狼に願う

山本アヒコ

狼に願う

 人里から離れた山道を、一台の馬車が進む。御者がひとりと、馬車を先導する者がもうひとりだけ。他に人影は見えない。今は夜であり不用心に思える。

 今日は満月だったが薄い雲によって隠れていて、届く光は心もとない。明かりは馬車に吊るしたランタンと、先導する人間が持つ松明のみ。周囲は背の高い木々に覆われていて薄暗い。暗闇から今にも獣がでてきそうだ。

「来るぞ!」

 先導していた男は鋭い警告の声を放った。その瞬間、横へ跳ぶとさきほどまで男が立っていた場所へ矢が突き刺さった。

 男は突然の事に驚く様子もなく松明を手放すと、腰から剣を抜いて構える。御者も冷静に馬車を停止させていた。彼らがこの状況に慣れていることがわかる。

 暗闇の中、木と草の中に物音もたてず隠れていた盗賊たちが騒ぐ。彼らはこのあたりの山を根城にしている盗賊団だった。数年にわたってこの場所で行商人や旅人を襲っては奪い、殺しを繰り返している。

 なので今回も慣れた仕事のはずだった。護衛もつれていない行商人らしき馬車の二人組。弓矢で先導する人間を殺し、驚いたところで馬車を襲う、それで終わり。しかし、そうはならなかった。御者も馬車から降りて剣を構えている。

「くそっ、お前ら行くぞ!」

 彼らは半円状に馬車を包囲する。手には全員手入れのされていなさそうな剣や斧を持っていた。欠けや錆が目立っていても、その殺傷力と瞳に込められた殺意は本物だ。

 圧倒的な人数差に盗賊たちは余裕の表情。下品な笑みを浮かべる者さえいる。しかし囲まれた二人の表情は目深にかぶったフード付きマントで見えないが、恐怖に怯えているような雰囲気はない。

 徐々に包囲が狭まる。松明とランタンのつたない明かりでさえお互いの表情がわかりそうなほど近づいたとき、御者をしていた男の口がかすかに微笑んだ。

「さあ、出番だぞお前たち!」

 その声とともに馬車の中から複数の人間が躍り出た。彼らは身にまとう鎧の重さも感じさせない素早さで、御者を中心に陣形をつくり腰から剣を抜いた。

 盗賊たちが予想外の展開に下がる。戸惑った様子で周囲と目を見合わせる。

「ひるむな! 俺たちのほうが人数が多い!」

 盗賊のまとめ役らしき男が叫ぶと、いくらか落ち着きを取り戻した。馬車に隠れていた人数は六人だけだった。さすがに小さな馬車のなかに何十人も入れるわけがない。

「立派な鎧を着た騎士さまらしいが、さすがにこの人数に勝てるわけがねえ」

 盗賊がそう笑うが、騎士たちに動揺はない。騎士に囲まれた御者はフードを脱ぐ。

 現れた顔は非常に整っていた。高い鼻と細いあご、手入れされているのが見てわかる赤髪の輝き。同じ色の瞳には恐怖など欠片も無く、盗賊たちを討つという決意が燃えていた。血色の良い唇がかすかにつり上がり笑みとなる。

「私たちがこれで全員と思ったか?」

 道の後方から複数の声と、馬が駆ける音が聞こえた。盗賊たちが目をそちらに向けると、薄い月光のなかをこちらへ駆けてくる馬に乗った騎士が十人ほど見えた。その後方には徒歩で走る騎士がさらに何人も。

 鬨の声をあげて接近してくる騎士団に、盗賊たちはわかりやすく狼狽した。まとめ役らしき男が強く舌打ちをする。

「逃げるぞ!」

 判断は素早い。真っ先に背中を向けて山の中へ逃げる。慌てて他の盗賊たちもそれを追う。騎士たちがそれを黙って見逃すはずもない。

「行くぞ! ひとりも逃がすな!」

 御者であった男が力強く命令すると、騎士たちがためらいなく山へ飛び込む。

「さあ、行くかレルソ」

 彼はマントを脱ぎ捨てると、傍らに立つ男へ言った。

「ああ」

 馬車を先導していた男、レルソはフードをかぶったまま山へ入っていった。


「ぎゃあああ!」

「ぐわー!」

 暗闇のあちこちから悲鳴が聞こえる。どれも盗賊たちの声だ。

 レルソはマントを身に着けたままで、暗闇の中を進む。起伏に富み落ち葉や草で滑りやすい足場をものともせず、滑るように木々の間を走る。その足に迷いは無い。まるで目的地がわかっているかのようだった。

「キエエエエ!」

 不意に盗賊が頭上から飛びかかってきた。その場所はわずかに地面が屋根のように盛り上がっていて、頭上が死角になっているのだった。

 しかしレルソはその攻撃を見ることも無く回避し、体ごと旋回して剣を振るう。

 喉をなかばまで切断された盗賊は声をあげることもなく、地面へ倒れた。

「……そこに隠れるってことは知ってんだよ」

 吐き捨てるようにつぶやくと、再び山のさらに奥へ走る。

 しばらくすると盗賊たちの悲鳴もほとんど聞こえなくなってきた。討伐が順調なのもあるが、距離が離れてきたのだろう。

 不意に足元から凶刃が心臓へ向けて突き出された。草陰に盗賊が隠れていたのだ。

 レルソは後ろに跳んでかわす。盗賊はさらに追いすがってきた。得物は短剣だが、そのリーチを埋めるように我武者羅に接近して武器を振る。

 レルソは冷静に短剣の軌道を見て回避する。顔に来れば上体を後ろへ、胴を突いてくれば横へ。

「くそがっ! 何で当たらねえんだ!」

 攻撃を全て回避される盗賊は、思わず悪態をつく。もう何度目かわからない攻撃を回避された時、レルソが前へ動いた。

 気付くと盗賊は剣で腹部を貫かれていた。

「ぐおおお……」

 一矢報いようと腕を上げたが、体から力が抜けて短剣を取り落としてしまう。それでも何とか力をふり絞り、盗賊はレルソのフードへ手をかけた。

 木々の間から月光が差し込む。その光でフードが脱げたレルソの顔が見えると、盗賊の目が驚愕に見開かれた。

「なんで……あんたが……」

 急激に瞳から生命の光が失われ、やがて消え失せた。

 剣を抜き、地面へ倒れた盗賊に一瞬目を向けると、フードをかぶり直し走り出す。


「ハア、ハア」

 盗賊たちのまとめ役のひとりである男は必死で暗闇を走っていた。

 なぜこんな目にあっているのか。後悔とともに過去を思い出す。

 男は流れの傭兵と言えば格好がつくかもしれないが、実際はただ酒場で飲みつぶれたまに暴れて騒動を起こす、どこにでもいる鼻つまみ者でしかなかった。

 それがある日、同じような日陰者に誘われるがまま盗賊に手を出し、ダラダラと続けているうちに盗賊たちのまとめ役みたいな者になっている。

 思わず自嘲の笑みがこぼれた。結局は自分のせいなのか、と。

 あの時の誘いに乗らなければ、いや、もう少し前に盗賊から抜けていれば。

 もう取り返しのつかない事ばかり考えていたのは、現実逃避するためだったのか。

「くっ!」

 しかし現実に戻らなければならない事態が起こる。横から白刃が伸びてきたのだ。

 地面を転がって距離をとる。素早く立ち上がり敵と対峙した。

「てめえは……」

 彼の前に立つのは、フードをかぶり剣を構えるレルソだった。

「クッソ……」

 腰から武器を抜いてレルソの剣を受ける。左へ受け流し、そこから腕を狙うが回避されてしまった。その動きに驚く。相手の攻撃を受け流して腕を狙うという一連の動きは、長年かけて身に着けた彼にとっての必勝法だった。それを簡単に回避されてしまった。まるで前からその技を知っていたかのように。

 すでに逃げたくなっていた。しかし相手は逃がしてくれそうもない。背中を向けた瞬間、死ぬ未来が見える。なぜかそれは確信していた。

「うらあっ!」

 覚悟を決めて前へ出る。攻撃を受けて反撃する手は使えない。ならばとにかく攻めるしかない。

 振る、薙ぐ、突く。男が使う武器は片刃の曲剣で、レルソの剣より少し短い。しかしそのリーチの差はわずかなもので、どちらが有利というものではない。

 二人の実力は拮抗していた。一進一退の攻防はお互いの体にいくつもの傷をつけている。

 レルソの鎧は傷だらけになっていた。鎧は鉄製なのでその下の体が傷ついているわけではないが、肘や膝、手首や指に首といった鎧に守られていない部分を執拗に狙われて致命傷ではないがかなりの傷を負っていた。

 盗賊の男もそうだ。粗末な革でできた胸当てしか防具はないので、全身傷だらけになっている。しかし深手といえるほどの傷はまだない。

「はあ、はあ……」

「…………」

 体力を失った二人は、しばしにらみ合う。

 不意に周囲に光が差し込む。満月を覆っていた薄い雲が取り払われたのだ。木々の枝葉の間から月光が筋のように伸び、二人の顔を照らした。

「な、なんだお前は!? その顔……」

 月光に照らされたレルソの顔を見た盗賊は、驚愕に声もなく呆然とするしかなかった。


 武器を構え対峙するレルソと盗賊、二人の顔は全く同じだった。


   ******


 レルソは垢と土に汚れた、かつての『自分』の顔を見る。変わらない、自分と全く同じだった。騎士団の一員となり、身だしなみも清潔にするようになった今となっても、顔かたちが変わるわけではない。

 いや、もしかしたら今も本当はあのころと同じ、目の前の自分と同じままなのかもしれない。そんなことを思ってしまったことに怒りがこみ上げ、反射的に剣を振るっていた。

 無意識に顔に向かって振り下ろされた剣は、曲剣に阻まれる。そのまま下へ剣を受け流されるが、知っている。無理に逆らわらず腕を引くと、曲剣が腕があった場所を通り抜けた。すでに何度も同じことがあった。すでに通じないとわかっていても、体に染みついた動きはなかなか変えられるものではない。

 盗賊の男が舌打ちをして、忌々し気にレルソを睨む。

 過去の自分はいつもあんな顔をしていたのだろうなと、レルソは思った。

 今度はレルソへと曲刀が振るわれる。それを横に移動して回避すると、もう一度攻撃がきたので剣で受けると金属音が山中に響く。

 レルソは相手が持つ曲刀を見る。それは確かどこからか奪った物だったが覚えていない。襲い奪うというのが当たり前すぎて、どうやって奪ったかなど考えもしなかった。

 自分とまったく同じ顔と殺し合いをしていると、記憶が過去へ飛ぶ。


 レルソの以前の名前は『フェク』だった。流れの傭兵をしながらときおり盗賊や野盗の真似事をしながら生きていた。

 ある時、酒場で飲んでいたところ盗賊団をやっている男に声をかけられ、一度くらいならばと手をかした。だがその後もなし崩しに一員として働いているうちに、三年が経過していた。

 彼らの盗賊団はやりすぎたらしい。領地の騎士団が大人数で討伐に乗り出した。盗賊たちはあっという間に蹴散らされた。フェクも切られた腕を押さえながら夜の山を逃げる。

「何で俺がこんな目に……」

 明かりは薄い月明りのみの暗闇を、草をかきわけ深い山の中を必死で走った。後ろからは追ってくる騎士の声も聞こえる。

 何とかして逃げなければ。もう盗賊なんかやらないと心に決めた瞬間、背中に重い衝撃を受けて顔から倒れる。力が入らない。背中が燃えるように熱かった。意思とは関係なく目が閉じられていく……

「ハッ……!」

 気付くと薄暗い酒場にいた。目の前のテーブルには木製の容器に入った安酒が置いてある。周囲では男どもが騒いでいた。

「ここはどこだ」

 呆然としながらまわりを見る。壁際には獣脂ランプが小さな火を灯し、独特な臭いとともにわずかな明かりを酒場に提供していた。薄暗い室内は決して広いとは言えず、ひしめきあった男たちが安酒を飲んで騒いでいる。

「おい、いいか」

 近くにいた酒場の女給を呼ぶ。

「なんですか兄さん?」

「ここはどこなんだ」

「どこだって、酒場ですよ」

「そうじゃない。ここはどこの街だ」

「はあ、リーベラーがここの名前ですよ」

 女給は「これだから酔っ払いは」と悪態をつきながら去っていく。それを気にする余裕は彼にはない。

 しばらく周囲を見回しながら思考に没頭していると、新しく客が入ってきた。何気なく入ってきた人物の顔を見て衝撃を受ける。フェクを盗賊団に誘った男だった。そして思い出す。ここがかつてその誘いを受けた酒場だった。

 男とフェクの目が一瞬合ったが、すぐに目をそらした。

 慌てて立ち上がると、男に見つからないように店の隅を人に隠れながら逃げる。無事に店から出ると大きく息を吐いた。

 外は夜だった。ぐるりと周囲を見ると記憶がよみがえる。リーベラーの街だ。盗賊団に誘われた街。盗賊団に入ってからは再び来たことがないはずだった。

 自分の服装を見てみると、山で逃げ回っていたときとは違う。多少汚れてくたびれているが、あのときほど垢や土で汚れていない。腰に差した武器も曲剣ではなく普通の剣だ。これは盗賊団に入る直前の格好のはずだった。

「まさか、俺は、ここは……三年前に時が戻っちまった、のか……?」

 フェクはあまりのことに、しばらくその場から動くこともできなかった。

 翌日になるとフェクは急いで街を離れた。とにかくあの盗賊団から遠くへ行きたかったからだ。万が一にも関わり合いにならないように。

 半月ほど移動を続けたフェクは、そこそこ大きな都市へたどり着いた。まず向かうのは慣れた場所である、裏街道に潜む輩が集うような怪しい酒場だった。結局はそんな場所しか落ち着く場所が彼にはなかった。

 ひとりで酒を舐めるように飲んでいると、誰かが向かいに座った。上目で射る様な視線を向けるが、相手は気にした様子もない。

「見ない顔だねアンタ。最近来たのか?」

「どうでもいいだろ。俺に近づくな」

「つれないねえ。俺にそんな態度ってことは、ここ詳しくないってことだろ。いいから黙って話を聞けよ。悪い話じゃねえからさ。な?」

 無視していたがかまわず話しかけてくる。

「俺はさ、このあたりのシマを占めてる組織のまあまあ上のやつなんだよ。そんな俺からさ、仕事があるのさ。ちょっとマジールっていう商人を襲ってほしくてさ。報酬ははずむぜ。断ってもいいけどさ、そうするとここらへんだと生きにくいぜ? まあ、だからさ」

 最後まで言う前に、フェクは男を殴り飛ばした。椅子ごとひっくり返って派手な音をたてる。酒場が静まりかえる。

「て、てめえは! 何しやがる!」

「うるせえボケが! マジールだか誰だか知らねえが、俺に盗賊仕事を持ってくるな!」

 倒れた男の周りに何人もの男が集まる。明らかに暴力に慣れた雰囲気だ。

「殺せ!」

 男達がそれぞれ武器を手にする。フェクも腰から剣を抜く。

 一人が襲いかかってきたが受け流し、流れるように腕を斬る。自分で鍛え上げた技術だ。腕を切断された男は倒れ伏して叫ぶ。

「今の俺は無茶苦茶に機嫌が悪い。生きて帰れると思うなよ」

「ちょっと待ってくれ」

 酒場の隅から声がかけられた。その人物はゆっくりとフェクのほうへ歩いてくる。

「さっきマジールって言ってなかったか?」

「ああ。そんな名前の商人を襲うとかなんとか」

「おお、本当か。マジールというのは知り合いなんだ。話を聞きたいから殺さないでほしい。報酬も出すぞ」

「……まあ、やってみるか」

「交渉成立だな」

 男は笑いながら剣を抜く。すると男たちが一斉に襲いかかってきた。

 戦いはすぐに終わった。こちらは二人だけだったが、フェクも男も強かった。人数差をものともせず、何人もの男が血を流しながら倒れている。

「フィロス様!」

 大声に振り向くと、酒場の入り口に息を切らした男たちが数人立っていた。

「おー、お前たち」

「何をのんきな! いつも行方をくらませないでくださいと言っているでしょう! またこんな騒ぎを起こして、一体何があったんですか!」

「そこに倒れてる男が、マジールを襲う計画をしてたらしい。尋問するぞ」

「……わかりました。そして、そこの男は何者ですか」

「ああ、それは……そういえば聞いていないな。名前は?」

「……レルソ」

 この時から彼はレルソになった。


 剣と曲剣がぶつかり火花を散らし、擦れ削り、すれ違い、切っ先で肌を割く。

『レルソ』と『フェク』の戦いは決着つかないまま、かなりの時間が経過していた。体格も実力も同じ二人が戦っているのだから、至極同然なのかもしれない。

 フェクが「俺と同じ顔のてめえは誰なんだ!」と叫ぶ。レルソは無言だ。

 なんとか逃走しようとフェクは動くが、させまいとレルソが追う。山中を移動しながら二人の戦いは続く。

 川へ近づいたらしく、水の流れる音が聞こえるが周囲は暗く木々に囲まれているので目で確認はできない。

「おおっ!」

 フェクが体重をかけて曲剣を押し込むと、剣で受け止めていたレルソの足が滑る。

 いつの間にか斜面のすぐそばに立っていたようだ。足場が崩れたレルソはそのまま後ろへと倒れ、二人とも斜面を転がり落ちて行った。


 酒場でレルソが出会った男は、フィロス=クルシオーという貴族だった。領主であるクルシオー伯爵の次男であり、クルシオー家騎士団長だった。

 貴族などと関わりたくないと報酬をもらったらすぐ逃げるつもりだったが、なし崩しに商人マジール襲撃計画を防ぐ作戦に参加することになってしまった。これはフィロスが「レルソはこういった事に詳しそうだ。私たちは盗賊など裏の仕事に詳しくないからな」と無理矢理に押し通した。

 貴族相手に無理をすれば逆に危なそうだと考え、報酬を条件にレルソは了承する。

 作戦は単純にレルソたちが囮になり、襲撃者を罠にかけるというものだった。作戦はうまくいったが、フィロスがひとりで先走り敵に囲まれそうになったところをレルソが助けるとう事態も起こった。

「なんであんたは一人で突っ込んでいったんだ」

「まあいいじゃないか。うまくいったし」

「敵に囲まれたこと覚えてねえのかよ」

 レルソは大きなため息をついたがフィロスは笑っている。


 レルソは腹部の激痛にうめき声をあげた。曲剣がわき腹に刺さっている。片手で剣を振ると、フェクは慌てて後ろへ跳んだ。

 斜面から転がり落ちたレルソは衝撃で身動きができなくなり、そこをフェクに刺された。無視できない痛みを我慢してレルソは立ち上がる。手で押さえても血は止まる気配は無い。流れ出た血は腰から足を赤く染める。


 マジール襲撃には犯罪組織だけではなく裏に貴族の姿があることがわかった。報酬をもらって終わるはずだったレルソの協力は、強引なフィロスによって続けられることになってしまった。以前もこうやって盗賊の一員になってしまったな、という後悔もすでに遅い。

 その後、いくつもの事件でフィロスに協力することになり、レルソは騎士団の一員となる。もともとが傭兵という騎士になれるはずもない身分のため、いくつもの苦労があった。しかしそんなことをフィロスはまったく気にせず、レルソの失礼とさえ言える言葉にも笑って応じた。そして彼はレルソにとって人生最初の友人となった。

 騎士団に入って数年が経過し慣れてきたころ新しい任務が言い渡された。それはベデルド盗賊団の討伐。それを聞いた瞬間、レルソの全身を冷たい汗が濡らす。

 それはかつて、レルソではなく、フェクが所属していた盗賊団だった。


 レルソは地面に蹲りながら荒い息を吐く。腹の傷からはとめどなく血が流れ出る。激痛と力が入らない体を引きずりながら動き、なんとか崖の下をのぞき込む。

 眼下を流れる川の傍らに手足を投げ出して倒れた人の姿が、月明りでかすかに見える。しばらく見ていたが動き出す様子はない。崖の高さはかなり高く、下は大小の石が転がる川原で落ちれば死んでもおかしくなかった。

『フェク』の死を確信したレルソは起こしていた上体を、うつ伏せに倒れこんだ。

 しばらくそのまま動かなったが、わずかに体が反応した。遠くからレルソを呼ぶフィロスの声が聞こえた。うめき声をあげながら体を起こす。

 顔を上げると崖下の様子が見えた。数頭の狼がフェクの体を引きずっている。

 レルソは願う。そのまま人の目が届かぬ場所まで行ってくれ。盗賊の『フェク』が『レルソ』であったと誰にもわからないように。

 レルソはもうあの薄汚れた盗賊ではない。クルシオー騎士団の騎士なのだ。

 フィロスの声が聞こえる。彼にだけは知られたくない。友人に、自分がかつて下劣な最低の盗賊だったなど。

 手も足にも力が入らない。レルソから流れ出た血は地面に染み込み続けている。

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