02 殺しの規則

 ハイブリッド式の自動車が静かに夜を駆ける。滑るように街中を進んでいく車はエンジン音がほとんどせず、サトルは乗り心地の良さに目を細めた。

 未明と呼ばれる時間帯。道路に人影はなく、流れる住宅やビルの窓にも明かりはない。すれ違う車も疎らだ。時折見えるコンビニエンスストアとその一角だけが別世界のように白く、夜に浮かんでいた。

 片手でハンドルを操るマモルの鼻歌が車内を満たす。窓の外を流れる眠った街。その墓標のように高い商業施設やホテルの影の奥に、ライトアップされた白い塔が見える。春に「白い桜がとてもキレイだ」と言ってマモルが塔の足元まで連れて行ってくれたことを、サトルはぼんやりと思い出した。


「サトル」


 突然名を呼ばれ、サトルは運転席を振り向いた。前を向いたままのマモルが口を開く。


「何か感じたか」


 確かめる言葉の奥に混ざる祈りをサトルは知っている。しかしその祈りに答える術を、彼女はまだ持たなかった。


「何も」


 そのたったひと言が彼の祈りを否定することを知っている。それでもサトルはそう答える。それが今彼女に表現できる精一杯の忠誠だった。

 サトルには感情と呼べるものが欠落していた。それが育ちゆえなのかはわからないが、他人の感情を読むことはできても、自分の感じるものが感情とうまく結びつかない。麻痺したように、あるいは凍りついてしまったように、動くはずのものが動かない。

 罪悪感というものも当然感じない彼女は、だからこそ「報告で嘘はつかない」というマモルとの約束を忠実に守っている。

 サトルの答えにマモルは「そうか」とだけ呟いた。落胆の音を耳が拾う。


「すみません」


 形だけの謝罪を掬ったマモルが「心のない謝罪はいらねえ」と言った。言葉に反して声が穏やかなのは、腹を立てても仕方が無いとわかっているからに他ならない。

声が消えた車内にウインカーの音だけがやけに大きく響く。マモルが右に大きくハンドルを切った。外の景色がコンクリート壁に変わる。地下の駐車場に入り静かに車が停まった。

車を降りる。運転席に回りドアを開けようとして、「必要ない」と制される。降りてきたマモルの後ろに影のように寄り添い、サトルもまた歩き出す。




「お疲れさま。二人とも、ゆっくりお休み」


 ヒラヒラと笑顔で手を振るボスに一礼し、二人はビル最上階の部屋を辞した。音を立てぬように扉を閉じ、音を立てて廊下を進む。革靴が建てる二人分の硬質な足音が冷えた廊下に染み込んでいく。

 マモルに続いてエレベータに乗り込んだサトルが、階層ボタンの下にカードキーをかざす。そのまま八を押すと扉が閉まり、内臓を無理に引き上げられるような重力による独特の気持ち悪さがやってくる。

 地上二十階建てのビルの中心を静かにエレベータで降りていく。サトルは階数表示の数字が減っていくのをじっと眺めた。一まで減った数字が今度は増えていく。

 このビルは日本有数の貿易商社の本社ビルだ。千を越える健全な人間が日々出入りし、世界中の家具や調理器具などを国内に流通させている。

 その健全な人間たちの足元。十階に及ぶ地下のフロアが、サトルやマモルなど裏の人間の活動拠点だ。

 犯罪組織『夜鷹』

武器や人間の売買、請負の暗殺などを生業なりわいとし、複数の異能力者を擁する異能力者集団。彼らはこの街の夜をこのビルの地下から支配している。

地下八階でエレベータが停まる。マモルに続いて降りたサトルは「部屋に来い」という言葉に頷き、その背に続く。足音は分厚い絨毯に吸い込まれて残らない。

薄い灯りだけを頼りに暗い廊下を進んだ。今夜は出ている者が多いのか、途中にある部屋に人の気配はなかった。

 最奥の扉の前で足を止めたマモルが外套の前を開き、スーツのポケットから出した鍵を差し込んだ。カチリ、という僅かな音。開けられる扉。


「入れ」


 扉が開くと同時に灯りが自動で点灯する。一礼して部屋に足を踏み入れたサトルの背に「そのまま奥に」と声がかけられる。

上級構成員以上は拠点内に部屋が与えられる。入ってすぐにあるのは執務机と応接セットだけが置かれた簡素な執務室で、机の奥にある扉の先がプライベートルームだ。

慣れた感覚で木製の扉を開けた。甘いタバコの匂いが空気とともに這い出してくる。足を踏み入れるとその匂いが柔らかく体を包み込んだ。

 執務室自体はどの部屋も大差ない。個人の色が出るのはその奥だ。

家具が暗い木目で統一された、落ち着きと品のある部屋。ワインレッドの絨毯は丁寧に掃除され、シミや足跡など見当たらない。隅にあるワインセラーには几帳面に赤ワインの瓶が並び、横の小ぶりな食器棚にはワイングラスが伏せられている。全体的に生活感の薄い空間の中、ローテーブルに伏せられた読みかけの本と、紅茶が入ったままの白いティーカップが人の息づかいを感じさせた。

相変わらずキレイな部屋だ。

サトルは幹部のひとりであるマモルの直下の部下として夜鷹に入った。教わるべき事が多かったため、一年以上、この部屋でマモルとともに過ごした。そのときから何も変わっていない。


「何してる。座れ」


 入り口に突っ立ったままのサトルをマモルがソファに促す。サトルがソファに向かうのを横目に、マモルは手に持っていた外套を入り口のハンガーに掛けた。


「あ、コート」


 座る直前に言われ、サトルは自分が外套を脱いでいなかった事に気が付いた。部屋が汚れる事を嫌うマモルに「コートは入り口で脱げ」と何度も言われたことを思い出す。


「ほら」


 よこせ、とハンガーを片手に手を伸ばすマモルに、サトルは小さく首を横に振る。次の瞬間、部屋の灯りの中に溶けるように着ていた外套が消える。


「異能力で作っていたのか」

「はい」

「同時にいくつまで出せるようになった?」

「三つです」

「まあ、そんなものか」


 ソファに腰掛けたサトルの目の前で、マモルが持ってきたワインを開ける。ポン、と小気味よい音を立ててコルクが抜かれると、アルコールとブドウの芳醇な香りが部屋に広がった。持ってきたワイングラスに赤を満たしながら「飲むか?」とマモルが訊ねてくる。サトルは「いえ」と首を振った。それを未成年であるが故と受け取ったのだろう、マモルが「今さら法律なんて気にするな」と笑った。そうではない、と思いながらサトルは何も言わない。マモルが一度グラスを傾ける。


「何を言われるのかは、わかっているな」

「何度も言われていますから」


 背筋を伸ばしたサトルが真っ直ぐにマモルの眼を見る。視線を逸らすことなく静かにグラスを置いたマモルが強く彼女の眼を見返した。真っ直ぐな射貫くような光が互いの間を交差する。


「……お前が守れなかった規則を言ってみろ」

「平気で殺すな。何も感じることなく殺すな。殺すことを恐れろ。人であるために」


 サトルの口から訥々とつとつと紡がれたのは、夜鷹における「殺しの規則」。

 それは後ろ暗い犯罪者集団で、より一層後ろ暗い暗殺の仕事を請け負う際の規則だった。

 サトルは感情を理解していない。

 ゆえに、「恐れる」ということを知らない。

 それでも彼女は小さく頷いた。

 私が「心」というものを理解できるようになる日は来るのだろうか。

 そんな考えが頭をよぎる。

 記号としての言葉ではなく、実感を伴った感情として、本当に理解できる日は来るのだろうか。

 この「頷き、肯定する」という動作そのものが、いつか嘘になってしまうのではないだろうか。


「焦らなくていい。そのうちわかる」

 

 マモルの手が頭に触れた。一度大きく震えたサトルの体を宥めるように、その手がゆっくりと動く。

 これはマモルの気遣いだ。「焦らなくていい」という先ほどの言葉を、真実にしようとしているのだ。

 何度も往復する手にそっと身を委ねる。

 サトルは体がゆっくりと温かくなるのを感じ、目を閉じた。

 そして思う。

「そのうち」は本当にあるのだろうか、と。

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