第26話 高木と水族館へ

 早退した次の日、爽太は朝早くに学校に着いていた。下駄箱の前で緊張した面持ちで立ちすくんでいる。右手には、白い便箋を手にしていた。裏には『そうた』と差出人の名前が書いてある。


 登校してくる生徒達は周囲にはいない。手紙を入れるなら、今しかない。


 心臓が大きく脈打っているなか、爽太は覚悟を決め、ゆっくりとアリスの下駄箱を開いた。

 そこには、赤いラインの入った上靴があった。


 ドクン、と鼓動が一段と大きくなる。


 震え出した右手で何とかアリスの上靴の上に手紙を載せた。その瞬間、爽太の顔が急激に赤くなっていく。デートのお誘いを書いた手紙を入れたことに恥ずかしさが込み上げてくる。

普通、こういうのは女子がやるものだと思っていたからだ。まさか、自分がすることになるとは……。だが、アリスに手紙を渡すためだから仕方がない。もし、アリスの机の中に入れたら、気付かずそのまま放置されるかもしれない。だから、すごく目に付く分かりやすいところ、下駄箱に入れようと決めたのだ。


 爽太は無事にひと仕事を終えると、アリスの下駄箱の蓋をそっと閉めた。そして慌てて自分の下駄箱を開け上靴に履き替えると、駆け足で校舎へ向かった。


 自分のクラスには誰もいなかった。それはそうだ、まだ朝の8時前なのだから。シーンとした空気は、高ぶった気持ちをいくぶんか鎮めてくれた。爽太はとりあえず自分の席に着くと、ランドセルを机の横にかけた。


「はぁ~……、緊張した……」


 椅子に深く腰掛けると、どっと疲れが込み上げてくる。


 昨日、自分の部屋でアリスに渡す手紙を書くのにすごく時間がかかった。書き慣れない英文に苦労したからだ。まず、書き順が解らない。何回も試行錯誤して、やっと読めるようなアルファベットを書けるようになった。それまでは、古代の遺跡文字のような解読不能なものばかり書いていた。


 アリス、俺が書いた英文をちゃんと読んでくれるかな。また、勘違いするようなことにならなきゃいいんだけど。で、でも、ちゃんと何回も見直して、書いたんだ。きっと大丈夫。


 すると、教室のドアが開いた。


「あっ……」


 高木が爽太に気づき声を上げた。

 爽太が息を飲む。


「ふ~ん……」


 高木は何やら口元を緩め意味深に頷くと、爽太のところには行かず、自分の席に行ってしまった。

 

 うっ、高木のやつ。きっと気付いてる。俺がなんで朝早くに学校に来ているのか。


 爽太が顔を赤くしていると、しばらくして何人かのクラスメイトが登校してきた。そのなかに細谷もいた。


「あっ! 爽太くん! おはよう」


 嬉しそうに近づく細谷に、爽太は作り笑いを浮かべた。


「お、おう」

「体調はばっちりって感じ?」

「ま、まあな」

「そっか~! 良かった。でも、病み上がりだから無茶しないでね。……あっ、あとね――」


 細谷が急に小声で、囁いた。


「昨日、僕が訊いたこと、き、気にしないでね」

「えっ?」


 細谷は少し慌てた顔をしながら、早足で自分の席にいってしまった。

 昨日訊いたこと、きっと高木とのデート練習についてだろう。

 爽太の額に嫌な汗が滲む。

 細谷は、誤解をしている。だからちゃんと説明したい。高木のことは何とも思っていないと。だが、上手く説明できる自信がない。それなら……、もう変に説明せず黙っといた方が良いかもしれない。

 そのあとも、何人かのクラスメイトの男友達が、心配していた、と声をかけてくれた。爽太は、苦笑いで昨日の騒動を謝った。


 そして、その時は突然来た。 

 ある一人の生徒が教室に入ってきて、爽太の目が引き付けられる。

 綺麗な金色の髪をなびかせ、まるで西洋の人形のような整った目鼻立ち。でも丸みを帯びた瞳や、淡い桜色の小さな口が、少女らしい愛らしさを感じさせる。気品と愛着さを兼ね備えたアリスが、教室に入って来たのだ。


 アリスが、すぐに爽太の視線に気づいた。アリスの丸い瞳がいっそう大きく見開く。一瞬、嬉しそうな表情を見せたのは気のせいだろうか。

『爽太くんは大丈夫よ~、って感じで伝えたら、嬉しそうにしてたわよ~』

 昨日、保健室の先生が言っていたことがよぎる。

 でもそれもつかの間、アリスの顔が急に赤みを帯びていく。

 爽太の鼓動が早くなる。確信した。アリスは、手紙をちゃんと受け取ってくれたのだ。もう、読んでくれたかな。いや、それはいくらなんでも早すぎるだろ。

 アリスが、ぎこちない足取りで爽太に近づく。小さな手が水色のスカートの裾を強く握っている。目線は俯き加減で、爽太に視線がいかないように必死に堪えているかのようだった。

 アリスは静かに自分の席にまでたどり着くと、そろりと腰を下ろした。心なしか、体が正面ではなく斜めになっている。爽太から体を背けるように。

 爽太の顔が熱くなる。

 ど、どうしよう。なにか、声をかけた方がいいのだろうか。だが、かける言葉が見つからない。手紙のことを聞きたい。でも、そんなこと、き、聞けない。


 そうこうしているうちに、予鈴が鳴り響いた。担任の藤井教諭が入ってくる。

本鈴がなり、いつもの朝のホームルームが始まった。

 それが終わると、アリスはいつものように慌ただしく立ち上がり、別教室で授業を受けるため去っていく。

 このままでいいのか。爽太は、アリスの背中を力の入った目線で追う。


すると、


くるり。


えっ?


いつもはそのまま出ていくアリスが、振り向いた。爽太の方へ。


ア、アリス……!?


するとアリスが恥ずかし気に、小さく口を動かした。


 爽太の鼓動が激しくなる。手紙の返事のような気がした。でもそれが、デートOKなのか、嫌なのか、分からない。


アリスがすぐ身をひるがえし、教室から出ていった。爽太のなかで、もやもやした気持ちが湧き出てくる。そしてその気持ちは、高木とのデート練習当日まで持ちこされることになった。


                  *


 土曜日の昼下がり。時刻は午後の1時30分になろうとしていた。もうすぐ待ち合わせの時間だが、水族館の近くの、イルカの石像がある噴水に、高木はまだやってこない。

 高木のやつ、ちゃんと来るんだろうか。

 爽太はぼんやりと思いながら、おもむろに天を仰いだ。

 晴天。綺麗な青空に、初夏らしい陽光。だが、気持ちがあまり晴れない。


「アリスから手紙の返事、もらえなかったな……」


 爽太は誰に言うでもなくぽつりと呟いた。

 木曜日の朝に、アリスの下駄箱へ手紙を入れた。その日のアリスは、自分に対していつもより緊張度が増していたから、手紙を受け取ってくれたと分かる。返事を次の日にでも貰えるかな、とドキドキしたが、結局返事は返ってこず、高木とのデート練習を迎えてしまった。


「はあ~……、もしアリスから、NOの返事をもらっちゃったら……」


 爽太は一旦言葉を止め、しばらく考えた後、弱々しく無気力に呟いた。


「このデート、意味ないよな……」

「いきなりムカつくこと言ってくれるじゃない?」

「へっ!?」


 爽太が慌てて視線を声の方へ向けた。そこには、顔をしかめた高木がいた。

 両手を腰に当て、こちらを見据えている。赤いラインの入った白を基調としたスニーカーに、淡いベージュの膝丈パンツ、英語のロゴが入った白のTシャツの上に、丈の短いデニムの半そでシャツを羽織っている。そのボーイッシュな服装がなんとも高木らしく、栗色の短い髪もその雰囲気に合っている。

 普段、学校で会うのとそう変わらなかったので、デートで身構えていた気持ちが、少しほっとした気がした。


 爽太はおもむろに口を開く。


「急に出てくんなよ。ビックリするだろ」

「別に急じゃないし。あんたが空なんか見てぼーっとしてるから悪いんでしょ。それより何なの? 私とのデートが意味無いって?」

「えっ? いや、あの、それは……」

「はあ~……、さっそく減点よ。デートに来てくれた女の子に、普通いきなりそんなこと言う?」

「いや、あの、これには理由が……」


 高木が鋭い目線で睨む。爽太は息を飲んだ。


「はい……、すみません」


 爽太が謝ると、高木がやれやれといった表情を見せた。


「まっ、あんたがそんなこと言った理由も分からなくもないけど。アリスちゃんから、返事まだもらえてないんでしょ。聞かなくても分かっちゃうわ。ほんと、分かりやすいわねっ」


 うっ、まさにその通りです……。


「まっ、アリスちゃんの返事について今ここでうじうじ考えても、答えは出ないわよ」

「そ、そうだけど……、でも、さ……」


 爽太のなんとも煮え切らない様子に、高木の手が振りかぶった。


「えいっ!」

「つっ!?」


 爽太の背中に衝撃が走った。強烈な痛み、高木が背中を思いっきり、平手打ちしてきたのだ。


「な、なにすんだ!?」


 爽太が眉根を寄せ怒りをあらわにする。しかし高木は、そんなことを気に留める様子はない。軽快に口を開いた。


「さてと! さっさと行くわよ。何のために今日ここに来たのよ。ほら、デートでしょ! デート!」


 高木の言葉に、思わず慌てて口を開いた。


「お、おい! そんな、何回も言うなって!? ま、周りにき、聞こえる!」

「あれえ~? 何照れてんの? ふんっ、お可愛いこと」

「だ、誰が照れるか!? 誰が!!」

「はいはい。じゃあ、さっさと行くわよ」


 高木がそそくさと水族館へ歩いていく。


「あっ! お、おい! 高木! 待てって!」


 爽太は慌ててかけより高木の側にいく。

 不思議と、気持ちが軽かった。もしかして、高木のやつ。俺を元気づけてくれた? そう思うも、背中のじんじんとする痛みがつらい。やっぱそんなわけない。というかムカついてきた。

 すると、高木がこっちを向いた。にやりと笑う。


「ちゃんとデートらしいことしなさいよ。私をアリスちゃんと思って」

「うるせっ! てか、アリスと思えねえよ。このブス!」

「なっ!? 何ですって!? このバカッ!! アホッ!!」


 爽太と高木は、はたから見て到底デートの練習とは思えない、いがみ合った様子でチケットを買い、水族館へと入っていった。

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