第6話

 ガツン、とダイニングテーブルに姉は弁当箱を乱暴に置いた。昨日の一件の後、姉は柳眉を逆立て俺を激しく非難した。人の心の中を軽々しく覗くな。初対面なのにあの態度はなんだ。などと、小一時間説教を垂れた。

 俺も悪いかもしれないけど、あいつだってあの言いようはないだろう、と反論したが口喧嘩では姉には敵わず、その後は平謝りをするしかなかった。

 そして一日経ったが、姉の怒りは収まらずこの有り様だ。俺は静かに弁当を鞄に詰め、逃げるように家を出た。


 自転車を軽快に走らせ、灰色の空を見上げる。念のため傘を持ってきて正解だった。暗雲が垂れ込めていて、今にも泣き出しそうな嫌な空だ。泣きたいのはこっちのほうだよ、と嘆息しながら学校へ向かう。


「よう碧。なんか元気ねーな。悩み事か?」


 信号待ちをしていると、背後から小泉が声をかけてきた。


「悩み……か」

「んん? 大丈夫か?」


 悩み、と聞いて思い出した。昨日雪乃が言っていたあの言葉。俺たちのクラスには、大きな悩みを抱えている奴がいる。あのクラスに、そんな奴がいるのだろうか。どいつもこいつも不真面目で、ただのうのうと生きているどうしようもない連中だと俺は思っている。深刻な悩みを抱えている奴なんて、本当にいるのだろうか。


「おい碧! 何してんだよ! 信号変わっちまうぞ!」


 横断歩道の向こう側で、小泉が叫んでいた。青信号は点滅していて、俺は急いでペダルを漕ぎ横断歩道を渡った。


【今日は高梨さんと話せるかなぁ】


 小泉の声が、俺の頭に届いた。少なくとも彼は、なんらかの問題を抱えているようには見えないな、と苦笑した。


 学校に着いて教室に入ると、さっそく雪乃と目が合った。


【おはよう】


 この日も当然シカトして、俺は自分の席に直行する。

 席に着いて雪乃を一瞥すると、思わず二度見してしまった。彼女の背中には、『私はバカです』と書かれた紙が貼られていた。

 雪乃は気づいていないようで、ただ真っ直ぐ一点を見つめている。


【あ、雨降ってる。傘、持ってきてないや】


 雪乃は窓に視線を移すと、ぽつりと心の中で呟いた。雨粒が窓にひっついて、外の景色がぼやけて見える。やっぱり傘、持ってきて正解だった。

 授業が始まっても、雪乃の背中に貼られた紙はそのままになっていた。誰も取ろうとはせず、国語の教科担任も教卓から動かないタイプの先生なので、気づく様子はなかった。


 俺はこの日、授業中や休み時間は全てクラスメイトたちの観察に費やした。確かに雪乃の言った通り、何かしらに悩んでいる生徒は多かった。悩みはまさに十人十色で、退屈な授業の暇つぶし程度にはなった。

 恋の悩みや部活の悩み、友達関係や進路の悩みなど、とにかく多種多様だ。

 その中でも俺が目をつけたのは、テニス部所属の藍田あいださやかだ。何を抱えているのか分からないが、【どうしよう、どうしよう】と授業中に頭を抱え何度も呟いていた。セミロングの黒髪で、清楚な印象の女子生徒だ。


 予鈴が鳴り、昼休みになった。俺は藍田さやかを観察しながら、弁当箱を開ける。

 姉が作ってくれた弁当を見て驚いた。二段目の白米がキャラ弁になっていて、海苔と梅干しを器用に使って鬼の顔になっていた。

 弁当で怒りを表現するなよ、と苦笑して鬼の顔を崩し、口に運ぶ。味はいつも通りだったので安心した。



 そして放課後がやってきた。結局藍田さやかの悩みが何であるか、分からなかった。彼女はただひたすらどうしよう、と嘆くばかりだった。

 この日も小泉を先に帰らせ、俺は自分の席に座って生徒たちが下校するのを待った。雨が降っているせいか、席を立つ生徒は少ない。親に連絡をして迎えを待っている生徒もいる。


「碧はまだ帰らねーの?」


 佐藤だったか斎藤だったか忘れたが、クラスメイトに声をかけられた。


「もう少し雨が弱まってから帰るよ」

「そうか。気ぃつけてな」


 彼は言いながら、白のエナメルバッグを肩にかけて教室を出ていった。この雨でサッカー部の練習が中止になったらしい。彼は授業中、部活をサボりたくて雨が勢いを増すのを願っていたのを思い出した。

 三十分待つと、ようやく俺と雪乃を除いた生徒たちは下校していった。窓際の自分の席に座る雪乃は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。


【明日も雨かなぁ】


 彼女はそんなことを考えていた。


「明日は確か、晴れるらしいよ」


 雪乃は振り返り、【そっかぁ】と心の中で囁く。彼女の背中に貼られていた紙切れは、二時間目の授業が始まる前になくなっていた。


「そういえば、このクラスに悩んでいる人がいっぱいいるって言ってたけど、確かにいたよ。つまらない悩み事がほとんどだけど、何人かは真剣に悩んでたよ」


 一息に言うと、【ほら、私の言った通りでしょ?】と雪乃は悪戯っぽく笑う。


「特に藍田とかな。どんな悩みなのかは知らないけど、授業中に頭を抱えてたよ。まあ、別に興味ないけどな」

【ねえ、もう少し探ってみてよ。藍田さん、誰にも相談できなくて苦しんでるのかも】


 雪乃は身を乗り出してそんなことを言う。やだよ、と俺は間髪を入れずに言った。


「俺こう見えて女子と話すの得意じゃないし、しかも藍田とは話したこともないしさ。なんで俺がそんな面倒くさいこと……」

【これは碧くんにしかできないことなんだよ。それってすごいことだと思う】


 俺にしかできないこと、なんて言われてしまうとやはり気持ちが高ぶる。しかし、人の悩み事を無闇に覗くなんて、気が引ける。


「うーん、どうしようかなぁ」

【碧くんは藍田さんの心の声を聞いて、私に教えてくれるだけでいいから】

「そんなことを知って、どうするつもりだよ」


 雪乃は俺から視線を逸らし、窓のほうに顔を向けた。一瞬外が光り、数秒遅れて雷鳴が響く。雨は一向に弱まる気配がなかった。


【私は誰にも悩み事を話せず、言いたいことも言えずに苦しんでいる人の力になりたい。ただ、それだけのことだよ】


 窓の外を見つめたまま、雪乃は心の中でゆっくりとそう話した。やっぱり、こいつは何を考えているのか、俺には読めない。喋ることのできない彼女に、一体何ができるというのか。

 その時、教室のドアが開いた。やばい、と思ったが隠れる場所なんてどこにもない。

 すらりと伸びた長く細い脚。蠱惑的な瞳に肉厚な唇。栗色の長い髪の毛は、雨のせいかぐっしょりと濡れている。ドアを開けたのは、美少女の高梨美晴だった。彼女は目を見開き、俺と雪乃を交互に見る。よりによって雪乃をいじめているグループの一員に見られてしまった。この場をどう乗り切ろうかと考えていると、高梨美晴が口を開いた。


「森田、あんたこんなとこで何してるの? 二人で、何してたの?」

【もしかしてこの二人、付き合ってるとかじゃないよね】


 高梨が声に出した言葉と、心の声のどちらに返事をするのが正しいのか一瞬分からなくなって、「いや、付き合ってねーよ」と俺は咄嗟にそう言った。


「はあ? 私そんなこと訊いてないけど。あんたたち、一体何してるの?」

「……雨だよ、雨。傘忘れたから、雨が止んだら帰ろうと思って。それより高梨は何しに戻って来たんだよ」


 我ながら上手いな、と思った。同時に今日が雨降りではなかったらと思うと、ゾッとした。


「ふうん。私は忘れ物を取りに来ただけ」


 高梨はそう言って自分の机の中から手帳を取り出し、鞄に詰めた。雪乃をチラリと見ると、猫のように興味なさげに欠伸をしていた。


「たぶん、雨止まないと思うよ」


 鞄を肩にかけ、高梨はそう言いながら窓の外に目を向ける。いや、雪乃を見ているのかもしれない。


【令美も傘、忘れたのかな】


 高梨は心の中でぽつりと呟いた。雪乃を名前で呼んでいるあたり、二人は本当は仲が良いのではないか、と勘繰る。


「じゃあね」


 高梨は小走りで教室を出ていった。ドアが閉められると、俺は安堵のため息をついた。冷や汗もかいていた。バレたのが井浦愛美ではなくてほっとする。雪乃は無言、無心で再び窓の外を眺めていた。


「なあ、雪乃って、高梨と仲良いの?」

【……どうして?】


 雪乃は振り向かずに訊き返す。


「あいつ、心の中で雪乃のこと名前で呼んでたから、仲良いのかなって思った」

【美晴ちゃんとは中学が一緒で、昔は仲良かったよ】

「やっぱりそうなんだ。今は? 仲良くないの?」


 それっきり雪乃の返事はなかった。よく考えてみれば、高梨は雪乃をいじめているグループの一員だ。仲が良いわけがない。悪いこと訊いてしまったな、と少し反省した。


「雨止みそうもないし、そろそろ帰るよ」


 俺は立ち上がり、ドアに向かう。

 そういえば、と思い出し、踵を返し雪乃の机の前まで歩く。


「これ、使っていいよ。傘、忘れたんだろ?」


 雪乃の机に、鞄から取り出した折り畳み傘を置いた。


【え……でも……】

「じゃあな」


 そう言って俺は、教室を出た。

 激しい豪雨の中、俺はびしょ濡れになりながら自転車を漕いで家に帰った。

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