第60話 神業

 


 ◇◇◇




 私はモルガンの屋敷の裏庭の、黄色いツルバラの根本で膝を抱えて泣いていた。


『姫さま、ここにおったのか?』

『トムじい!』

 大好きなトムじいにしがみつくと、トムじいはヨイショと言って私を抱き上げてくれた。


 トムじい、ずいぶん久しぶり……あれ?私、小さい? もっと成長していたような……どうでもいい。だってとっても悲しいの。


『うええーーん!』

『姫さまはどうして泣いていたのかな?』

『トムじい。やっぱり学校で、みんないじめるの! みんな私のこと嫌うの! 私は何もしてないのに! いつも!前世でも現世でも! もう怖い! 行きたくない!』

『そうか……それはしんどかったのう』

 トムじいの腕の中でワンワン泣く私の頭を、トムじいはずっと撫で続ける。


『ルルからもっ、嫌われてるの! 私がトムじいを見殺しにしたから……』

『……ルルも簡単にはめられおって……きちんと言うて聞かせたんじゃがなあ……』


『トムじい、トムじい!』

『おーよしよし、姫さまはなーんも悪くない。わしの自慢の弟子じゃ。いっぱい泣いたらいい。目を覚ましたときには……いいことがきっとある』


『いやよ! もうどこにも行かない! 私もずっとトムじいとここにいる! トムじいと一緒がいい!』

『それは……ダメじゃ。早すぎる……』

『うわーーーーん!』

 トムじいに拒絶されて、ただただ泣いた。


『困ったのう。姫さまにこんなにも泣かれると……そうじゃな、姫さま、とっておきの術を教えよう。姫さまがどうしても生きづらいときには……一度死ぬといい。仮死薬を教えよう』


『それ、『くさまゆ』作ったときに考えた! ほんとに作れるの?』


『なんじゃ、姫さまは〈草魔法〉を極めたつもりでおったのか? 甘いわ! まだまだ姫さまが知らん薬は山ほどあるぞ? よいか? ふむ、空間魔法の中にあるバジリスの実とデルの葉はあるな。それにジェドワニの卵を加えて2対1対3ですりつぶせばよい。一度死んで、24時間後生き返り、世界の果てまで逃げてしまえばいい』


『逃げる……』

『そう。戦えぬほど辛すぎるときは逃げていいんじゃ。死んだとなれば、追手もこない。そして姫さまがどこに逃げようと、黄泉に旅立つときはワシが迎えにきてやるわい。ただ今はならん』


『迎えに?』


『まあ、姫さまが逃げるような状況に落ちいらせないよう、お願いしますぞ、ドラゴン様』


『ドラゴン?』

 ドラゴン……耳になじんだ言葉……

『さあ、また逢えるでな。心配せず、もうしばらくお休み』


 トムじいが私の額にキスをした。




 ◇◇◇




 私の頰はひんやりした大好きなものに触れている。

 いえ、頰だけではない。体中がひんやりとして、安心できる魔力が覆い、護ってくれている。

 まぶたを開けると、エメラルド色の美しい鱗。私のドラゴン様。


「エメル……ずっとそばにいてくれてたの?」

 エメルは私よりも一回り大きな成体の姿で、卵を抱くように私を包んでいた。

 いつかの無人島に似ている。


『いっぱい泣いたな、クロエ』

 赤い舌で、目尻を舐められる。


「……エメルが、トムじいに会わせてくれたの?」

『厳密には会わせたわけではないが……どうやったかは秘密だ。クロエの闇は深すぎて、オレ一人で、繋ぎ止めるのは力不足だと思って。全くローゼンバルクは遠すぎる』

「エメル……」


『まあ今回は必死に抗ったようだから許してやる。それにしても仮死薬か……オレと出会う直前にそんな話をジュードたちとしておったとガイアの記憶が言っている。根回ししておけば悪くない。そのあとオレがどこへでも連れていってやる。あの無人島のような、誰もクロエを知らない土地へ』

「……うん」


『そういう手段があることを忘れるなよ! じゃあもうちょっと寝て!』

「え、起きるわ」

『高熱なんだよ。だからオレが全身で冷やしてる! 黙って寝な……』

「……なんでだろう。熱なんて」

 私はエメルに歯向かう気力もなく、静かに目を閉じた。



 ◇◇◇




 再びぼんやりと目を覚ます。喉が渇き、ベッドからもそもそと肘をつき起き上がろうとすると、


「クロエ」


「お兄様?」

 なぜか枕元に口元を引き締めた兄がいた。


 私が入学する一年前に学校を卒業した兄は、身長は祖父を追い越し、激しい運動量のため全く太らないが、キッチリしなやかに筋肉がついた体型だ。水色の髪はエメルに渡す魔力を貯めるために腰まで伸ばし、襟足で無造作に結んでいる。他人に氷のように冷ややかだと言われる瞳は、どこまでも澄んでいて、決して私に嘘などつかないと語っているようだ。


 もう、すっかり大人の兄。


 学校を卒業後、貴族は結婚も許され、婚約者が既にいるものは早速身を固める。しかし兄には今のところ婚約者はいない。一度胸がジクジクと痛むのを我慢しながら、状況をホークに聞いてみたが、

「まだ半人前だからありえないとおっしゃってました。私もそう思います」

「えええ!? うちの一人前って、どれだけハードル高いのよ……」






「具合はどうだ」

「お水を飲もうかと……」

「水よりもポーションを飲め。さっきエメルが作った」


 兄に背中を支えられて、体を起こし、渡されたコップでエメルの好きなハッカ味のポーションを飲む。

 兄はすぐにコップを取り上げ、ドアの向こうに持っていった。戻ってくると再び、私の体をベッドに倒し、私の額に手をあてる。

「だいぶ下がったな。ひとまずポーションも飲んだし……」


「お兄様、どうして王都へ?」

 何か商売事だろうか?

「……たった一人の妹が倒れたと連絡が入り、駆けつけぬ兄などいるものか」

 私一人のために、忙しい兄を呼びつけたの?


「お兄様、ご、ごめんなさい。ベルンも黙っていればいいのに、どうして……」

 兄が眉間にシワを寄せた。

「クロエ、クロエが倒れてから一週間経っている」

「え」


 驚きのあまり言葉を失う。でも、兄がここにいる。エメルが私から離れていないのにローゼンバルクからたどり着いているということは、そういうことだ。


「クロエのストックでも、エメルの生薬でも、クロエの熱は下がらない。クロエは重病だったんだよ。今朝から少しずつ落ち着いてきたが」


「そんな……健康には人一倍注意してたのに……」

 薬師が病気なんて本末転倒だから、一応体調管理はしていた。あの朝もチェックした。


 ああ……改めて、あの日の出来事が脳裏に蘇る。前世と今世がごっちゃになって、パニックになったんだ。


「情けない……」

 唇を噛み締める。

 カサリと音がして顔を動かすと、ミニサイズのエメルがパタパタと翼を動かして、私の胸に乗った。エメルも私のそばで寝ていたようだ。


「クロエ、クロエの病名は、エメルによれば、『過度のストレス』だそうだ」

 それはおかしい。アベル殿下の言は流したけれど。寝たまま胸元のエメルを睨みつける。


「お兄様、ストレスは状態であって、病名ではないよ。つまり私は病気でもなんでもない。騒がせて恥ずかしい」

 騒ぎをおこして兄を呼びつけ尻拭いさせる。みっともない。


「バカクロエ! ストレスで人は血を吐き死ぬこともあるだろうが! 俺は猛烈に、クロエを学校に出したことを後悔している。おじい様も同様だ! あんなに嫌がっていたのに、全く理解できていなかった」


「いえ、ただ私の心が整理できず溢れて……」


「学校で何があったかは、ベルンに聞いたあと、王家の記録も読ませてもらった。アベル殿下は素直に差し出してくださったよ」


「何があったかって、何も……」

「あれだけの暴言を吐かれ、何もなかったというのか! クロエ! お前の感覚はおかしい!」


 おかしい……の? あれくらい、前世では毎日だったけれど。基準がおかしいのだろうか。

 そうよ、あれくらいで倒れてしまうなんて、私は今世どれだけ甘やかされて、軟弱になってしまったのか……。


 黙って聞いていたエメルがのそっと頭を上げた。

『クロエ、ジュードの認識が一方的に正しい。お前のそれは歪んでる。だがそれには理由があることをオレは知っている』


「俺にはさっぱりわからない!」

 兄が激怒寸前の顔で、私とエメルを交互に見やる。


『クロエ、お前は我慢強すぎて、もうオレ一人の手に負えない。もうお前の秘密を話す。今回のことでドラゴンであるオレの生死に関わることがよくわかった。ジュード、結界を張れ!』


 ピンと、兄の氷の結界が部屋を覆った。険しい顔で私を睨みつける兄。


「ダメッ! エメル! 言わないで!」

『クロエ、お前はしばらく黙ってろ』


 エメルの……ドラゴンのプレッシャーが全身にかかる。こんなことされるの初めて……。

 私は口を開くことが出来なくなった。


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