月下の悪魔
宮守 遥綺
壱 夜鷹〈ヨダカ〉
01 月と背中
港で見る月はいつも明るい。
雑踏の隙間や壊れかけの倉庫から見るよりも澄み切って大きく、白い。ずいぶんと西側で波間に揺れる白い影を眺め、そんなことを考えながら、
肝心の指令は未だなく、右耳の通信機はガリガリという不快な音ばかりを吐き出し続けている。長くレンガ造りの倉庫に預けていた背は冷え切って、肩甲骨が鈍い痛みを訴えた。
不意にノイズが大きくなった。その奥から声が聞こえる。待ちに待った声だった。
「サトル、やれ」
それだけで十分だった。通信機を外し、無造作にポケットに突っ込んだ。倉庫の向こうに、急いた足音が二つ聞こえた。
サトルは右手を胸に当てる。
肺を焼く潮風を、一度大きく吸い込んだ。
「
夜に溶けるほどの微かな声。
放たれた言葉に、外套の内側で万年筆が息づいた。
闇が震え、凝る。
生まれた闇よりも濃い闇が、やがて二匹の黒狗の形を成す。
サトルが月光の元にその姿を認識した次の瞬間には、彼らはそれぞれに音もなく走り出していた。
足音が止む。
不気味に横たわった静寂を裂いたのは、二つの悲鳴だった。僅かに尾を引き、しかしそれも空しく消える。
あとには、岸壁で波が砕ける音だけが何事もなかったかのように響いていた。
外套の長い裾を翻し、悲鳴が途絶えた場所に向かう。暗く狭い倉庫の間をしばらく進むと、互いの首に両手を回した二人の男が転がっていた。念のため、と脈を確認する。死んでいる。
死体から少し離れたところに革製の黒い鞄が転がっている。拾い上げて中を確認すると白い粉や錠剤が大量に詰まっていた。
イヤホンを付け直してボタンを押す。
「完了しました」
『処理班を向かわせる』
通信を切って振り向くと、ゾロリ、と闇が動いた。黙っていた二匹の狗が足元にそっと寄り添ってくる。
サトルがすり寄せられる頭に手を伸ばし、やわりと触れる。すると二匹の狗は闇の中に溶け出すように跡形もなく消えた。
生温い夜の中にひとつ、息を吐く。見上げた先では満月から少しだけ欠けた月が、相変わらず白い光を放っていた。
お前は、なぜ生きる。
光の中に、サトルはいつか聞いた声を思い出す。
なぜ、人を殺してまで生きる。
いくつもの声が混ざり合ったそれは、嘲笑であり、侮蔑であり、憐憫だ。脳の中で反響する音にほんの僅かに眉を寄せ、サトルは月を睨み付けた。
彼女は生きる理由を持たなかった。
気が付いたときにはこの世に存在し、しかし存在しないかのように扱われてきた。自身が生まれた理由も生きている意味も、何一つ持たないまま、誰にも顧みられることなく彼女はただ今まで存在してきた。
「この世は地獄よりも地獄的である」と評したのは誰だったか。
そんな地獄的な現実をなぜ生き続けようとするのかと、彼女は何度も自分に問うてきた。この世界にとって自分という者は、生きていようと死んでいようと存在しないことには変わりが無い。それでも生き続けようとする理由は何なのか、と。答えは、まだ出ていない。
「相変わらず鮮やかだな」
処理班とともに来た秋津護は、互いに両手で首を絞め合い、仲良く倒れる死体を見やって開口一番そう言った。早速仕事にかかろうとする処理班の人間を無言で制し、数旬の黙祷の後、死体をざっと検分する。
「……ブツは」
「ここに」
検分を終えたマモルにサトルは持っていた鞄を渡す。中を確認したマモルが控えていた処理班に「いいぞ」と告げた。黒服たちが静かに動き出す。
「これだけの量の薬……やはり売りもやっていたか」
「恐らくは」
「ったく、馬鹿なことをしたもんだな。コイツらも」
マモルの言葉にサトルは静かに頷いた。
鞄の中に大量に入っていた薬。それが今回、二人の男の命を奪うことになった原因であることをサトルはマモルから事前に聞かされていた。曰く「うちの組織で麻薬は御法度。売りは勿論、個人的な使用も含めて」ということらしい。故に、下級の構成員とはいえ組織に所属しながら薬物に手を出していた彼らは粛正対象となった。
「なぜ、夜鷹では薬物を取り扱わないのでしょうか」
乱雑な手つきで片付けられていく人だった物を眺めながら、サトルはマモルに問うた。マモルは振り向きもせずに答える。
「簡単に言えば、薬物は面倒だからだ」
「面倒……多くの取引に第三者が関わるから、ですか」
「取り扱っている組織が多すぎることもある」
「なるほど」
死体が無造作に白い袋に詰められてゆく。引きずるように運ばれる袋に向かい、サトルは数瞬、黙祷を捧げた。横で見ていたマモルの手がポン、とサトルの頭に乗せられる。温かい。
「お疲れさん。帰って報告書を出したら、今日は終わりだ。俺がまとめるから、部屋に来い」
「かしこまりました」
処理班長に「あとは頼むぞ」と軽く告げ、マモルが歩き出す。その斜め後ろにサトルが続く。マモルの外套の長い裾が潮風に遊んでいる。ふと視線を上げると、その黒い背に月光が明るく跳ね返っていた。
足が止まる。
「どうした」
振り向いたマモルに別の男の姿が重なる。
あのとき、あの人は何を言っていたのだったか。あの人の背中を追いかけて、自分は何を望んでいたのだったか。
まだ片手で数えられるほどの年数しか経っていないというのに、記憶が朧で思い出せない。
「サトル、どうした」
名を呼ばれて我に返る。
マモルが不思議そうにサトルを見下ろしている。探るような光を宿した鳶色から逃れるように、サトルは視線を逸らす。
「失礼いたしました」
「何か、気にかかることでもあったか」
「そういうわけでは」
「じゃあ、何かを思い出していた?」
上司に嘘をつくわけにもいかず、サトルが黙り込む。マモルはただ「そうか」とだけ言ってサトルの頭をひとつ撫で、歩き出した。サトルは無言でそれを追う。
組織に入る前の数年の記憶は曖昧で、ふとした拍子に目の前に現れても、その明確な形を掴むことがサトルにはできなかった。それ以前の記憶はハッキリとしているのに、なぜかその数年だけが靄がかかったように朧なのだ。
ハッキリと思い出せるのは、二年前。
世界のどん底とも言える場所にマモルが手を伸ばし、自分の手を掬い取ってくれた日からだ。
その日、その瞬間に、自分は生まれ直したのだ。だからそれ以前のことを巧く思い出すことができないのだ。
サトルはそう思っている。
「体、冷えちまったろ。お前はすぐに風邪引くからなあ。さっさと帰って、暖まるぞ」
サトルの思考をかき消すようにマモルが言った。穏やかな声。振り向いた顔は柔らかく笑んでいる。
冷えていた体が少し、暖まった気がした。
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