第10話
レンは若干悔しそうに告げた。
「オレは、英語の綴りが分からない」
「はあ」
間抜けな返事はレイジのものだ。
先にあった読み合わせで、それは承知しているから今更な告白だ。
「だから、気になる話を読み直すってことが、出来ないんだ」
「大変ですねえ」
そうとしか返せなくて、困る男を睨みながら、レンは台本をレイジに差し出した。
「今日の、サラが怪我した場面を、読んでほしいんだ」
「初めから、ですか?」
「ああ」
「そんなこと、セイさんに頼んでは……」
「今回は、駄目だ」
戸惑う男に若者はきっぱりと言い切り、一瞬躊躇ってから続けた。
「あいつとヒビキが、動くタイミングを見逃すなんて、滅多にないんだ。しかも、理由が話にのめり込んでなんて、あり得る話じゃない。よほどの話だったんだと思う。オレは、台詞を聞いてないからよく分からなかった」
「漫画なら、十分にありえるストーリーでしたけど……」
「一応、読み聞かせてほしい。引っかかる話かどうかは、後で考えるから」
「……分かりました」
妙に迫力のある頼みにレイジは頷き、緊張気味に文面を読み始めた。
だが、無感情なレンが、読み進めるごとに表情を曇らせていくのを見て、不安になって来る。
読み終わる頃には、頭を抱え込んでいた。
「何だ? どこに、固まる要素があるんだ?」
「あのう……そんなことより、妨害者の特定を急いだほうがいいのでは?」
そっと声をかけると、また鋭く睨まれてしまい、レイジは身を竦めた。
そんな男の様子に溜息を吐き、気を取り直して答える。
「そんな分かり切ったこと、急ぐ必要ないだろ」
「分かってるんですか、犯人が誰か?」
「犯人ってな……消去法で、一目瞭然だろ」
無感情なその答えに、レイジは顔を曇らせて確認した。
「コウさんを、疑ってるんですか?」
「弾丸一つに関しては、な」
「別に、あの人の国の話じゃないのに、どうして?」
世の中には、他の国の歴史すらも偽証を許さぬ者がいるかもしれない、とは思いつつも信じられずに呟くと、レンは小さく笑った。
「それは、全く関係ないな」
「え?」
「オレたちが雇われた言い訳はそれだけど、そんな事実は何処からも聞こえてこない。あんたの雇い主の方からも、聞いてないだろ?」
「……」
「まあ、別な意味での妨害は、あいつ自身が考えてるかもしれないけどな」
笑いを濃くしてレイジを見返す若者に臆され、男は目を泳がせた。
「何のことですか?」
「聞かされてないのか? リヨウから?」
やんわりとした問いかけは、更に動揺するに充分な破壊力だった。
わたわたと慌て始めるレイジを、不敵な笑いを浮かべて威圧したレンが凝視し、すぐに表情を戻した。
「聞かされてはいないんだな。本当に、只の通訳か。リヨウも酷な事をする」
「あなたは、リヨウさんの何なんですか?」
「……その聞き方は、怪しくないか?」
思わず聞いた男の言葉に突っ込みを入れてしまったが、そんな意図はないとすぐに気づき、レンは答えた。
「血の繋がりはないと思うけど、親戚かな」
「じゃあ、あなたが、あの人から頼まれてきてくれた人なんですかっ?」
「いいや、違う」
勢い込んでの問いに即答し、明らかに落胆した男に苦笑する。
「違うが、関係なくはないから、そう落ち込むな」
「はあ……」
「目的は全員違うけど、ここを片付けない事には、次に進めないと分かってくれただろうから、ああいう事もなくなるんじゃないかな」
レンは軽く言いながら、手元に戻った台本を軽い仕草でめくった。
「やっぱり、危険な現場なんですね、ここ」
全く知らない国の辺境に飛ばされてしまい、おかしいとは思っていたが、自覚しないようにしていた。
改めて含みのある話を聞かされ、レイジははっきりと自覚してしまった。
深い溜息を吐く男に、レンは少しだけ優しい声で言った。
「あんたは、あんたの仕事をしてくれればいいよ。土産話に怪談のオチをつけて、親兄弟に話してやればいい」
「その兄弟が原因で、こういう羽目になったのに、楽しく笑い合えと? 兄の行方が分からなくなって、リヨウさんに相談したのが、このバイトを引き受けたきっかけなんですよ」
「ふうん」
相槌は打っているが、明らかに興味がない声に構わず、レイジは更にぼやく。
「始兄さんは、僕と違って頑丈な人なんで、連絡を入れてこないって言うのは、よっぽどの状況なんだとは思うんです。でも父は、兄の安否よりも後継ぎの心配をしてて……」
「……ハジメ?」
興味はないのに話は聞いていたレンが、聞きとがめて呟いた。
「そういえば、あんたの苗字、
「は? はい」
「……リヨウが派遣した人間という事で、経歴には目を通してなかったな。そうか、そう考えてみれば、あいつを引き込んでいれば、あんたを早々と撤収させられたかも知れないな、リヨウは。ってことは、やはり、別口、か」
何の話かと怪訝な顔をする男に構わず、レンは軽い挨拶をして席を立った。
廊下に出た若者をドアの前まで見送りに立ったレイジは、どこからかの喧騒に気づいた。
「ん? 何だ?」
レンもすぐに気づいて声がする方を伺う。
「食堂の方だな」
「はい」
躊躇いなく歩き出す若者に、レイジは慌ててドアを閉めて続いた。
レンがレイジを訪ねていたころ、ヒビキは自分にあてがわれた部屋で、女役者たち全員と対面していた。
額に痛々しいガーゼを貼り付けたサラをヒビキの前に座らせ、他の四人はテーブルを挟んでまだ娘と言ってもいい位の若い女を見下ろす。
その真剣な目に、ヒビキが深い溜息を吐くのを見て、マリーの目がさらに剣を帯びた。
「お話の内容は、分かってますよね?」
「分かってはいるが……オレに、どうしろと? 確かに先程の対応の遅れはオレたちの失態だ。だがな……」
「犯人は放って置く気ですかっ?」
アンが思わず声を上げ、シュウも同調する。
「ティナの時は、はっきり分からなかったけど、サラの時は、完全に分かり切った奴だったじゃないかっ」
「あなた達が放って置く気なら、私たちであの男を拘束しますよ。このまま撮影や稽古をするのはいいとしても、どういう細工をするか分からない奴を、一時たりとも野放しにしておきたくないので」
マリーの厳しい声に、二人が頷いている。
被害者になりかかったティナと、一人座らせてもらっているサラは、若干居心地悪そうに首を竦めた。
その様子に気付いているのか否か、ヒビキは天井を仰いで言った。
「あんたら、刀の細工も、コウの仕業と思ってんのか?」
ぼかした容疑者の名をはっきり言われ、三人は一瞬たじろいだがすぐに頷いた。
「あの男以外、考えられないよ」
「男の人たちは、全員素人で怪しいけど、銃を持つあの姿勢、本物だったわ」
「そうですよ。それとも、他にも怪しい人がいるんですか? それを知ってて選考したんですか? 監督が決める時、反対しなかったんですか?」
次々に意見を言い、アンがヒビキに質問すると、女は薄っすらと笑った。
面倒臭そうなその仕草に、思わず窘めようとするマリーの口を、ヒビキは視線で黙らせた。
「あんたらな、よく男どもの事ばかり言えるな。オレたちは、別に男どもばかり、怪しい奴を選った訳じゃねえぞ」
「何だってっ?」
「ちょっと、まさか、私たちを選考したのって……」
「ああ。オレ達だ。入念に調べた上で、これと言った人材を、最悪な事態の対策も出来る人材を、オレ達が選考した」
「調べたって、何をっ?」
ぎょっとしたのは、マリーだった。
動揺を隠せない長身の女に、ヒビキはにんまりと笑って見せた。
「出身地から経歴、その他諸々、に決まってんだろうが。幽霊さんよ」
固まったマリーから視線を逸らし、同じように固まっているアンにも笑いかけた。
「まあ、幽霊はあんた一人じゃねえがな」
「……」
「何なら、調査結果を並べてやろうか? アンと言う通称で呼ばれていた舞台女優は、現在は行方不明で、生死も定かでない。マリーに至っては、三年前病で死去して、この地の山奥の墓地に埋葬されている。どういう経緯で、その名を名乗っているかは知らねえが、怪しい奴らではあるな」
「そのマリーとは、別人よ。この地に入るために、その経歴を使ったのは認めるけど、名前は同じよ」
あっさりと認めたマリーは、驚く女たちに微笑んだ。
「名前が同じってことで、あの人にはお世話になってた。死ぬ間際に、切に頼まれたことがあるの。だから、何とか、この地に来たかった。こういう映画に関わってみるのも勉強だと思っただけで、あんな細工を、ましてや弱い女を狙うなんて事、私はしないわ」
「私だって。アンとは知り合いなの。とても大切な存在だった。行方が分からなくなって心配して調べた結果、最後の仕事がここの同じような撮影だって分かって、ここに来たんです」
「……じゃあ、違うじゃん」
シュウがあからさまにほっとしてから、少し考える。
「もしかして、あたしが選考されたのも、何か意味あるのかな? アクション女優ってくらいしか、取り柄はないんだけど」
「選考理由は、それに限らねえが……」
面倒臭そうに手を振り、正面に座るサラを見た。
「あんたの旦那が、英国で殉職した刑事だってのは、引っかかる話だな」
「……」
「刑事?」
マリーが目を見開いて椅子に座る女を見る。
周囲の驚きに構わず、ヒビキは黙ったままのティナを見た。
「あんただけは、特殊だったな。Z国の国民。小さな国を維持するために、子を残せる者は僅か。出国できる者も僅か。身を守るため全国民が戦闘能力を持ち、女は武器を製作、修理する技術を持つ。そんな国の女が、どんな理由でこの地に来るのを望んだのかは知らねえが、ここで望みをかなえるのは、難しいと思うぜ」
「あんた、自分の責任問題を棚上げにするために、そんなこと言ってるんじゃ、ないよね?」
鋭い問いに、ヒビキは笑って答えた。
「責任云々もだが、あんたらの問題も絡んできちまってるから、言ってんだ。自覚はしてんだろ?」
色素の薄い瞳に見つめられ、前のめりになっていたシュウが、たじろいで身を引く。
「妨害とやらも、オレにとっちゃあ予想外だったが、あの程度ならどうとでも対処できる。今後も何とかなるだろう。今日のような、ギリギリな対処はしないようにすると、ここに約束しとく」
「……分かりました」
まだ何か言いたそうな二人の代わりに、サラを見下ろしていたマリーが静かに言った。
「全盲のあなたが、この後の対処を本当にきちんとできるのか、お手並み拝見と行きますね」
やんわりと笑って言う女に、ヒビキは目を見開く。
「夜分、失礼いたしました」
見送りを期待せずに女たちは部屋を辞し、ぞろぞろと廊下に歩いていく。
座ったままこちらを見る演出の女に頭を下げた時、その喧騒が聞こえた。
深い溜息を吐いているヒビキを残して、ドアを閉めながら方角を伺うと、どうも食堂の方からだ。
「喧嘩?」
シュウが眉を寄せて呟き、アンがうんざりとした仕草で吐き捨てる。
「こんな時に怪我したら、予定がさらに狂うじゃないのっ」
「これから何が起こるか分からないってのに、本当に手のかかるっ」
シュウも頷いて、アンと連れ立って食堂の方へ足を向けた。
「つかみ合いや殴り合いの喧嘩なら、男の人も連れて行った方が良くない?」
ティナも言いながら続き、他の二人もその後に歩き出した。
二人の演出仲間がそれぞれ動いている頃、セイは食堂の入り口付近のテーブルにいた。
電気もつけず、何やら考え込んでいるところに、話しかけてきた男がいる。
「……さっきの対処は、何だ?」
見上げると、見知った役者の男が険しい顔で見下ろしていた。
「危うく、うちの倅が、人殺しに落ちちまうところだったじゃねえかっ」
抑え気味ながらの言い分に、セイは、穏やかな笑顔を浮かべた。
「いいんですか? こんな、誰が見ているか分からない所で、地を出してしまって?」
「ちゃんと確認済みだ。お前こそ、よく平然と、休んでいられるなっ。あんだけ、あからさまな妨害をされて、緊張のかけらもねえとはっ」
「この現場自体が、緊張の塊ですよ。今更気負って、どうすると言うんですか」
「気負わねえから、あんな対処になるんだろうがっ。あいつの狙いがずれたからよかったものの、当たってたら、只じゃ置かなかったぞっ」
「……すみません」
笑ったまま謝る若者に、男は変装したままの顔を近づける。
「謝れとは言ってねえ。何ぼうっとしてた? あそこまで演技に呑まれるってことは、よっぽどなんだろうが。一体どうした?」
「何でもありません。ただ、ちょっと、想像してしまったんです。逆の立場だったら、ああいう結末があったかもしれない。それなら、今の現状はましな方なのかって……」
目を見開く男から目を逸らし、セイは小さく笑った。
自嘲気味の笑いだ。
「カスミは、こちらの後悔すら、餌にして取り込んでくる、本当に嫌な奴です。それも分かっているから、覚悟していたんですが、読み合わせの時とは、違う空気があるんですね、ああいう現場は。やっぱりあの選考は、行き過ぎだった」
「……」
珍しいほどに気落ちしているのが、付き合いがあまり長くない男にもはっきり分かる。
軽く咳払いした男が、取り繕うように言った。
「ま、まあ、反省しているならいい。運も実力の内だ。今度から気を付ければいい。しかし……オレの思い違いだよな? 銃弾のすり替えが出来る奴が、限られてるなんて事は?」
「貴方も、そう思うと言う事は、他の役者たちも、そう思っているでしょうね」
穏やかな声音に戻ったセイの答えに、男は眉を寄せた。
「おい、何かの間違いじゃねえのか? うちの倅が、捜査物件で、問題を起こす訳が……しかも、自分が人殺しに落ちるようなやり方を、するはずがねえだろうがっ」
「そろそろ、伝達が来るはずです。日本の警察が、この国の重役と話を通して、本格的な行動をする準備が整ったと。それをそれとなく、あの子に知らせてやれば、少なくとも、自棄行為は慎むと思いますよ」
「……人を、手にかけるのが自棄行為か? ったく、人様に迷惑かける奴が、被害者ぶりやがるのかっ」
「……まあ、正確には、少し違うんですが、それには同意します」
死人に口なしの論理なのか、裁判でもその傾向が出ることがあると、知り合いの検察官が言っていた。
「しかし、拳銃の中身が、二つとも実弾に変わってたのは、どういう事だろうな。妨害するにしても、そこまで、策を講じる奴じゃねえ筈だが……」
念のために、自分も狙われているように見せる程、性根が曲がっているとは、思っていないコウの父親の呟きに、セイは顔を上げて男を見上げた。
「そこまで信じてるのなら、もう少し先まで、信じてあげて欲しいですね。軽い父親不信にかかっているので、それを覆す事例が、欲しいんです」
「そう言われてもなあ……セイや、レンが父親に不信を抱く気持ちは、分かる。あの赤毛親父に至っては、騙されてる時点で、信用できねえし、セイの親父にしても、ああいう人だからなあ」
騙されているのがヒスイ一人なら、レンも少しは、邪見にするのだろうが、ヒスイの母親である、メルまでが完全に騙されてしまっていた。
ヒスイの子供と、「レン」とは血が繋がっている。
だが、ヒスイとの繋がりは、余り濃くない。
ロンが、本当のヒスイの子供を見つけられず、苦肉の策で腹違いであると聞いていた、レンを紹介した。
主に、容姿がそうさせるのだろうと、レンも苦々しい顔で言っていたが、特にヒスイは何かと、構いたい気持ちになっているらしい。
「一昔前なら、そこら中にあった事例だが、未だに、そんな奴がいるとはな。博物館にでも、展示してもらったら、楽なんだがなあ」
周囲の兄弟や、幼馴染がすぐに助け出しそうだが、男はそんなことを、半ば本気でぼやく。
それから、セイの言葉を反復し、考える顔になった。
「あいつは、自分も狙われたと、思わせる程の策を講じる奴じゃねえ。それは断言できるが、その先? それはつまり、実弾の一つに関しては、あいつじゃねえと?」
「……どうして、そんな細かい話にするのやら。間違ってはいませんが」
小さく溜息と共に、セイは呟き、むっとした男の顔を見上げた。
「どうでもいいですが、そろそろ部屋に戻った方がいい。ひと騒動起きそうな気配が、近づいてくる」
言いながら立ち上がった時、食堂の向こう側の廊下から、誰かが歩いてくる気配があった。
その気配が二人分で、その内の一人が、男の息子だと分かる頃には、セイは音もなく歩き始めている。
男も、二人の緊迫した様子に戸惑いながらそっと歩き出したが、いらいらした男の声に立ち止まる。
「話は手短に済ませろよ。今日は色々ありすぎて、余計な事は、考えたくねえんだよ」
コウの声に、怖い笑い声を立て、もう一人の男が返す。
「作戦失敗で、イライラしてるのは分かるが、あそこまで露骨な事やっておいて、よく逃げ出さないもんだな」
「……逃げられるもんなら、最初からここに来ねえよ。ようやく入り込めたってのに、逃げられるか。何とか最小限の被害で、この狂った現場を、取り押さえたい」
「最小限?」
コウの言葉を繰り返して笑った声は、更に固く低くなった。
「関係ない奴を、人殺しにしかかっておいて、よくそんな綺麗ごとが、言えるもんだな」
その言葉で、コウに対峙しているのが、若い役者のゲンだと分かった。
「念入りに刃物を研いで、人に他人を傷つけさせて、時間稼ぎしようとする暇があるなら、この狂った現場とやらを、あんたの職場の連中に、取り押さえられる手はずを整えたら、どうだったんだっ?」
「だから、そんな余裕も、隙もねえところだから、困って……って、ちょっと待て、お前の時のあれまで、オレの仕業になってんのかよっ」
「あんた以外に、それをやる理由のある奴が、他にいるか?」
「……マジかよ。一気に犯罪者。これじゃあ、親父に何言われるか……」
日本語で呟く声には、嘆きが入っている。
そんなコウを、まだ険しい顔で睨みながら、ゲンは二つ折りにされた、手のひら大の紙を差し出した。
「さっき、ドアの下の隙間から、差し込まれた。あんたの部屋と、間違えたんだろう」
つい、受け取ってから若い男を見直し、コウは紙をその場で開いた。
「……差出人の名も、受取人の名も、ねえじゃねえか。お前宛てかも知れねえぞ。いいのか? オレに見せちまって?」
「オレの目的地は、ここじゃないからな、あんたの方が、これをするのは妥当だろ」
ゲンは、答えてから天井を仰いだ。
「多分、それを入れた奴も、部屋を、間違えて入れたんだ」
「? 入れた奴を、見たのか?」
「いや。差し込まれた後、すぐにドアを開けて確認したが、誰もいなかった」
厳密に言うと、誰もいなかったわけではない。
ドアのすぐ近くで、セイの飼い猫が、床に寝そべっていた。
ゲンを見上げた後もそうしていたが、頭を抱えているように見える仕草をしたのは、気のせいだろう。
「動物を、飼う機会がないから、はっきり分からないが、たまに、そう見える仕草をするんだろ」
肩をすくめて言うのを背に、セイが足を止めて、足下に戻っていた猫を見下ろす。
顔をそむけたのを、そばにいた男も同じように見下ろし、納得した。
心が穏やかでないのは、何も飼い主たちだけでは、ないようだ。
「ふうん、中々、素早い奴がいるんだな」
コウは、気のない相槌を打ってから、改めて、紙に書かれた内容を読む。
「……この際だから言うが、オレは、この現場で命を懸ける気は、微塵もない。ここは、生死の確認が取れない場所だ。それじゃあ、オレからすると、意味がないんだ。だから、奴らを捕えたいのなら、協力するから、あんな真似は二度とするな」
「オレ一人に言っても、どうしようもないだろうが。今日の件だけならともかく、先日のまで、罪を被らせられるのは、納得いかねえ」
「だから、あんた以外に、こんな事やる奴、いないだろう?」
「お前は、どうなんだ? 使う予定の道具を、加工するくらい、出来るんじゃないのか?」
「あのなあ……自分でやったんなら、わざわざあんたに、こんなこと言いに来るはず、ねえだろうがっ」
不意に、言葉が崩れた。
「大体、さっきも言ったが、オレの目的地は、ここじゃねえ。ただ、この国に入るのに、都合がいい場所が現場だったから、入り込んだだけだ。もっとも、女だけが選考されると、調べがついてたんで、ダメもとだったがなっ」
すんなり入り込めただけでなく、警察関係者や、他国の実力のある者達まで選考されているから、ここの現場を、押さえてからでもいいかと考えていた。
そう白状したゲンに、コウは目を丸くしながら、問いかけた。
「お前、まだ学生だろ? いや、親父さんの後を、すでに継いでるとしたって、こんな所まで出張る必要、ねえだろうに、一体、何しに来たんだ?」
「あんたには、関係ねえだろうが。行き当たりばったりの、人殺し野郎に、これ以上、こっちの事情を話す気は、ねえよ」
「いや、だから待てっ、確かに、二発目の実弾は、オレが入れ替えたが……」
背を向けて、部屋に戻りかけていたゲンが、足を止めて天井を仰いだ。
「二発、目?」
「それ以外は、オレじゃねえっ」
コウを振り返った男の顔は、珍しいものを見るような、それでいて、呆れているような顔だった。
「あのヒスイって人が、偶々見過ごしたくらいしか、オレには考え付かねえが、他に可能性があるか?」
主張の後の勢いを殺しながら、コウがゲンに問いかけると、男は呆れ顔のまま見返した。
「あんた、馬鹿だろう」
「何だとっ」
「ここの現場の事は、調査済みなんだろ? 外部との連絡が取れていない時に、自刃行為なんかやったって、ほんの少し事が遅く進むだけで、結果は変わらない。自己満足のために、こんな所まで来たわけじゃ、ないんだろ、河原巧さん?」
ぐっと詰まりながら睨み、コウは唸る。
「やっぱり、知ってやがったか、塚本のガキ」
「あんただって、ここに来るとき、調べたんだろ? オレも、ここに来る面々を、入念に調べ上げてきた。見ただけで、危なそうな現場だったからな」
「……完全に、調べ上げられたのか?」
慎重な問い掛けに、ゲンは天井を仰いで肩を竦めた。
「大体、だ」
その答えに、内心安堵したコウに、物凄い勢いで、近づいて来た者がいる。
同じように近づこうとしていた男が、その勢いに思わず、足を止めたほどの迫力があった。
コウの胸倉を攫んだレイジが、睨みながら吐き捨てた。
「自刃行為だってっ? ふざけるなっっ」
そのレイジが来た先で、レンが溜息を吐いて、首を振っている。
「本当に、馬鹿じゃないの?」
その後ろから、女の声が同じように吐き捨てる。
ゲンが大事になってきたと、肩を竦めているのに構わず、マリーは呆れ顔でコウを見る。
「何がしたかったのかは、知らないけど、失敗する確率が多い方法で、自刃行為も何もないと……」
アンも不思議そうに言いながら、台本の内容を思い浮かべた。
「あ、そうか。サラを撃った後、頭に銃口をつけての自死なら、失敗しようもないですね」
「そっちはあり得るから、他の二人も注意してたんだよ。まさか、もう一人実弾を手に入れてたとは。いや、持ってる可能性は承知してたんだけどねえ」
レンが言いながら、ちらりとサラを一瞥した。
見返した女が、顔を伏せるのを見る前に視線を外し、溜息を吐く。
「まさか、あんなぎりぎりで、対処されるとは」
あくまでも、そちらの方が気になるらしい。
無言で立ち去るセイを、今度はそのまま見逃し、その場に立ち尽くしたままの男が見守る中、シュウが考えながら呟く。
「二発目だけが、コウの細工だってのを信じるとしても……あの、ヒスイって人が確かめた後に、拳銃を触ったのって、コウだけでしょ? どこで、本物とすり替わったの?」
「その答えは、その人が、知ってるんじゃない?」
マリーは、レンに視線を流しながら答え、その視線を受けた若者は、僅かに苦笑した。
「知ってると言うか、見てたからね。その現場を」
肩を竦めたコウと、黙ったままのサラを交互に見ながら、若者は、しみじみと言った。
「中々、手先が器用だな」
「それで、終わり?」
やんわりと言いながら、マリーは小柄なレンを見据える。
「そこで、一度止めてくれれば、サラが怪我することも、無かったんじゃないの?」
「向こうで、止めてくれると思ったんだ。まさか、直前で気づくとは。お蔭で、弾弾くにも遅すぎて、軌道を逸らしきれずに、あの様だ」
「いい加減すぎるよ、それは」
シュウの責める口調にも、レンは無感情に返した。
「この間は、オレが止めたんだ。あいつらに少しくらい働いてもらっても、罰はあたらないだろ。同じような成り行きになったのは、偶然だよ」
この間の、とは模擬刀の件だろう。
その時には、レンではない誰かが、異変に気付いたと言う事か。
サラが目を見開いて、ティナを振り返った。
見返す女も、驚いた顔だ。
その様子を見て溜息を吐き、マリーが呟いた。
「人生相談なんて、柄じゃないんだけど、そうも言っていられないかしら」
「そうですね。多少でも、この現場を安全に終わらせたいし。でも、どうやって切り出せばいいのか……」
アンも困ったように言い、考え込む。
「え、何の話?」
「いえね、どうして、こんな所で、わざわざ自殺したいのかって話なの。よほどの事情だろうとは、思うんだけど……」
シュウは答えたマリーをまじまじと見つめ、次いで目を剥いた。
「ええっ? だ、誰がっ?」
「誰がって……」
答えようとした女は、見返した女の動揺に目を据わらせた。
「ちょっと、シュウ? あなたも、まさか……」
その問いに、激しく否定の意を表したが、無言での激しい首振りでは、不信感しか抱かれない。
「……仮にも役者なら、嘘の一つも、上手について下さいよ」
アンが、溜息を吐いてシュウの様子を見、マリーも、呆れ顔で首を振った。
そして、天井を仰ぐレンを見る。
「偶然、にしては、多くないですか?」
「そうでもないよ。オレ達があんたらを選んだ条件は、こういう事態も、考えられるものだったし。まあ、選んだ方は狙ってたんだろうね。その割にあの様だから、呆れてるんだけど」
ぽかんとして、その会話を聞いていたゲンが、我に返った。
「選んだって、何を、どうやって?」
「最悪の事態を考えて、命は、助けられるような、保険、みたいなものだな」
「命を助ける? あんたたち、一体何を言ってるの? 妨害の話じゃ、ないよね?」
シュウが困惑の表情を浮かべるが、アンの不審の目を受け慌てて言い訳した。
「あたしは、別に、大それたことは、考えてないよっ。余命が尽きかけてる、って分かったから、大きな仕事で幕を閉じたい、と思っただけで、自殺までは……諦めたっていうか……」
「一度は、考えたんだ……」
「華々しく、散ろうと思ったんだよっ。でも、人の目が沢山あり過ぎて、諦めたの」
「華々しく散る……」
自棄になっての告白の言葉を反芻し、アンが突然手を打った。
「ああ、そういう手もあったか」
一人納得している最年少の女優を、マリーが呆れ顔で見る。
「あのなあ、あんたらがどういう思惑で、小細工したかは兎も角、華々しく散るなんて、この現場では、無理だからなっ」
まだ混乱しているが、職業柄の何かを思い出したのか、コウがきっぱりと言い切った。
「え? そうなの?」
アンが、きょとんとして男を見ると、コウは大きく頷いた。
「散ったところで、この映画撮影現場じゃあ、華々しいニュースにならない。それどころか……」
「おい、あんたには、分別ってものがないのかっ。この人たちを混乱させて、どうするっ?」
思わず、拳を固めたゲンの言い分で我に返り、男は咳払いした。
慌てて顔を逸らして黙り込むが、女たちの目線が、それを許さない。
代表して、マリーが当然の疑問を投げかけた。
「あなた達、俳優じゃないでしょう? 一体、何者?」
「何者って……あんたが言うか?」
動揺するコウの隣で、ゲンがやんわりと返した。
「あんた、この国出身のマリーじゃないだろう? 本物は、数年前に癌で他界してる。あんた、何者だ?」
「何だって? 引退しただけじゃなかったのかっ?」
「ああ。確実にこの世にいない。アン……本名はアンナだが、その人の方は、この地に入ったという事実は分かったものの、その後の消息は不明だ。恐らくは、この現場にいたんだろう」
「……やっぱりアンは、ここに来たのっ?」
確信を込めた言葉に、コウが唖然とする中、アンが血相を変えて男に詰め寄る。
「来た後の消息が分からないって、どういう事っ?」
「どういう事って……」
喋り過ぎたと、今更ながら思いゲンは言葉を濁したが、アンはその顔を覗き込んだまま、顔を強張らせた。
震え始めた体が、そのまま座り込む。
「そ、んな、アンナ、そんなはず……」
突如、訳の分からぬ展開になり、戸惑っている女達とレイジは、食堂に通じる廊下から、静かな足音が近づいてくるのに気づいた。
この場にはいなかった、三人の男だ。
内二人は連れ立って、その後ろからもう一人歩いてくる。
「どうしたんだ、向こうの部屋まで聞こえてるぞ」
トレアが軽く声をかけ、揃った面子に首を傾げる。
「コウを尋問、って空気じゃないな、意外に」
「言い争いが聞こえたから、そうだとばかり思ってた」
カインも人の悪い笑顔で言い、その場にいた者たちを見回した。
そして、ゲンの前に座り込んだ、アンを見つけた。
「おい、若造が一丁前に、女泣かせてるのか」
「あ、ああ。ちょっと、な」
謝ると言うのも違う気がして、男は曖昧に返した。
そんな、微妙な空気になった面々を見回し、ジムは気のない声で言った。
「どうでもいいが、このややこしい現場で、ややこしい行動はやめてくれ。余計にやる気が失せる」
「おいおい、そういう正直な事は、言うなと言っただろうがっ」
「あからさまな、妨害する奴もいるんだ。取り繕うのも、面倒になってきた」
投げやりな言葉に、シュウが堪らず声をかけた。
「ちょっと。妙に意味深な言いようだけど、一体、この映画撮影の現場が、何だって言うのさっ?」
不安が混じった女の目を見返し、ジムは面倒臭そうに答えた。
「今頃知ったところで、どうなるんだ? 抜け出すのも難しいと言うのに?」
「……別に、逃げる者を、追う気ないけどな」
無感情な声が言い、男はそこに若者の一人が混じっているのに、今更気づいた。
「……そうなのか。だ、そうだぞ。もう手遅れかも知れないが、戻ったらどうだ?」
「殴るぞ。この間も言っただろうが。覚悟は出来てるってな」
見上げての言葉にはトレアがすぐに返し、ジムを見下ろした。
「それにお前だって、間に合うかもしれないだろうが」
「こっちは手遅れだ。間に合う訳がない。知っているだろう」
「おいっ」
「こらこら、折角こっちは、そこまで泥沼じゃないのに、お前らが、諍い起こしてどうする」
小柄な男の胸倉を攫んで、すごむトレアを、カインがやんわりと諫めながら、ジムから引きはがす。
そして、余計な事は、全く口にしないレンを見やった。
「あんたも、少しはフォローしてくれよ。この二人にしろ、そっちの二人にしろ、立場や性格的に、衝突する確率が高いのは、知ってたんだろ?」
「……知ってるからって、個人の事にまで関われるほど、今は、暇じゃないんだよ」
静かに答え、レンは薄っすらと、笑みを浮かべた。
「あんたの思惑も、はっきり分かってるけどね」
「……」
「こちらとしては、この現場が無事終わった後なら、あんたたちが何をやろうが、構う気はないよ。世を儚んで自刃しようが、復讐に明け暮れようが、ご自由に」
「……ちっ、聞いた通りの奴だな。相方は、あんたらと、敵対したくないと言い切ってたんで、オレが直接来る事になったがなるほどな、見た目に惑わされては、足元をすくわれるか」
「こんな所で、本性なんか出すなよ。部外者がいるんだから」
睨んだ目が一瞬、獣じみたものになったが、カインはすぐに目を閉じてそれを隠す。
「……」
そんな様子を、無言で見守るのは、女優の二人だ。
マリーは、他の仕事仲間も見回し、静かに口を開いた。
「この際だから、訊いておきたいんだけど。あの監督、本当は何者なの? 有名な実業家だと言うのは知っているんだけど、私たちを見る目が尋常じゃないわ」
あの監督だけでなく、初めに主役を張るはずだったが、今は雑用に甘んじている、二人の男も女たちを見る目に奇妙な光がある。
マリーがそう指摘すると、居心地悪そうに、ゲンが目を逸らした。
コウが代わりに、控えめな答えを返す。
「そりゃあ、あんたたちが、世に埋もれるには惜しい、別嬪さんだからだろ、きっと」
「パッと見、安産型だからな」
ジムが次いで答え、コウがぎょっとして睨む。
「おいっ」
「あんまり、そういう事、言われる機会がないけど……そうかな?」
シュウが首を傾げ、他の男に確認すると、カインも無言で天井を仰ぐ。
「子供を、楽に産めそうな体って……代理出産してくれる人を、探してこんなことしてるの?」
不思議そうなシュウに続いて、気を取り直して立ち上がっていたアンは、居心地悪そうに首を竦めて言った。
「それなら、私は無理ですね」
「それ、私も無理よ」
苦笑しながらマリーも言った。
「無理って、何で?」
カインが問うと、アンは苦く笑いながら答えた。
「何度か結婚したけど、子供が出来なくて。どうも、不妊の疑いがあるんです。検査した訳じゃないけど」
「右に同じ。子供を産むのには、あこがれるけど、ね」
マリーも続けて頷くと、シュウがあっさりと言った。
「それを言うなら、私だって無理だよ。子宮がないもの」
「へ?」
ゲンが間抜けな声で返すと、それがおかしかったのか笑った。
「家が貧しくってね。売る物が限られてたんだ。そのせいで、早いうちに子宮に腫瘍ができちゃった」
「……そう。あなた、本当の苦労したのね」
サラがしんみりと言い、続けた。
「私は、子供を一人産んだ後だったから、迷いもあまりなかったけど、随分嫌な選択だったんじゃない?」
「そんなことないよ。どうせ、子供出来ても、養えるか分からなかったし」
男たちの間の戸惑いに構わず、女たちは比較的のどかに会話を続けている。
「という事は、候補になれるのは、ティナくらい?」
「それはないわ。私の国は、長子しか、子を残せない決まりがあるの」
可能性のあった女もあっさりと、信じられない事を告白した。
「お国柄、小さな土地を大切にしててね、必要以上に、国民を増やさない法が昔からあるのよ。私、四女だから。昔は、それこそ固い貞操帯みたいなものを、強要されてただけだけど、最近は医学も発達して、子宮の摘出とか、無料でしてくれるのよ、国が」
「……」
ゲンが妙な顔をするのを見て、ティナも苦笑して言った。
「国にいる時は、それが当たり前だと思ってたけど、やっぱり他の国からすると、古いわよね。まさか、老衰や病での死が、恥さらしと罵られないなんて、知った時は、ショックだったわ」
「そんな国、古い時代には、あったことないんじゃ?」
「一昔前の日本は、病気で軍隊に入れない人を恥、って言ってたことが、あったらしいけど……」
「知らないだけで、色々な風習が、まだまだあるのかも知れないわね」
女たちが盛り上がる中、それを見守っていたカインが、ちらりとレンを見た。
「ヒビキは、そんなことまで分かるのか?」
若者は見返しただけだが、構わず頷いた男は、ふと浮かんだ疑問をぶつけた。
「そこまで下準備してた割に、今日のあれは、ぎりぎりすぎじゃあ?」
それまで無感情だったレンの顔が、露骨に顰められた。
「だから、さっきから、それを言ってるだろっ」
「そうなのか」
吐き捨てるように返され、意外に思いながらもカインは言った。
「まあ、コウを拘束すれば、もうあんなことはないんでしょ? 手伝おうか?」
「必要ないよ。その人だけ捕まえても、無駄だし」
「じゃあ、ゲンも、ついでに……」
「……濡れ衣だっての。あんなまだろっこしい妨害行為、オレはしない」
名を出されたゲンが、うんざりとした声で返す。
「それに、その妨害自体、あんたが考えてるものと違うみたいだぞ」
コウも言い、先程の女たちを交えたやり取りを話した。
「……そうか、生憎、耳はあまり良くないから、そこまではっきり聞こえなかったんだ。なるほどな」
カインが頷いてサラを見た。
やんわりとした笑顔を浮かべ、念を押す。
「もう、持ってないんだよな?」
一瞬、体を強張らせたもののすぐに立ち直り、女は頷いた。
「持ってても、やりません。肝心な事を、失念してたから……相手を犯罪者にするかもなんて、考えてなかったの。御免なさい」
神妙にコウの方へ頭を下げると、ティナもしんみりと言った。
「そう、それよ。私も、自分の事ばかり考えてて、他の人との思考の違いを失念してたの。本当に、申し訳ありませんでした」
「まあ、オレの方は、実際に危害を加える事には、ならなかったし、構わないが……」
ゲンが答えて、呆れたように続けた。
「よく五割もの小道具を、加工できたものだな、あんな短時間で」
「研ぐだけだったもの。簡単だったわ」
「調べた限りでも、そんな国あるのかって思ったが、その技能を見ても、現実味がないな。アジア圏内にある国の中に、そんな所があるとは」
あっさりと言われて、ゲンは呆れ半分で、感心している。
「まあ、色々話題のある国と違って、本当に、国の土壌だけを大事にしてて、後ろ黒いところがない国だからね。昔からの決まり事だって、民が納得してるから、抗争も起こってないみたいだし。過去の方にこだわり過ぎて、裏で他の国を脅かしてる国もあるけど、はなから他国に興味のない国柄だから、知られる機会はないだろうね」
無感情に言い、レンが部屋に戻ろうとするのを、マリーが止めた。
「何を苛立ってるの? あなたらしくない」
足を止めた若者がゆっくりと振り向き、答える。
「別に。苛立ってると言うなら、いつもなんだろ」
いつも通りの無感情な声だが、マリーは微笑んだ。
「助かったとはいえ、守る対象を傷つけたんだもの。苛立つのも仕方ないけど、それでだけじゃ、なさそうね」
「……」
歩き始めた若者に、アンが揶揄い交じりの声をかけた。
「もしかして、あのお話、実話だったんですか? あなた絡みの?」
再び立ち止まった若者はまた振り返ったが、先程とは動きが違った。
立ち止まったレンは、睨むように女を見ながら振り返る。
「そうなら、ここまで戸惑ってない。ヒビキの実話である可能性も考えられないし、セイは論外だ。残るはオレだけなのに、心当たりが全くない」
「何で論外なのさ。あの人の事だから、その手の話一つくらいはあるんじゃあ?」
きっぱりと言い切る若者に、シュウが思わず反論するが、レンは頑固に首を振る。
「甘い。あいつはな、そういう感情には、全くの無知なんだよ。見かけで判断して、誘惑する女もいたらしいが、気づきもしないで結局、女の方から去られてたらしいし」
「嘘」
「女は、自分の魅力で男を靡かせようとするから、それですむけど、男の場合は、そうもいかないだろ。だから、あいつは恋愛感情を、理解できないんだ」
「うわあ……」
男の中には、相手にその気があると思い込んだら、多少抵抗されても力ずくで済ます者がいる。
それが勘違いでもお構いなし、そんな相手にしか会わなかったのだとしたら、変哲的な恋愛論を持ってしまうのも無理はない。
「それ以前に、相手にふらっと来たら、襲うような人もいるものね」
サラが言い、女たちもめいめいに頷いている。
天井を仰いでいたカインが、難しい顔で唸る。
「読み合わせの時思ったんだが、あの脚本書いた奴、あんたらの知り合いなのか?」
「……ああ」
「あんたたちの事を、面白おかしく、盛り込んでいるんだな?」
舌打ちするレンに、男はずばり訊いた。
「何個くらい、あんたの事が、盛り込まれてたんだ?」
「…そ、んな事を聞いて、どうするんだ?」
僅かに、引き攣らせた顔で返す若者の珍しい反応に、女たちも興味津々な顔で、身を乗り出した。
「……オレは、一つだけだった」
「他の二人は?」
「聞いてない」
「何で?」
妙に食いつく一同に引きながら、レンは聞き返した。
「あんたらは訊けるのか? そんな個人的な事を?」
「……時と場合によるかな」
カインは、自分の相棒を思い浮かべて答えた。
「オレの相方は要領がいいから、ドロドロな関係には、ならないらしい。切羽詰まってて、どうしようもなくなったら、向こうから相談してくれるからな」
要領が良い、と言うよりも、屁理屈で女を納得させるのが得意なだけなのだが、それは言わないで置く。
そんな、カインの相棒を知っているはずのレンは男を一瞥したが、それについては突っ込まず話を切り上げるつもりで言った。
「こっちも似たようなものだよ。向こうから相談があるとか、こっちに矛先が向いたとか、そんな事情でない限りは、そんな話はしない」
「そうよね、あの話からすると、随分大事の話だもの」
錯乱状態の女を、正気付かせる為に、己の命と女が身籠っていた命を、賭けた男。
「これに関しては、全くの作り話と考えた方が、しっくりと来るはずなんだ」
それなのに、二人までもその話で動揺していた。
「どこまでが作り話で、どこまでが真実なのか、か」
その真実の部分が濃厚過ぎたのか、作った部分が、余りに予想外だったのか。
「……」
シュウが首を傾げたまま、レンに尋ねた。
「逆の経験の、心当たりはない?」
「? 逆?」
何を言い出すのかと、眉を寄せる若者に、ゆっくりと問いかけた。
「つまり、あなたの子を身ごもった女を、手にかけてしまった、あなた自身が心許した男、いなかった?」
天井を仰ぎ、レンが考える。
その様子は、いつもの表情と裏腹の、無邪気なものだった。
童顔は得だな、などと考える男がいる中、若者は答えたが困惑気味だった。
「似たような事態は、あったけど……あんたが、言う話でもない」
「どんな、話なんですか?」
思わず身を乗り出すアンに、呆れ気味な目を向けつつ、レンは慎重に答えた。
「一時、付き合ってた女が、不慮の死を遂げたことはあるけど、それは……」
躊躇った様子に、アンは目を見張り、目を泳がせた。
「……」
「それは?」
口を噤んだ女に構わず、カインが何気なく問いを重ねると、若者は咳払いして言った。
「いや、それは、色々、かけ離れてる、と言うか……大体、その女は、身ごもってはいなかった」
「それは、あなたが知らなかっただけ、ってことは、ない?」
マリーが意地悪く問うと、レンはきっぱりと否定した。
「それはない。その場に、ヒビキもいたからね。もし、女が、そんな大事な時期だったのなら、命の危機を、あんな冷酷に見守れる奴じゃない。女の方も、取り乱してたから、今回の話の通りかも、はっきりしないし」
言いながらも、レンの表情は曇っていた。
別な可能性に思い当たっての事だと、役者たちが唸る中で……四人が、目線だけをある方向へ向けた。
それは、一瞥、と取れるほど一瞬の間だったが、その先で静かに立つ者の、気配の変化に反応しての事だった。
「……ヒビキの感覚が、どういう優秀さかは知らないが、女は、あんたが信用していた男に嘘をついた、と?」
「……言葉にしてほしくなかったんだけど」
トレアが考えながら口にすると、露骨に顔を顰めながら、若者は言葉を吐き捨てた。
「でも、そう考えると、昼間の件は納得できる。昼間の件は、ね」
何もかもの感情を、その短めの言葉に込め、レンは気を取り直した。
「あんなことは二度とないように、オレも気を付けておくから、今の話は、聞かなかったことにしてくれ」
「はあ」
これは、弱みを握ったことになるのか、と男たちが目を交わす中、若者は今度こそ食堂を後にした。
「……話がついたのなら、喧嘩なんかやめて、早く寝てしまいなさい」
女たちも言いながら、ゲンとコウを促して食堂を後にする。
「やれやれ」
カインも、ジムと連れ立って歩き出したが、小柄な男が、長身の相棒を振り返った。
「どうした?」
「……いや、ちょっと、何だ……」
「? 訳分らん事言ってないで、早く休め。明日も大変だぞ」
「あ、ああ」
何かを気にしながらもトレアは頷き、後の二人に続いて、部屋へと戻って行った。
全員が部屋に戻っていく背を見送り、一人残ったレイジは、大きく溜息を吐いた。
人が集まる場だ、こういうこともあるだろう。
そう思いながら、自分も部屋に向かおうとしたが、思い直して別方向へと歩き出す。
先に、雇い主へと電話連絡をしようと、思い立ったのだ。
食堂の脇の、なぜかドアも階段もない壁の、行き止まりに続く廊下の前に据えられている、昔懐かしい公衆電話に向かって足を進め、受話器に手を伸ばした時、そこに立ち尽くす人影に気付いた。
青白いその顔にぎょっとして、思わず悲鳴が口から洩れた。
「ひっ…」
「驚かせて、すまない」
長々と、悲鳴を上げる前に口をふさがれ、やんわりと声を掛けられた。
やんわりとしているが、落ち着いた声音が誰のものか思い当たるのを察して、若者は男の口から手を放す。
「せ、セイさん、いたんですか?」
「いたと言うか、避難していた、と言うか……」
避難? と首を傾げるレイジに、セイは穏やかに説明した。
「ああいう場は、得意ではないんだ。やり過ごそうと、こちらに避難していたんだが、中々切り込んだ質問をしていたな、あのレン相手に。私ではできない事だ」
「こんな所に来ようとする人たちですから、好奇心は、人並み以上なんでしょう。それより……」
男は若者が、右手を軽く振っているのを見て、顔を曇らせた。
「今、そちらの手を、使いませんでした?」
「ああ、つい、とっさに。だが、丁度良かった。少し冷静になれたから」
「……」
穏やかに笑う顔を少し見下ろす形で見つめ、躊躇いがちに問う。
「あの、大丈夫ですか?」
「勿論。傷が開くほどでもなかった」
「そうじゃなくて……」
あっさり答える若者に首を振り、レイジは思い切って問いかけた。
「混乱してませんか? いや、そうじゃないな……」
さっき感じた事を、何とか言い表そうとしている男を見つめ、セイは溜息を吐いた。
「ああ、少し、腹が立ってる」
「……へ?」
思わず、間抜けな声を上げたレイジの肩を軽く叩き、そのまますれ違いざまに呟いた。
「思い当たらなかった。本当に」
立ち尽くした男をそのままに、セイはその場から立ち去った。
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