スローフォール・スカイフィッシュ

楠木黒猫きな粉

スローフォール・スカイフィッシュ

真っ暗な部屋で俺は一人の少女と向かい合っていた。独特な雰囲気を醸し出している少女の白い眼は一点に俺を見つめていた。正直なところ此処がどこかもわからないし、この子が誰なのかもわからない。側から見れば俺が少女を真っ黒な空間に監禁しているようにも見えるが真実は逆らしい。数分前に少女が得意げに言っていた。

それにしても不思議な状況だ。俺を監禁した事を話した以外に彼女は一言も喋らなくなってしまった。死んでしまったのかと一瞬疑ったが瞬きはする。辺りを見渡そうが黒い壁に黒い天井、そして天井にぶら下がるシャンデリア位しか確認できなかった。脱出をしようと考えたが知らぬ間に俺を監禁できるような少女を押しのけられるとは到底思えない。一見して病的なまでに白い肌がこの空間の恐怖感を増幅させていた。

どうしたものか。頭の中で案をいくら出そうともそれを否定できる要因が多すぎる。思考が空転している気がする。人間はこうも簡単に冷静を失うことが出来るのか。はたまた俺が怖がりなだけなのかもしれない。下らない事を考えると少し落ち着いてきた。戯言でもたまにはいいのかもしれない。

詰まりそうになっていた息を吐き出し、もう一度状況を整理する。確か俺は部屋でグッスリすんやり寝ていて、起きたらこの黒い謎空間にいた。そして目の前にいた少女が俺を監禁したと自白。それから一言も発しなくなった少女。これが一番引っかかっている。何故俺を監禁した事を話した。それを伝える必要はあったのか。いや、伝える必要はあった。きっと俺の場合は混乱して騒ぎまくっていたはず。なら何故もう一言も喋らない。用済みなら脅すなりなんなりして口封じをした上で外に出せばいい。それなのに彼女はただ笑顔で硬直している。というより何故彼女は俺が騒ぐ事を分かっていたかのように事情を話した。伝えたところで騒ぐ奴だっているはずだ、けれど彼女は知っていたかのようにソレを話した。何度も同じ事をしたように説明慣れをしていた。そう考えた瞬間に俺の頭は小説のような話を思いついた。嘘とは言い切れない。けれど真実とも捉えがたい。ならばそれはきっと事実なのだ。小説よりも奇なり。実際に小説よりも奇怪な出来事に巻き込まれているんだ。もうなんでもありだろう。

「なぁ、君は誰だ?」

俺は覚悟を決めて問う。若干の震えを誤魔化せない声音と上ずった声が少女の耳に入っていく。少女は目を閉じて下を向く。三分にも感じられた三秒間の沈黙。ゆっくりと顔を上げ俺とは相対的な明るく落ち着いた声音で返答する。

「私達は空魚スカイフィッシュ

少女の口からは聴きなれない言葉が飛び出してきた。聞いた事はある物の名前だがこんな見た目では無いはずだ。自称空魚の少女は理解できていない俺の顔を見て補足説明を始める。

「空魚と言っても貴方達の知っているスカイフィッシュじゃないよ。私達の存在を簡単に説明すると御伽噺の存在かな」

余計に分からなくなった。存在が御伽噺だと言われても目の前に存在する彼女は現実で俺の目は幻覚を見る程壊れてもいない。もしかすると俺が見ていたモノこそが幻想で彼女が見ていたモノが現実なのかもしれないという三流ホラーのシナリオなのかもしれない。

「ごめん、いまいちよく分からない。どうして此処に存在している君が御伽噺の虚構になってしまうんだ?」

俺はもう一度少女に質問をする。それを空魚は首を振って否定する。そして言葉を噛むように咀嚼をした後に説明を再開する。

「私達は別に虚構じゃない。貴方達からは決して観測できない場所で現実に生きている。貴方達の目線から見れば私達は幻想で御伽噺みたいな存在だと思った。分かりづらかったのならごめんなさい」

空魚は頭を下げて謝罪する。しかし今の説明で大体は理解が出来た。俺達から見える場所からは観測できない世界があるらしい。見えなければそれは居ないモノだと考えるのは俺達の悪い癖だ。生きているモノにはそれぞれの現実があり、世界がある。俺達が空魚を観測できないように空魚も俺達を観測することができない。それならば何故空魚は俺を此処に監禁できたのだろうか。

「じゃあ君はどうやって俺を此処に監禁したんだ。見えないモノを当てずっぽうで掴んだのか?」

空魚はコクリと頷き、返答を始める。

「その通りです。私達は観測できない世界の誰かを手探りで捕まえました。私達からすれば観測できたとしても人間であれば誰でも良かったんです」

誰でも良かった。空魚は当たり前のようにそう口にする。そりゃそうだと納得する反面ショックもあった。何か理由が欲しかったのだろう。自分でなければならない理由。良し悪し関係なく『自分』という人間に価値を見出されることに期待していたのだ。

この場においての俺の価値は零に等しい。大多数の内の一つ。故に俺は下手な手を打てない。対話という手も選ばされていたのだ。逃げ場もなく生かす価値もないのならば従う事しができない。

「君は俺に何をさせたいんだ?」

本題であろう事柄を問う。空間を照らす光が揺れる。誰でも良かったと空魚は語った。価値のないただの一つでもできる事をさせようとしている。

沈黙が空気を彩った。空魚は困ったように目を伏せてただ思考する。

一分程度の時間が経った。唐突に空魚が目を開き口を開く。

「私達の昔話をしましょう」

続く言葉を待つ。これは聞かなければならない話なのだと理解する。問いの答えがあるとどこかで思い出す。

「気が遠くなるほどの昔の話です。一匹の空魚が貴方たちの世界に迷い込みました——」

その空魚は飛ぶ為の翼を作ることができませんでした。空魚にとっての翼とは生きる力そのもの。翼を作る為の水を摂取できなければ死んでしまうのです。

生命力の少ない空魚は群から離され、迷い子のように各地を転々としていました。

そんなある日です。突如として空と地の底に大穴が開きました。

それを見たのはしたのは独りの空魚だけでした。

好奇心だったのでしょう。彼はその穴を見つめます。天の大穴から一粒の水滴が落ちました。そしてそれに続くかのように巨大な水の塊が落ちていきます。

地の大穴に吸い込まれる水の塊を追って彼は心のままに世界から落ちました。

落ちた先の世界は崩壊していました。木々を薙ぎ倒す濁流が見たこともない生物達を殺していく。澄んでいた水たちは濁り混ざって怒りのように走っていきます。

茫然と眺める彼の目の前を一つの箱が通り過ぎました。大地すらも変形させる濁流に耐え、流れていく箱に彼は感動をしていました。

多くの命を乗せて流れるその箱は希望だと感じたそうです。

心が願いました。守りたいと。この不要な自分にも出来ることがあるのではないのかと願い考えました。

ただ感謝されたかったのです。生まれてきたことすら祝われなかった彼は心の底より願いました。

高尚な理由では無くとも命をかけるには値すると彼は考えました。

そうして彼は元の世界に戻り、仲間達だった者にこう伝えます

『あそこには一生かけても使いきれないような水があった』

その言葉は空魚達の生活圏を変えるほどに影響力のある言葉でした。

事実そこには何万もの空魚が一生をかけても使いきれない水がありました。

見たこともないほどに澄んだ水を我先にと喰らう空魚達。次第に地の底の大穴への落下は止まり、溢れた一滴が落ちる程度になりました。

彼は仲間から讃えられ無事に群れへの参加も許されました。

しかし、いつまで経ってもあの箱に乗っていた者達は感謝をしにきません。

それでも彼は待ちました。

——待ち続けて死にました

「おしまいです」

話を締め空魚はこちらを見る。きっと俺は間抜けヅラを晒していることだろう。この昔話に嘘は無かった。誇張も何もない本人から伝え聞いたかのように本物だった。

答えに至る。俺の問いの答えがこの昔話だ。俺を見ていない目を見つめる。

「感謝を求めるのか」

助けられた命の未来に空魚はそれを求めている。

人の形をした空魚は首肯する。慣れたように肯定する。

その動作を見て俺は理解する。何故空魚が人語を話し、理解できるのか。簡単な事だった。繰り返しているからだ。

「何度目だ。俺をここに連れてきたのは」

自分の愚かさを問う。

「百六十五回です」

一切の間なく空魚は答えた。俺は頭に浮かぶ疑問を吐く。

「お前達はなんで諦めなかった」

記憶にない過去の問答を繰り返す。頭での思考を捨てた問いだった。

空魚もまた慣れたように答えを吐きだす。

「偶然を信じたかったのでしょう。数多の無意識の中から選び取った偶然を」

信じたかっただけ。それだけだと語る。信頼とは程遠く信用にはなり得ない。

ただその奥に執念のようなものがあった。

「今の私達の現状を教えましょう」

空魚が立ち上がり壁に触れた瞬間だった。押し潰すような青が視界を埋め尽くした。

その中を空魚が飛ぶように泳いでいる。視界の上をぐるぐると回り、そして散る。

空を見上げる。呆れ果てるような蒼空に黒点が浮かぶ。あれが神の大穴だろう。

つまりこの水は神の怒りというやつなのだろう。

「今も神は貴方達の事を許してはいません。しかしその怒りもやがて鎮まります」

けれど、と空魚は言葉を詰まらせる。噛み締めたようにに口を開こうとしない。

違和感があった。きっと今の空魚が過去に縛られる原因がこれなのだろう。泳ぐ影を見つめる。陸のような緑が広がる場所を駆け回る小魚。老いぼれた成魚。そして諦めたように空を見る口を噤んだ空魚達。

「少ないな」

同情もあった。種が終わるその恐怖とそれを引き起こしている自分達への怒りに似た感情が少しだけ分かった気でいた。

だからこそ包み隠す事なく事実を口に出した。空魚は頷き初めて微笑んだ。

「このままでいれば私達は数百年後に滅びます。この水で必ず絶滅します」

掴み取った偶然にしがみつく程にこの種は終わり始めていた。

「純度が高すぎたんです。何年経とうがこの水は身体に適合しなかった。しかしこの水には身体を壊してでも取り入れたい理由があったのです。一瞬を一生懸命に生きるのに大切なモノ」

行き過ぎた物を身体に取り入れ壊れていく。毒を自ら身体に打ち込んでいるようなものだ。愚かだと思う。それでも彼らにも理由があったはずだ。俺たちにはきっと理解できない理由が。

「この景色を見て貴方が愚かだと笑うならそれでも良いと私達は思っています。それでも私達が貴方達に求める物は変わりません」

解放されたい。嘘を吐きたくない。誠実でありたい。絡まり過ぎた感情が心を縛る。求められた事に対する答えを俺は俺がして良いのだろうか。同族を騙してでも一つの感謝を求め続けた過去と終わってしまいたい未来を全て決定する神の様な存在に俺如きが成り代わって良いはずが無い。

それでもと感情が口を破る。破った口から溢れた何度も繰り返したであろう言葉に空魚達はわらった。

微笑みのままに空魚は願いの意味を教えてくれた。

「私達は生まれついて明日が見えない。だから未来に向かいたいこの願いは過去のものであっても私達に希望をもたらしてくれるはずです」

『一瞬を一生懸命に生きる』為だけに毒を欲した。生まれついて未来が見えない病気なら全ては今にぶつけなければならない。そして俺たちの今を守る為に死んだ空魚に向けた願い。

「そろそろ時間ですね」

空魚が告げた。それと同時に浮かぶような感覚が身体を襲う。

最後に別れを告げる。途切れ途切れの意識でも伝えるべき言葉を口は間違わずに吐いてくれた。

「さようなら」

瞬間意識は急速に浮遊した。夢から醒めるような感覚中で最後に視界が捉えたのは。ただ頷き微笑み、手を揺らした空魚の姿だった。



ポツポツと雨が窓を叩く音がする。目を覚ませばそこには少しボロい天井がある自分の部屋があった。

寝起きにしては良い覚醒感だ。きっと壮大な夢でも見たのだろう。

「雨か」

カーテンの隙間から覗く曇り空と落ちていく水滴。ありきたりでありふれたその景色がどうもおかしく感じた。そんな日もあるだろうと一蹴してはいけないとナニカが告げた。

ただ目の前で起こる普通の景色から目を逸らせない。

ふらつくような足取りで裸足のままに外に出る。水溜りに心を奪われる。雨が身体に当たるたびに心が縛り付けられる。

感動なんてありふれた感情じゃない。だからこそ言葉にしなければ解放されない。

雲の切れ間に飛び込むようで沼に足を浸けたようなモノが喉から溢れる。

口だけが動く。声なんて乗っていないただの息を吐き出す。

忘れている何かを必死に探り当てようと胸を押さえ喉を引き絞る。風が髪を撫でる。見つけようとした切れ間はもうそこにはなく灰色に埋め尽くされていた。小雨程度だった雨は勢いを増し身体を叩いた。

音にもならない叫びが泥に塗れた足を動かした。忘れてしまえば楽になれる。けれど自分がそれを選んでしまえば人ではなくなる気がしている。

断片をひたすらに思い出す。夢だと錯覚できそうにもない鮮明すぎるその景色に手を伸ばす。皮膚に爪が立ち現実な痛みが夢を拒んでいる。過去に縛られた誰かに言葉を。嘘を吐き続けた未来に言葉を。

景色の断片をつなぎ合わせる。空を泳ぐ影と黒い大穴。そして今を悲しんだ誰かの姿。

「……空魚」

誰かの名前を見つけた。それが夢の住人だと理解するのに時間は掛からない。その名前が記憶を引き摺り出したからだ。

俺が思い出すべき事柄は一つだけだった事を思い出す。求められたことも願われたこともこの言葉だけで叶えられないだろう。当たり前だ。不釣り合いも良いところなのだから。

彼等は一度だけ本当を吐いた。弱音とも取れる本当が俺が言う言葉の軽さを教えてくれた。空魚達は嫌がっていた。きっと誰よりも自分達の種を愛しているからだ。種を滅ぼす為の嘘を吐き続ける。全ては過去の嘘を許される為、そしてもう戻る事のできない命に謝る為。

空魚達は「疲れた」と言っていた。何もかもを許されたいだなんて思っていない。嘘を吐いた自分達を戒めたいだけなのかもしれない。偶然に縋り過去の嘘を改めようともしない。種を終わらせる選択を彼等は選んだ。今を生きることしかできない空魚達が見たたった一つの未来。

きっと空魚達は人間を守ったことなんて知らないままに死んでいく。そして空魚という種が終わる時は怒りが鎮まる前のはずだ。

俺達も空魚達も両方平等に終わる。空魚達が滅べば俺達も滅ぶ。だからこそ彼等が求めたのは未来だった。どうしようもない未来を少しでも楽に選ぶ為に過去を払う。

彼等に届かない手を伸ばす。身体中から痛みがする。また同情をしている。可哀想だと思ってしまう。

雨が強く降る。街を濡らしていく。

人々は傘をさし鬱陶しげに歩いている。風と雨が人々を襲い、子供ははしゃぎ大人は舌打ちをする。雨が好きな奴らは傘を捨て全身でそれを浴び続ける。

そんな何処にでもありそうな風景が悲しかった。全てを忘れてしまいそうだったから。

雨を浴びる。芯が冷えていく。そうして今を確認する。少し呼吸を整える。涙が溢れそうになるが抑え込む。

そうして今を見つめた。

「ありがとう」

ただ空を仰いでいた。

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