プラズマと残光
西条彩子
第1話 プラズマと残光
青と緑と白の球体が、荒涼とした月の灰色の地平線からせり上がってきた。
宇宙空間から見る地球は、月と同じように日々満ち欠けを繰り返す。この日の地球は北極を二時の方向に、東南アジアのあたりまでを太陽に晒している。日本の周りに浮かぶ雲は梅雨にしては少ない。このまま晴れが続けば、夜には星がよく見えるだろう。
ぼくは作業の手を止め、デスクの真横に丸くくり抜かれた窓に昇る故郷にしばし見入っていた。地球で見る日の出ですら息を呑むのだから、アースライズは格別の感動がある。
寄せては返す波音を、樹が根を下ろす土の匂いを、頬を撫でるそよ風を、日の光のあたたかさや肺いっぱいに吸い込む空気の安らぎを思い出す。冷たい死の闇が満たす宇宙空間では、この小さな球体はとても頼りなく、それでいて途方もない愛しさをぼくにもたらした。
ふるさとなどと言いづらい東京生まれ東京育ちだけど、月の衛星軌道上に浮かぶ宇宙ステーションの中にいると、地球という存在は、すべてが生命体であり故郷だった。
「伊緒(いお)、準備終わった?」
同僚であるエリスが、銀色のドアをくぐってやってくる。トレーニング後なのか白い与圧服の上半分をだらりと垂らし、青いタンクトップから素肌をあらわにしていた。
「全然まだ。エリスも手伝ってくれよ。残り百人分あるんだ」
「しょうがないなぁ、仮眠前までね」
エリスは壁の手すりを掴み、ひとっ飛びでぼくの向かいについた。勢いを失わず流れた焦げ茶のポニーテールを、彼女はかき集めて器用にお団子にする。ぼくの鼻先に、やさしいせっけんの香りが届いた。
「伊緒は明日降りたら当分地球かぁ」
ぼくはうなずいた。だからこの景色も今日が見納めになる。ぼくは惜しむようにもう一度帰るべき星を眺め、デスクに向き直った。
「いいなあ、わたしもそろそろ重力が恋しくなってきた。ハーネスつけて走るの、鬱陶しいのよ」
「腰回り痛くなるんだよね。ISSのお下がりだからちょっと古いし」
「ねー。民間の宇宙企業ってこういうとこ嫌よねぇ」
宇宙ステーションに滞在しているあいだ、ぼくたちには一日二時間のトレーニングが課せられる。ランニングにウエイトリフティング。無重力空間にいると筋力を使わないから、あっという間に筋肉が落ちる。放っておくと地球に降りたとき、自分の体重すら支えて立てなくなる。上下左右の概念がないこの中では腕や骨盤にゴムのハーネスを装着し、普段床にしている場所を見ながら、壁についたベルトの上を走る。
「ま、あるだけマシかしら。ほんと重力ってありがたいわぁ。体重計乗る時以外だけどぉ」
間延びした声でぶつくさと言って、エリスはふと真顔になった。それから彼女は胸の前で手を合わせ、とび色の瞳を閉じる。濃く長い睫毛の陰影が頬に落ちる。ぼくはひっそりと呼吸をしながら、その美しい仕草を見ていた。
まばたきの続きのように目を開けたエリスがふうっと息を吐き、マグネットでデスクに留め置いた紙束をめくる。
「もしかしてこれ、全部読み返してたの?」
「うん。つい」
そこには宇宙に想いを馳せる、数多の人の声が綴られてある。読みだしたら止まらず、作業が押していた。エリスは特に咎めることなく、中央に置いた白と黒二つの三十センチ角の箱を覗いた。
ぼくは白い箱の中に収まる二センチほどのキューブを取り出した。そしてそれを黒い箱へ移した。
作業というのはこれだけだ。
「その子が、この手紙の一番上にあった『ヒカル』?」
キューブにはアルファベットで、通し番号と『Hikaru』の名が印字されている。
「そう」
「星が大好きな六歳の男の子でした。星座や星の名前をたくさん覚えてて、宇宙飛行士になるのが夢だった」
エリスは紙束――もとい、添えられた手紙を読み上げる。
「この子が生まれた意味を感じたい、かあ……」
ぼくはもう一度「そう」と告げ、顔を上げた。
「だからなかなか進まなくてさ」
「わかるよ」
この二センチのキューブに入っているのは、人間だ。いや、正しくは、人間の灰や骨だ。
そして手紙には、故人がどれだけ宇宙を好きでいたかが、遺族の思い思いの言葉で綴られていた。
エリスがキューブのひとつを透かすように宙にかざす。
「いつもはこれ箱にばーっと入れて、蓋して射出衛星に詰めて、地球の衛星軌道上に流すだけだものねぇ。っていうか今日じゃない。二回目の東京の『流れ星の日』」
「そうだよ。あと四時間くらいだ」
「じゃあそれまでに終わらせよう。君、お姉さんと通信するでしょ。地球に降りる準備だってしないと」
その姉を彷彿とさせる少し呆れたような口調に「はいはい」と返すぼくの口は、まだうまく笑えない。
四時間後、ぼく一人になった作業室のモニタには、東京の夜空の映像が流れていた。
刻々と進む秒数を画面の端に見ながらその時を待つ。空には雲ひとつなく、月も低い暗い夜だった。
腕時計を見た。先日ぼくたちが地球に向けて放った射出衛星の起動まで、三・二・一……。
エラーは出ていない。全部で五十個ある二センチ角の『流れ星の素』は、予定通り東京へ向かって落下する。ぼくはそれから十五分ほど待って、モニタを見た。
一秒にも満たない受信ラグのあと、東京の夜空にぽつぽつと蛍のような白い光が現れた。縦に斜めにしゅーっと流れ、四つ五つとどんどん増える。ぼくらが流したこの小さな『素』は、地球の大気に触れた瞬間プラズマとなって発光し、燃え尽きるまでのわずかな時間、夜空を彩る。
猛スピードで大気圏に突っ込む通常の流れ星と違って、人工のそれはよく見える。おおいぬ座のシリウスより少し暗く、オリオン座のどの星より明るい。その上ゆっくり、最大で十秒ほどかけて落ちる。願い事など三回どころか、頑張れば三つくらい唱えられるだろう。
最後の一つが夜空に消え、数分のショーは幕を閉じた。成功したことにほっとしていると、モニタの中に別の映像がカットインしてきた。姉の陽毬(ひまり)だ。
「伊緒、見たよ!」
興奮した様子で陽毬は言った。
「ぼくも映像で見てた。陽毬はどこで見たの?」
「渋谷。みんな空見上げてたよ。口開けて、うわぁーって。あ、ちょっと待って」
音声映像が乱暴なノイズに包まれた。と思ったら、その向こうにスクランブル交差点と、道行く誰かの顔と声が入ってきた。
『ねえすごかった、きれいだったね! こんなに流れ星見たの初めて!』
『な! 最初はさぁ、すっげぇうさんくせーって思ってたんだよ。本物だからいい、みたいなさ。でもいざ見ると、やっぱすごいなってなっちゃうんだよな』
カップルらしい男女の会話だった。学生ぐらいに思えるのに、子どものようなはしゃぎ方をしていた。
「聞こえた?」
映像が陽毬の顔に変わる。ぼくは緩んでしまった頬を戻しそこねていた。多分、今ほどここのカメラの存在を疎ましく思ったことはない。
「……うん。ありがとう」
「ああああ、なんかもう言っちゃいたいよね。『みなさーん、あれ弟がやってるんですー、すごいでしょー』ってさあ。ねえねえ言っていい? 叫んでいい?」
「なんだよそのテンション。一応ヤメて。変な人だって思われていいなら止めないけど」
苦笑しながら言うと、陽毬はそれでもいいと言いたげに笑った。ひとしきりそうしたあと、彼女はしんみりとした顔で聞いた。
「もう入れた?」
ぼくは与圧服のポケットに手を突っ込み、ガラス瓶とキューブを取り出して見せる。中にはくすんだ白の塊が、二つ入っている。
「これから。最後の一枠、空けといた」
「職権濫用だなあ」
「違うよ。正規の申し込みはちゃんとしてるんだし」
陽毬の目が白い塊を追いかけたのがわかった。口がほんの少しだけ動く。声はほとんど聞こえなかったけど、よろしく、と言っていた。
「ねえ伊緒。七月の迎え星は、車でちょっと山の方まで行こう。ちゃんと週一でエンジンは掛けてるからさ」
「わかってる。ありがとう。それじゃ」
通信が切れる。ぼくは「迎え星」と呟いてコルクの蓋を開け、中の塊を宙に放つ。ゆっくりと漂う先に、空のキューブを構えた。二つとも収まるべきところに収まり、ぼくは蓋をスライドさせる。中でこつこつんと壁に当たる音がした。
黒い箱の最後のスペースにはめ込む。通し番号のあとに、『Arata & Orie』という印字。
ぼくらの両親だ。
彼らは宇宙が、本当に好きだった。
『母さんが織姫のベガで、俺が彦星のアルタイル。お前らはヒマリアとイオから名付けたんだ。木星の衛星の名前だぞ』
何度も何度も同じ話をするものだから、ぼくたちは、耳にたこができるとか、父ちゃんはアラタのくせにーと言っては笑っていた。
天体観測の望遠鏡をいつも車に積んでいて、週末になるといつもどこかの山へ出かけた。チリのアルマ天文台を見に行ったり、イタリアにガリレオを巡るツアーをしに行くような人たちだった。
だけどついに宇宙には行けなかった。行けるような時代が来たとはしゃいでいたのに、旅先の山で滑落した。去年の秋のことだ。
宇宙遊覧が少しずつできるようになったとはいえ、まだまだ宇宙船の数は少なく、少人数、そして高額と、一般人に浸透するには程遠い。どうしても宇宙に行きたいのなら宇宙飛行士を目指すか、ぼくのように訓練をしたのち、国営か民間の宇宙関連事業所に所属するほうが確実だ。
宇宙へのあこがれを抱いたまま、道半ばで命を落とす人は多い。だからぼくたちは、故人の望みを叶えたいと願う遺族の想いを受け、彼らをここへ連れてきた。
七月と八月のお盆の夜、彼らを夜空の流星にして、家族のもとへ降らせるために。
※
ひと月かけて、やっと体調が戻ってきた。歩くだけで息切れした前回より、今回はいくらかマシだった。それでも陽毬と洗車をしたら、ぼくのほうが先に音を上げた。東京の夏は躰に毒だ。
4シーターのメタリックブルーのオープンカーは、親父の愛車だった。星を見るために買ったような車だ。夕方になって、ぼくらは車の幌を開け、自動運転モードにして街を駆ける。運転席には陽毬が座った。どこかで迎え火を焚く匂いがしていた。
「晴れてよかったね。ちょっと心配してた」
「うん。あ、あんまり遠く行くなよ。見れるのなんて東京の半径百キロ程度だから」
「大丈夫、八王子の少し先にした。都内でも案外山って山らしいよね。二人とも、ほんとふらっと富士山の麓の方まで行ってたけどさ」
夏はエアコン全開、冬は毛布とホットコーヒーで。親父はこの車にぼくたちを乗せ、よく星を見に行った。周りの車がびゅんびゅん遠ざかるのに、星のほうがずっと、近くに感じていた。
流星群も何度も見た。その辺の地面に寝転んで夜空を見上げると、本当に星が降り注ぐようだった。口を開けていたら入ってきそうだと言ったら、母さんはぼくの口にこんぺいとうを放り込んだ。最後の乳歯が抜けた場所で間違って噛んだものだから、優しい味と鉄が混ざって変な味がした。
ぼくがこの道を志すと告げたときの二人の喜びようは、お祭り騒ぎかというくらいで、ぼくはちょっと恥ずかしくて、だけど内心、こそばゆいほどに嬉しかった。
人工流れ星なんて邪道だと、言わない両親でよかったと思う。彼らはそれだけ、見上げた空で起こるすべてを尊く感じていた。
『奇跡の秩序が起きてんだぞ。太陽からの距離とか月があることとか』
『そうよ、木星とかすごいのよ。あのシマシマの大きいガス惑星のとんでもない重力がなかったら、今頃地球にばんばん惑星がぶつかって跡形もないんだから』
『それってつまりよぉ、すっげくね?』
二人して日焼けした顔に白い歯を光らせ、酒を飲んではすごいすごいとケタケタと笑う。そんな気持ちのいい人たちだった。
なのに六十を迎える前に二人は逝った。わし座とこと座が見えなくなったのと同じ時期だった。
夜に覆われ始めた山を上るにつれ、湿った草の匂いが強くなった。それに慣れたころ、目的の開けた駐車場についた。車がほかにも何台かあって、地面にシートを敷いている人たちもいる。
今日のショーは今までで一番大きなプロジェクトだ。流星の数も飛び抜けて多い。
「今回のこれ、どんな人たちから応募があったの?」
陽毬が水筒を傾け、タンブラーになにかを注いだ。コーヒーの香りがして、ぼくは「企業秘密」と言いながら手を伸ばす。
「あっ。なによう、けち。コーヒーあげないよ」
「けちじゃねえよ。いいからくれよ」
唇を尖らせる陽毬に、ぼくはぎこちなく笑う。
「でもみんな、親父や母さんと同じだった」
一杯だけ注いだコーヒーを二人でかわりばんこに飲み干した。陽毬とぼくは、ほとんど倒せないシートをそれでも倒し、暗闇に目を慣らすために空を見上げて待った。東の空に夏の大三角形が昇っている。陽毬の視線が、じっとそっちに注がれていた。
四人でこうして流星群を待つ時、ぼくたちはいつも無言だった。話しかければ話してくれたけど、またすぐに黙る。仕方がないからぼくはいつも星座を探した。今夜はさそり座がよく見える。
星の位置が変化するにつれ、次第に緊張感が高まってきた。射出衛星は無事に機能しただろうか。位置は問題なかっただろうか。自然の流星群と違って、人為的ミスは起こる。
腕時計が通知に震えた。
設定していた時間だ。ぼくは祈るように暗い夜空に目を凝らす。いつもよりもずっとドキドキしていた。
「あ」
遥か上空で光が爆ぜた。一つ、二つ、三つ。白い光源は、ゆっくりと長く尾を伸ばしていく。
その数はどんどん増えた。一つ消えてもまた流れて、ぼくたちに向かって降り注いだ。花火のような音も華やかさもないけど、生命が燃える確かさがあった。
「きれい……」
宇宙ステーションで、星に懸けるたくさんの想いに触れた。
宇宙飛行士になりたかった少年、熱狂的な天文ファン、写真家、プラネタリウムのオーナー。下心のない純粋な想いだ。宇宙と比べたら小さな命たちだけど、心を燃やした証明がそこにはあった。
だから、生まれた意味はある。それはとても儚くて、美しくて、確かな光だ。
「二人の、どれかなぁ……。もう消えちゃったかなぁ……」
呟く陽毬の声が潤んでいた。
「……一番最後」
ぼくは夜空に目を凝らしたまま、企業秘密を口にする。星の流れる順番だけは、箱詰めをしたぼくだけが知っている。
「職権濫用かも」
そう言ってぼくは舌を出す。陽毬が驚いたように息を飲みこっちに顔を向けた。ぼくも陽毬を見た。
「ちゃんと見てて。泣いて見れなかったとかなしだからな」
すると陽毬は慌てた様子で洟をすすり、まぶたをこすって天を見上げた。
ぼくは腰をシートからずらし、より視界を夜空で満たす。そうしてるあいだにも、たくさんの流星が間断なく落ちてきた。ぼくたちはそれらの輝きを見守りながらじっと待った。
そしてその星が爆ぜたあと、続いていた光が途切れた。
「伊緒」
「うん」
降り注ぐその星を目で追いかける。白い光は尾を引きながらゆっくりと落ちてくる。ぽっかりと開いた口を目がけてくるようだった。
光れ。光れ。コンマ一秒でいいから、長く。
最期のプラズマを見せてくれ。
ぼくたちはどちらともなく手を取り合った。祈るように固く握り、その光を目に焼きつけるように見つめた。
やがて光が消え、空に残照の筋がちらついた。だけどそれも、消えてしまった。二人分の骨が入っていたせいか、どの流星よりも長く光った気がした。気のせいでもいいからぼくはそう思いたかった。
「伊緒」
陽毬が躰を起こし、ぼくはぱっと手を開く。と、突然口に何かが放り込まれた。舌に感じたトゲと甘さに、こんぺいとうだと気づく。奥歯で噛んだら甘みはさらに広がった。
「……ガキみたいなことすんなよな」
「ありがとう」
今度はタオルを顔に押し付けられた。
「っ、陽毬――」
「みんな、すごくきれいだった」
陽毬の声の向こうから、どこからともなく拍手が聞こえた。それはとてもささやかなものだったけど、とても優しい響きだった。
ぼくたちがしたことは、誰かの心に火を灯せたのだろうか。
ふいにこみ上げた熱さが喉と目を焼く。
ぼくは小声で陽毬に「ありがとう」と呟いて、タオルの上から顔を覆った。
-fin-
プラズマと残光 西条彩子 @saicosaijo
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