第156話 微睡

 ようやく自分の腕の中に取り戻したクロエに、幾重にも氷の結界をかけて、ジュードはようやくひと心地ついた。


「エメル……行くか?」


 エメルが先ほどクロエと話していたものとは180度違う、冷ややかな声を出す。

『……クロエ、もう意識ないよね?』

「ああ。十分すぎるほど頑張った。俺と選手交代だ」

『じゃあジュード、クロエの髪を持ってるんだろ? 出して』

「どうするの?」

『クロエの髪は魔力の塊だ。補給にちょうどいい』

「……まあエメルにならいいよ。クロエも自分の髪がエメルの力になるのなら、本望だろう。それにしても、クロエから魔力、生存限界スレスレまで抜いたのに、まだ足りないのか?」


 エメルはフンッと鼻を鳴らした。


『足りないね。あんな呪具をつけられていたんだもん。クロエは魔力、オレに渡す分をずいぶんストックしてくれてたんだ。それでも常の半分も吸収できず、枯渇しかけた。その結果、魔力量が一気に増えて、ガイアよりも大きくなれるようになったけどね。しかしそれはそれで、魔力をくう』


「俺のは吸うなよ。まだ仕事が山積してる」


 ジュードはそう言いながら、懐からクロエの茶色い髪束を取り出した。


『……短い髪のクロエも、かわいいだろう?』


 エメルの声が少し揺れる。


「どんな髪だろうが問題ない。俺の隣で笑ってさえいれば。ただ、髪を奪われたことをクロエが悲しんでいるのなら別だ」

『ふふ、オレもそう思う』


 エメルは満足そうに頷くと、ジュードから髪を受け取り、そのまま口に入れ飲み込んだ。

『ああ……満たされる』

 エメルの体隅々に、清くしなやかなクロエの魔力が行き渡る。


「そうそう、これも返しておくよ」

 ジュードがもう一つ、懐から取り出した。

 それは、昨夜エメルがトリーに託した手紙だった。


『……リチャードに、送らなかったの?』

 ジュードはパシッと、軽くエメルの首を叩く。

「あたりまえだ。トリーを責めるなよ? 俺が無理やり取り上げたんだ。ちなみに読んでないから。これ以上おじい様に悲しみを背負わせるつもりはない。今後、汚れ仕事は俺……とエメル専門だ」

『……なるほど』


 エメルは一瞬で手紙を燃やした。


「で、エメル、手順は?」


『……我が番には生まれたばかりだというのに無理をさせた。大技を使ったリドも、一人で魔力を我が番に注ぎ続けたアーシェルも限界だろう。……今、大神殿に下げた」


 ジュードが下を覗き込むと、ホワイトドラゴンが朝日を浴びながら、大神殿の方角へ悠然と飛び去っていった。


『オレたちはまず真っ先に宝物庫とやらを潰す。まだ他にもくだらんものを隠し持っているかもしれんからな、今後反撃する機会もないほどに一瞬で破壊し尽くす。そしてすっかり思い上がった人間を、神の代行者として裁いてやろう。命乞いなど聞かん。踏み越えたのは人間だ』


 エメルは牙を剥き、残忍に笑った。


「好きにしたらいい。どこまでも付き合う」


『オレの〈魔親〉は間違わないね。じゃあ、遠慮なく。ジュード、しっかり掴まってろ』


 エメルはスウッと息を吸い込むと、ギラリと目を光らせた! そしてガイア譲りの土属性のブレスを一気に地上に向け放った。激しい衝撃音と土煙が一面を覆う。その煙が大気に散ると、宝物庫があると想定された王宮は……原型をとどめておらず、少しの建物の残骸と、地面のクレーターだけが残った。


「……〈草〉じゃないんだ」

『クロエの〈草〉は命を救うもの。殺生はしない。使うのは〈土〉と〈氷〉だ』

「なるほど……異存ないよ」


『ジュード、行くよ』


 二人は同じ色の瞳を合わせて、頷いた。


 ジュードは左手でエメル自身がジュードのために作った手綱である草縄を握り込んだまま、クロエを固く抱き寄せた。そして、右手を高く掲げ、魔力を集約する。


 エメルは二度、大きく翼をはためかせ、地表に向けて急降下した。

 標的が目に入る。意図せず同じタイミングで術を放つ。


「氷獄」


『……砂地獄!』





 ◇◇◇




 ふと、懐かしい……馥郁たる鈴蘭の香がクロエの鼻をくすぐる。

 重い瞼を必死でこじ開けると、懐かしい人がいた。


『姫さま、具合はどうじゃ?』

『……トムじい!』


 私はいつものようにトムじいの膝に座り、彼の腕の中でゆらゆらとあやされていた。


『トムじいの教えてくれた仮死薬、見破られて使えなかったよ。だからまだ、試してないの』

『バカじゃな。使わずに済むならば、使わぬほうがいいじゃろう。それにしても……よく頑張ったな。さすがわしの姫さまじゃ』

 トムじいが目尻を下げて私の頭をふわりと撫でてくれた。


『あのね。ルルと仲直りできたの。なんとなく、だけど』

『……二人とも、大人になったということじゃ。子どものころのように、悪意ある大人の思惑に左右されず、力を身につけ自分の足で生きる力を持ったからこそ、自分の心を信じ、それを貫けるようになる。強くなった……もう、大丈夫。これからゆっくり、無理なく交流するといい』


『うん』

『もう、わしが姫さまに教えることはなさそうじゃ。姫さま、最後にこの師と約束しておくれ。これまでの辛い経験の倍幸せになって、次代の〈草魔法〉師を育てて、ゆっくりゆっくりここに来ること。その時は、わしがちゃんと迎えにくる。早くきたら追い返すぞ。良いな?』


『……はい!』


 トムじいがパチンと指を弾くと、クロエという名のピンクのバラが一輪現れた。それを私に渡すと、微笑みを浮かべたトムじいは、ゆらゆらと蜃気楼のように消えた。


『クロエ』


 一度だけしか会ったことのない、けれど、決して忘れることなどない、重く、深く、慈悲深い声。慌てて振り向くと、山のような巨体の……黄土色のドラゴンが鎮座していた。


『ガイアさまっ!』


 私が慌てて駆け寄ると、ガイア様は目を細め、首を伸ばし、顔を私の視線まで下ろしてくれた。

 近くによればガイア様の身体は、傷だらけで乾燥しシワだらけだった以前と違い、黄土色の体は内側から光り……すなわち黄金に輝いていた。


『クロエ……我が子の命を諦めないでくれて、礼を言う』

「そんな! そんなの当たり前です! ガイア様! 私たち、あれからとっても仲良しになったのです! エメルなしの人生など、もう考えられない!」


『そう……やはり、見込みどおり、クロエは立派な〈魔親〉になってくれた』

「立派なんかじゃ……今回も私のために、エメルは危険に飛び込むことになって……」

 グッタリしたエメルを思い出し、顔を歪める。


『ふふふ、ドラゴンと〈魔親〉、たとえ危険が迫っても、此度のように心を一つにして、乗り越えていけばいい』


 そう言うとガイア様はゆっくりと首を回し、自らの背に視線を向けた。

 そこには冒険者風のラフな格好をした体格のいい男性が足を組んで座っていて、私を見ると、ニカっと笑った。その方はガイア様とお揃いの、金色の瞳をしていた。


『もうこれで我が子も心配ない。待たせたな。行こう』


『ガイア様、どこへ?』


『旅に。クロエも我が子……エメルと、世界中を巡るといい。世界は広い。楽しいぞ? また会おう』


 ガイア様は男性を背に乗せたまま、ブワリと羽を広げて垂直に飛びあがった。

 私は体をそらして見上げ、二人? が点になるまで見送っていると、


『クロエ』


 静かな、低い声は、これまで聞いてきた中で、一番穏やかに私の耳に届いた。

 昨夜、別れたばかりでまだ心の準備などできていない。ガイア様やトムじいと違い、顔を合わせるのが怖い。


『クロエ?』


 懇願するような声色に負け、恐る恐る振り向いた。

 晴れやかな顔をしたサザーランド教授が、私を見て微笑んでいた。


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