斜張橋 ‐3
――まぁ、待てって。
どこからともなく聞こえる声。
頭の中で勝手に喋っているような、耳元で囁くような。耳では聞こえない確かな声だ。
「この声は?」
溢れる力を鎮め、周囲の波長に気を配った。
誰かが近くにいる。よく知った声、匂い、まるで包み込むような温かな波長が胸の中に染みこんでくる。
「どなたでしょうか、姿をお見せなさい」
――どなただって? 俺だよ、俺。おれおれ。元気してっかぁ? 俺は元気だ、見ての通りなぁ、っはっはっはっはっ。ぁぁ、見えねえか。俺はここだ、お前の周りにある全ての闇が、俺だよ。
是雲が空に語るように声を上げると、上から下から、右から左から、あらゆる方向から乾いた笑い声が響き渡った。
――お前は俺を知らねえだろうが、俺はお前を知っている。なぜだろうな、是雲よぉ。
すると右那の後方より、それは足音もなく、ぬっと姿を現した。
巨大な黒い獣である。きめ細やかな毛並みは闇と同化し境界が曖昧だ。闇より出でる猛獣の頭は愛らしい三角の耳を生やし、そして前足、後ろ足と地面につくと、引き締まった優美さと雄々しさを兼ね備えたハンターの骨格が全身を露わにした。そして最後に、親しみ深くも上品で気高い尻尾が二本、すらりと後ろに伸びている。
黒豹か、黒猫か、尻尾が二本生えるネコ科の黒い巨大生物が闇の中から姿を一つに定着させてみせた。
「ノロ、クロ……」
何も確証があったわけではない、ただ反射的だった。その名が口から溢れ出た。
「右那」
「君、なのか?」
「……」
巨大な黒猫はゆっくりとした足取りで右那に歩み寄り、そして真横まで来ると彼女の背の高さまで腰を落として、その顔をのぞき込む。
「……違う。あれは死んだ。ノロクロは、もうこの世に存在しない」
「じゃ、じゃあ君はなんだよ! 君は、君の声、その波長、どこからどう見たって!」
右那は、黒猫の体に飛びつくように、黒い毛並みの中に顔を埋め、両腕一杯に猫に抱きついた。
「どう見たって……、君じゃないか……」
黒猫は目を閉じると、彼女の顔に静かに頬を寄せ、その小さな体温に触れ合う。
「そう、ノロクロは生きている。お前の中にね。右那が彼を思えば、彼は無敵の存在だ」
「馬鹿なことを言うな、ここにいるだろ、君は、……、ノロ氏は……」
一層強く抱きしめる。
黒猫はもう一度頬で彼女を撫でると、名残惜しげに顔を離した。
「俺は……、取り敢えず、クロスケと名乗っておこう。隣人のルドセイに言われてやって来たんだ、こっちの方を頼むってな」
クロスケを名乗る黒猫、彼は右那の一歩前に進むと、その体を再び闇に霧散させる。そして、次にその場所に立っていたのは一人の男であった。二本の両方の腕を指の先まできちんと生え揃った男である。
適当に調達したような公安隊の黒い戦闘服を身につけ、そして頭は漆黒のヘルメットで完全に覆った。男は是雲と向かい合い、右那に背を向けたまま彼女に言葉を送った。
「よく聞いてくれ右那。ノロクロはお前の全てを全存在をかけて肯定する。世界が憎くければ滅ぼせ、お前を化け物呼ばわりする輩がいれば殺してしまえ。お前の声、姿、温もり、その命、その心に比べれば、世界中の何をとってもお前と釣り合うものなどありはしない。だから、……生きろ」
ヘルメットの男は振り向き、続けた。
「いや、違うな。できれば生きてくれって話だ。どう転んでも人生に意味は無いが、だが価値はある。俺にとって、ノロクロにとって、滅茶苦茶価値のある、すごくすごく大切な繋がりなんだ。お前が必要なんだ。だから、頼む」
「じゃあ君も死ぬなよ! ボクも! ボクも君が必要なんだよ! 君に会いたい! ゲームだってまだしたいし、君の料理だって大好きだ、いや、もうそんなもの何もなくていい! ただ君に傍にいて欲しい! これからも! ずっと!」
「……」
「ノロ氏!」
「……悪いな。ほんとゴメン。あの時も、今も」
「待ってくれ! ノロ氏!」
彼女の制止を振り切り、クロスケを名乗る男は正面に浮かぶ僧侶、使徒是雲に向かった。
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