Gin
図書館からの帰り道、友人が手招きしていたので、無視するのも忍びなくカフェに立ち寄った。
読書後で麻痺していた脳の選択を、僕は後悔した。
「この世界にはもともともっとたくさんの色があったんだよ」
「何が言いたいのかわからないな」
「ほら、これ、何色だ?」
友人は木製机の上に立って、遠慮なしに街路樹の葉をちぎり取った。
こいつ興奮しすぎじゃないか。裸足だし。
靴を履けよとは言わずに、質問に答える。
「緑、だろ」
「違うんだよ」
「……何色なんだよ」
「オウリョクだよ」
あ、でもアオヤナギだっけ。とにかく、緑色じゃないんだよ。
と、そう必死に言われても、緑は緑だ。
俺の知っている緑は、葉っぱの色で、草の色で、あとは、何かあるかな。
最近よく見かける虫とかも、緑色だったっけ。保護色という意味で緑の体色をした生物は多いだろう。元を辿れば緑とは植物から生まれた色なのか。植物以外で緑色って何かあるかな。あれは葉緑体の色なんだよな。なんで緑色なんだろうな。いや、好きで緑色になったのではないのだろうけれど、他の色じゃダメだったのかな。スペクトルとか、そういう話はよくわからないしな。緑は青と黄色を混ぜればいいんだよな……。
思索に耽って目を背けていたけれど、現実はまだそこにいた。
友人がいつまで立ってもよくわからないことを説明し続けているという現実。
現実という友人がそこにいるのかもしれない。いや、よくわからないな。
友人は友人だ。名前は知らないが。
このカフェに群がる変人の中でも友人は特に目立っていた。
周囲の視線が僕にも注がれるのを感じる。
虚しい独り言を止めてやるのは、僕の役割なのかもしれない。
「わかった。ああ、わかった。じゃあ何が違うのか教えてくれよ」
「何が違うのかは俺もわからないけどさ、なんで違うのかはわかるぜ」
「じゃあなんで違うんだよ」
「世界は分岐するたびに色を失ってきたんだ」
「帰る」
「やっぱり?」
「どうせまた変な本でも食ったんだろ」
「いやいや、最近は化学製法じゃなくてオーガニックなやつ使ってるぜ」
人間はセルロースのみで生きるものにあらず。というかセルロースから栄養を得ることはできないはずなのだが。
最近そういう技術ができたとかできなかったとか聞いたけれど、もしかして実験台にでもされたのだろうか。
妄想の中で友人がモルモットにされているのを、ただ見ていた。
今、僕はどこにいるのだっけ。
妄想じゃなくて、現実に、いる。
ガラスで覆われたカフェの中で、小さな音が集まって、洪水のように押し寄せてくる。
その中から、友人の声だけを拾いとる。
「ほら、これこれ」
友人がアルミ製デスクの上に本を出した。
小さい、手のひらに収まるくらいの文庫本。そこそこの厚さはあるが、ハードカバーなだけで、ページ数はそれほどない。
ように見える。
「NZ産だぜ。$19.99もする」
「日本円でいくらなんだよ」
「知らん」
「知らんのかい」
「だって俺が現地で買った本じゃないからな」
「じゃあ誰の本なんだ? まさか図書館から持ち出してきたのか?」
「そんなことはしないし、誰が買ったのかもわからないが、ここに値段が書いてあるだろ」
本を裏返し、裏表紙の右下隅に、紙のラベルテープが貼ってあった。
確かに$19.99だった。
「それがどうしたんだよ。いくらしようと本は本だし、どこ産でも本は本だ」
友人は目を丸くして、確かに、と驚いていた。
色がどうだのいう前に、もう少し自分を顧みて欲しいものである。
「じゃあな。もう帰るぞ」
「おう。俺も帰る」
「まだコーヒー残ってるけど」
「一口飲んで苦いとわかった」
「そのためだけに飲むんだったらエスプレッソ頼めよな」
「それはコーヒーか?」
「ああ、少量でとっても苦いぞ。お前のためにある」
「じゃあ次はそれを頼むかなー」
すみません、お会計、と友人と共に席を立つ、と思ったが、ポケットに手を突っ込んだまま、友人が動かない。
「あ、しまった」
どうしたのだろう。
「$しか持ってない」
友人、の向こうの窓ガラス、の向こうには黄色い木の葉が揺れていた。
「……? 別にいいだろ」
「いや、今見たらここのメニュー、日本円表示なんだよ」
「なんで日本円なんだよ」
よくわからない店だな。わかりやすいようにして欲しいものだが、日本円の方が雰囲気がオシャレだとでもいうのだろうか。
……?
「時計を見てみろ。ここは日本だろ」
小学校から使っている水色の腕時計を見た。確かに日本だ。
「俺は腕時計をしない」
「ほら、あそこにあるだろ」
いや、おかしいな。
「ああ、本当だ。でも時報の時間じゃないぜ」
「それが不便だから腕時計を使うんだろ」
日本で日本円を使うのは当たり前だろう。
「じゃあ今度おすすめのやつ買いに行こうぜ」
「嫌だよ」
でも別に$でもいいような。
……おかしいな。
眉間を抑えて考え込む。
友人は図書館のスタッフを、いかにも困っているという表情で呼び止めていた。
そうだ、人に聞いてみればいいんだ。友人の考えなしの行動もたまには役に立つ。
スタッフは笑顔で友人に説明をしている。
「$ではいけませんね」
「あちらの両替機をお使いください」
カウンターで手続きを行っていた友人は、どうやらまた一から並び直さなければならないらしい。
「勘弁してくれよ」
「準備してなかったお前が悪い」
「だってまだ日本だぜ。なんで両替しなくちゃいけないんだよ」
法律とかよく知らないけれど、港という境界線上にいるのだから、どちらでも対応できるようにしておくべきだろう。
「それより、お前パスポートは持ってるのか?」
「当たり前だろ? 馬鹿にするなよな」
友人は赤い表紙に花の模様が描かれている本を出した。パスポートだ。
「今どこから出した?」
「ポケット」
「危ないからパスポート入れとか、せめてカバンの中にだな」
「お前何色にした?」
パスポートの色でいちいち騒ぐな。
「……黒」
「お前黒好きだもんな」
「それより早く並んでこいよ」
「おっと。じゃあ搭乗口で会おう」
なんだかな。先が思いやられる。
友人を置いて一足先に搭乗手続きを進めた。
荷物ってどこまで出せばいいのかわからないから困ったけれど、丁寧すぎるくらい全部トレーに出して、検査を突破。
待合室というのか、ロビーというのか。
今、僕はどこにいるんだろう。
部屋の隅の方、空いている席に座り、中庭を眺める。
赤い葉を揺らす庭木と、どこから迷い込んだのか、黒い鳥が二羽。
「お待たせ」
友人も検査を終えたらしい。
「やっぱり、黒だろ」
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