り残され、侘しい気持ちになる。なんとなく雪乃の席に座り、机に視線を落とす。
『死ね』
『キモい』
『ブス』
『くちなし女』
『学校辞めろ』
そんな心ない言葉が、雪乃の机には書かれていた。藍田よりも誰よりも、悩んでいるのは雪乃ではないのか。
そんなことを考えながら、俺は誰もいない教室を出た。
帰り道、駅の前を通ると姉に遭遇した。これから母さんの見舞いに行くのだという。
「碧、あんたも一緒に来なさい。どうせ暇なんでしょ」
姉には逆らえない俺は、仕方なく同行することにした。駅の駐輪場に自転車を止め、姉と二人でバスに乗って母さんの病院に向かう。
バスの中で同じクラスの女子が妊娠しているかもしれない、と今日の出来事を姉に説明した。周りに聞こえないよう、小声で姉に話した。
「まあ、学校にバレたら退学だろうね。親にも友達にも相手の男にも話せないなんて、ちょっと可哀想だね」
一通り説明を終えると、姉は腕を組んで嘆息をつく。それから「力になってあげなさい」と付け加えた。
「やだよ、そんなの。自業自得じゃん。俺には関係ないし」
「関係ないことないよ。勝手に人の悩み事を盗み聞きしたんだから、聞くだけ聞いてそれで終わりなんて、酷いじゃない」
「盗み聞きというか、雪乃に頼まれたんだ。藍田の悩みを探ってほしいって」
「雪乃ちゃん、どうするつもりなのかな?」
「それは知らん」
話し終えたところで、病院前のバス停に到着し降車する。
最後に母さんの病院に来たのは、一ヶ月以上前だ。母さんがいるのは何階で、どの病室か、それすら覚えていない。姉の後を追い、病室を目指す。
三階のエレベーターを降りてすぐの病室に、姉は入っていった。
そこは四人部屋で、他に三人の患者がベッドで眠っていた。母さんは向かって右側の、窓際のベッドで眠っている。
「お母さん、また来たよ。今日は碧も来てくれたんだよ」
姉は母さんの耳元で優しく囁いた。意識ないんだから、そんなことを言っても分かるわけないだろう、と思った。
「ほら、碧もお母さんに声聞かせてあげなさい」
「いいよ、俺は。だって母さん、意識ないんだし」
「きっと聞こえるよ。意識がなくても、耳は最後まで聞こえてるんだから」
姉は眉根を寄せてそう言う。俺には信じがたい話だった。
結局俺は母さんに声をかけず、少し離れたところに置いた丸椅子に座った。姉は休むことなく母さんに声をかけ続ける。
「碧ったら、橋下くんに失礼なこと言うのよ。初対面なのに。あ、橋下くんはこの間話した同じクラスの男の子だよ。いい人なんだよ」
どこがだよ、と突っ込みを入れたかったが口を噤んだ。また機嫌を悪くされたら面倒だ。その後も姉は母さんに声をかけ続ける。しかし当然ながら母さんは反応しない。心の中を覗いても、無音で空っぽだった。
「そろそろ帰ろっか。お母さんに一言くらい声かけてあげなよ」
「いいよ、俺は」
ボソッと呟き、立ち上がる。時計を見ると、病室に来てからすでに三十分が過ぎていた。俺はその間、ずっとスマホのゲームをして時間を潰していた。
姉は俺を睨みつけ、先に病室を出た。ちらりとベッドに目を向ける。母さんは穏やかな表情で眠っていた。なんて声をかけてやればいいのか、分からない。ここまで育ててくれてありがとう、だろうか。それだと別れの挨拶みたいだ。弁当残してばっかで、反抗的な態度ばっかりでごめん、だろうか。母さんとは喧嘩したまま、それっきりになってしまった。
もう意識は戻らないかもしれない、と医師は言った。だとしたら俺は、母さんに感謝の言葉も、謝罪の言葉も伝えられない。でも、いきなり倒れた母さんが悪いよな。俺はいずれ言うつもりだったから、俺は悪くないよな。
そう自分に言い聞かせ、俺は病室を後にした。
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