第2話 宋国 央都 夏

 遠慮のない夏のある日、普段身崩れを起こさないサミュエルも暑さには耐えかねるといった風に女物の扇子で顔を仰いでいた。

「それにしても、君が、この夏の央都にいるのは珍しいね」

 サミュエルに声を掛けられたロバートは首をすくめ、

「大した用はないのだけどね、なんだか、無性に央都に来なくてはいけないような気がしてね」

 そういって、出かけて汗だくとなったベストを脱いで椅子の背に掛けながらため息をついた。腕まくりをして椅子に座り、家政婦のマルガリタが入れてくれたレモン水を飲み干した。

「夏の央都は、想像以上に暑いんだな」

「今年が異常なのさ。この暑さのせいで死者が出ている。まぁ、人間もバターか何かのように溶けそうなほどだからね……それにしても、」

 サミュエルは少し考え、そのうっとりするような横顔をロバートに向けた。

「君、さっき、なんだか、無性に央都に来なくてはいけない気がした。と言ったかい?」

「……ああ、それに近いことは言ったと思うよ」

 サミュエルは「ふむ」唸ってから、机のふたを開けて中から「白紙の本」を取り出した。

 サミュエルが面白そうに読んでいたので、以前ロバートがそれを開けてみたが、どのページも白紙の、ただ、紙は上等な分厚いだけの本だった。それを再び取り出すので、ロバートが怪訝そうな顔をする。

 サミュエルはパラパラとページをめくって、眉をひそめた。

「なるほどねぇ……ねぇ君、最近何か面白いことか、何か面倒に巻き込まれていないかい?」

「なんだい、急だね? 面白いことも、面倒も別に何もないけどね」

「じゃぁ、エレノアか、ライト君あたりが持ってくるのかな?」

「何をだい?」

「面白いことをさ」

 ロバートは首を傾げる。

 サミュエルは時々変なことを言い出す。それがいずれ正しいと解るけれども、「現状では不謹慎、あるいは、不適切」なことが多いので、ロバートはこれもその類なのだろうと適当に返事をした。


 家政婦のマルガリタが勢いよく戸を開け、

「どなただと思います?」

 と言ってきたので、ロバートは黙って立ち上がった。

「そうですよ、エレノアさんです。ほら」

 そういってマルガリタが居間にエレノアを案内する。栗色の髪はきれいにまとめられ、半年ぶりの再会だが、相変わらずきれいだ。以前の茶色のくすんだ服ではなく、青い服を着ていた。

「マルガリタが作ってくれたの」

「娘ができたら着せる予定だったからね」

 と、とても楽しそうな顔のマルガリタはお茶の準備に部屋を出て行った。

 エレノアも椅子に座り、

「暑いですね。本当に」

 と白いハンカチで額を抑えた。

「それで?」

 サミュエルが聞くと、エレノアは首を傾げた。

「用があるのでは?」

「そう、そうでしょう? 私も、何か用があれば、こちらに寄れるのでしょうけど……。何故かしら、今日は、特別用はなくて。でも、なぜだか来たくなったの。いけなかったかしら?」

「大丈夫。サミュエルは面白いものを期待していただけだから」

 ロバートがすぐにエレノアの手を握った。

 サミュエルは「ふむ」と唸り手の甲に顎を乗せた。


 激しくドアを叩く音。

 執事のジェームズが応対に出たようだが、すぐに戸が閉まった。

「サミュエル様、よろしいでしょうか?」

 と言って入ってきたジェームズの手には手紙を乗せた盆があった。

「それは?」

「先ほどの、あの不躾なドアを叩いたものが押し付けていったものです」

「どんな人だった?」

「女性でした」

「女性?」

「はい。茶色のトレンチコートに、ホンブルグを深くかぶっていました。背は、私の胸ほどで、」

「ちょっと待った。ジェームズ」

「はい、なんでしょうロバート様」

「いや、トレンチコートに、ホンブルグでは、男かもしれないじゃないか」

「あぁ、それは、その人から、スイート・フィグの匂いがしましたから」

「そういえば、今年流行りの、モカ・ダジュルのスイート・フィグの香りがしますね、」

 とエレノアが手紙の顔を近づけていった。

「モカ・ダジュル?」

「ええ、お店の名前ですわ。今年のバレンタイン前にお店ができて、香水とか、下着なんかを売っているお店です。結構人気なんですよ」

「あなたもそこへ行って買い物をするんですか?」

 サミュエルの言葉にエレノアは顔を赤くし、

「まさか、私のお給金ではとても。でも、結婚をする同僚のために、みんなでお金を出し合って、結婚式でつける新しいブルーリボンを贈りましたわ。その時に見たんです。

 スイート・フィズはとても甘いイチジクの熟した匂いなんですよ」

 サミュエルが手紙を鼻に当てた。

「確かに、イチジクフィグの匂いがしますね」

「それで女性かぁ」

「さようです」

 ジェームズの言葉にロバートは感心したようにジェームズを見上げる。

「他に気になるところは?」

「顔を見られたくないのかと思いましたが、そうではないようです。ですが、人目を気にしているような、どう申したらいいのか……こそこそしているようにも見えたのですが、しかし、怪しい気配は全く感じられないばかりか、一瞬、幽霊かと思ったほどで、」

 ジェームズの最後の言葉に三人が驚いた顔でジェームズを見た。

「人の気配が薄かったのです」

「……私は、ジェームズお前もかなり薄いと思っているが?」

「それでも、サミュエル様は私がいるのを察してくれます。しかし、戸を激しく叩かれ出てみましたが、そこに居ると解るのは、目に見えているだけで、感覚としては居ないような気がすると、どう説明していいものか、」

「つまりは、幽霊なのだね?」

 ジェームズは困ったように頷き、サミュエルは仕事に戻っていいというとジェームズは部屋を出て行った。

「幽霊からの手紙だって?」

 ロバートが悪ふざけをする少年のような言い方をした。

 エレノアが嫌そうな顔をして、手紙のほうを見た。

 ロバートも身を乗り出し手紙の封が切られるのを待った。ふと、サミュエルが先ほどまで見ていた本が気になり本へと目を向けた。


(あの本は……タニクラ ナルの本だ……そうだ、そうだ)


 ロバートの目がサミュエルのほうに向くと、ロバートを見ているサミュエルの目とかち合ったが、サミュエルは何も言わずに手紙を広げた。

 中には白い便箋一枚に、ひどい字で


【オリバー・ジャクソンの死は自殺ではない、彼は、】


 と書いてあった。

「書きかけ、だろうか?」

 ロバートがやっと言った。

「そうだと思うが、そんな未完成な手紙を急いで寄越すかい?」

「急いでいる?」とロバートが聞く。

「さっきのドアの叩き方は急いでいる証拠だろう? あんな叩き方をするのは、次に配達を控えている配達員か、急患の患者を背負っている親だけだよ」

 ロバートは「確かに」と唸り、手紙を受け取ってすかしてみたりしたが、いたって普通の紙だった。

「それにしても下手な字だ」

「ところで、オリバー・ジャクソンというのは?」

 サミュエルの問いかけにエレノアが驚いたように目を見開き、

「まぁ、ご存じないの? そうね、サミュエルなら知らないかもしれないわね。

 オリバー・ジャクソンは俳優だったの。すごくいい役者だと評判よ。私も一二度見に行ったけれど、上手だと思うわ。

 セルドア・リーセット作の古典劇『なぜ死なせてくれないの?』という舞台の最中に自殺をしたの。数日前よ。その知らせがあまりに突然でみんな驚いていたわ。だって、舞台は大成功で、クリスマスにも大きな仕事が入ったって言っていたのよ。

 舞台の評判はとてもよかったし、千秋楽を迎えた後、一週間後には再演のスケジュールも組まれていたの。それなのに、千秋楽すら迎えていない日によ」

「自殺、なのかい?」

「そのような新聞の書き方だったわ」

「自殺をする原因は?」

「それはまだ解らないみたい」

「死因は?」

「それも、」

 サミュエルが指を組んで背もたれにもたれた。

「もし、オリバー・ジャクソンが自殺でなかったとしても、それをなぜサミュエルに? 新聞社になら分かるよ。警察じゃぁ相手にしてもらえなかったとかいう理由でね? だが、あれほど激しく叩いて、君に何をさせたいんだろうね? 君は有閑貴族だろう?」

 サミュエルは口の端を上げる。サミュエルは仕事はしていない。名家での報酬が出るので働かなくていい身分なのだ。したがって、近所からは、有閑貴族。と言われている。たまに出歩いている姿を見ても、散歩に行くくらいだろうとしか思われていない。

「そんな君のもとへ何故持ってきたのだろうか?」

 ロバートはそういって、ふと「白紙の本」を思い出し顔をあげた。

「そうよねぇ。……あ、ライトさんと顔見知りだから、というのは考えられないかしら?」

 エレノアがライト記者の名前を出したので、ロバートは妙に納得いった。

 ライト記者は、いつもの上着を着ている。薄汚れた深緑に、茶色い文字(もともとはもう少しきれいな深緑に、黄色い文字のようだが、どこへでも出入りするライトが着ると、そういう色に変わるようだ)上着はかなり目立つ。

「では、これはライト君に渡しておこうか?」

「いや……、こんな解らないものを渡されても、ライト君も困るだろう。……それに続きが来るかもしれないからね」

「……僕は、いたずらだと思うがね」

 ロバートの言葉にサミュエルは口の端を上げただけだった。


 夕食後に帰宅するエレノアを送り届けてロバートが帰ってきた。

「一応、ポストを見たけれど、手紙はなかったよ」

「ポストに入れて置くのなら、あれほど激しく戸は叩かないはずだよ」

「そうだが、もしもって思ってね」

  ロバートはそういってコーヒーをサミュエルに手渡した。ジェームズがサミュエルのためにポットに作り置きしていたものを注ぐと、ふわりと香ばしい匂いがたつ。だが、ロバートはコーヒーのその匂いよりも、紅茶のほうを好んだ。

「さて、」

 サミュエルはカップを受け取り、ロバートがソファーに沈んだのを見て言った。

「君は、なぜ、あの本が気になるんだい?」

 サミュエルの言葉にロバートはまっすぐに「白紙の本」を見た。

「君は言っていたよね、何も書かれていない本に興味はないと。実際、君はいつ来てもあの本には興味を示さなかった。ある条件を除いては、」

「条件?」

「質問で、質問を返さない。

 さぁ、なぜ、あの本が気になるんだい?」

「……解らないねぇ。でも、目に入るんだ。いや、見なくてはいけない気がする。と言った感じだろうかね?」

「見なくてはいけない気がする? それはかなりの脅迫だな」

 サミュエルは机に行き、本を取って座った。

「僕も不思議とこの本が気になり何気なしに開いた。君も開いてみてくれ」

 そういわれて本の背表紙を右手に乗せ、左開きにしようと傾けたのに、本は自然ととあるページをさっと開いた。ぱらぱらとめくれて開いたのではない。意図してそのページが開いたのだ。ロバートがサミュエルを見る。サミュエルは首をすくめるので、ロバートはそのページを見た。


映想鏡えいそうきょう。その昔、目をつぶされた男が、目をつぶした相手を呪うために作った鏡。自分だけを見つめてくれるようにと呪いながら作った。あろうことか、それに同調した妖魔に魅入られ、鏡は妖魔化してしまい、『願いが叶う魔法の鏡』として世に存在している。らしい。

 あいにくと、私は見たことがないので噂話をまとめたに過ぎない。そして、この鏡をどうすれば解決できるのかも、私は知らない】


「これが?」

 ロバートが聞き返すと、サミュエルは首をすくめる。

「だが、何かしらのことがあるのだろうね」

「……これは、これは一体何だっけ?」

「それはタニクラ ナルが書いた本、いや、日記かな?」

「タニクラ、そう、そうだよ、タニクラ ナルだ。経歴はどうかと思うが、……異世界からこちらの世界にやってきて、南の濁国を妖魔から救い、妖魔の血を飲んだばかりに半妖となって永遠に生きている。その姿は17歳のころのままで、そうだ、一度会っている。何故覚えていなかったんだろうか? いや、覚えているのに、」

 ロバートは眉間にしわを寄せる。

「どう言った力か不明だが、君は事件が終われば妖魔のことすら忘れるようになっている。今、ここで話していても、戸を出た途端タニクラ ナルを忘れるかもしれない。妖魔の存在もおとぎ話程度には記憶は残るかもしれないが、すっかり忘れるかもしれない」

「なぜ?」

「……難しいことを聞くね。僕はタニクラ ナルではないし、この本を通して、僕や、君に念を送れるようなじゃない。

 だけど、もし、僕なら、君には平穏で暮らしてほしいと願う。妖魔も、タニクラ ナルも忘れて、宋国の由緒正しい貴族でいて欲しいと願う。そのためには、こんな記憶は普段ないほうがいいんだよ。

 だから、忘れさせる」

「だが、思いだしたよ」

「それは、これから、……危険が起こるだろうから、注意喚起の意味を込めて記憶を呼び起こさせたのだと思うね」

「……この、鏡が、悪さをすると? だが鏡だ。鏡は勝手には歩けない。それに鏡などをそんなには見ないよ。男だからね、せいぜいタイを結ぶときとか、」

「髭を剃る。帽子の形を決める。エレノアに会う前に笑顔を作る。人は結構鏡を見るよ」

 エレノア限定で出してこられてロバートは少し顔を赤らめたが、

「確かに、そう言われると、なにかのときに鏡を見るかもしれない。じゃぁ、知らぬ間にその映想鏡という鏡を見ているのだろうか?」

「では、ここは鏡の中の世界ということになるがね?」

「あ……。その鏡は、何をしたいのだろうか? 人を鏡の世界に閉じ込めるだけが目的じゃないだろう?」

「さぁね。君が言ったとおり、鏡はただの鏡だ。思考があるとは思わない。最初の、製作者の(というもの)が、【僕を見つめていて欲しい】というもので、それだけのためだけに閉じ込めているのならば、」

「いや、それでは」とロバートが話を切る「願いが叶うというのはどういうことだい? 美しくするのはなんとなく、出来そうな気がする。そんな風に見せるように映すという点で。例えばだが、金持ちや、誰かを呪い殺すなどというのは、鏡にできるだろうか? いくら妖魔だとしても、歩けない鏡の妖魔だぞ?」

 サミュエルは唸り、背もたれにもたれる。

「確かに、君の言うとおりだ。一体、どういう仕組みになっているのだか」

「訳の解らない代物だ」

 ロバートの言葉にサミュエルも同意して頷き、

「だが、わざわざ、あの、タニクラ ナルが力を使ってこれを送ってきた以上、気を付けるに越したことはないだろうね」

「鏡にかい? 鏡に気を付けると言っても……町中どこにでも鏡はあるよ」

「そうだな」

「どんな鏡なのだろうかね? 最近はコンパクトと言って、掌の中に隠れるほど小さい鏡があるそうだよ。

 社交界で、女性たちがこちらに背を向けて話しているだろう? だが、こっそりとその掌の中に鏡を忍ばせておいて、こちらの様子をうかがっているのだそうだ。

 女性が見ていないからとだらしのない男は嫌われるのだそうだ」

「ますます嫌な社交界せかいになったもんだ。だが、一件だけの事例で注意喚起をするわけはないのだから、たぶん移動できるほどの大きさだろうね」

「移動できる大きさねぇ。手のひらから、姿見までかい?」

 あまりにも範囲が広いと二人は首をすくめた。















 

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