第8話

 話せる線引きを弁える男とその連れたちを見送り、信之は初めにいた部屋へ戻る。

 そして、先に室内に戻っていた優し気な顔立ちの男に一つだけ訊いた。

「あの凌って人は、お前の親戚か?」

「ああ。最近親父さんの親戚一同と顔を合わせる場があってな、そこでヒスイさんと蓮も初顔合わせだったんだが……」

 その最近は、どの位最近なのか、信之は敢て問わずに話を聞いている。

「親父さんの、血の繋がらない叔父に当たる人らしい。それに……」

 男は言いかけて躊躇い、咳払いした。

「兎に角、まさか、こんな所で再会するとは、思わなかった」

「そうか。まあいい。それよりも、例の件の方だな」

 信之がようやく話を戻すと、市原葵の隣に座った草太が大きく息を吐いた。

「カガミさんや若と、蓮って人が手を組んで仕事に臨んでいるというのは、話で聞いてたんだが……まさかそれが、あの件の現場だったとは、思いもしなかった」

 昨夜、行方が分からなくなっていた河原巧から、連絡があった。

 応援の要請だったが、犠牲者を出さずに確保まで出来る時間が、どの位あるかが分からないと言って来た。

 もしもの場合は、自分の命をもってしてでも時間稼ぎすると、切羽詰まったことを言われ、草太は慌ててこちらに話を持ってきたのだ。

「巧は、まだ、気にしてんのか? 親父が、その……」

「どうでしょうね。オレたちが気にしないと言っても、本人からすると一生付きまとう過去でしょうから、何とも言えません」

 葵の首を傾げながらの問いかけに草太が答え、優しい顔立ちの男が穏やかに頷く。

「出生の秘密なんて、中々割り切れるものじゃ、ないですからね。分かりますよ」

「お前は特にそうだろうな。あの旦那が父親じゃあ、ショックもひとしおだったんじゃねえか?」

「まさに、そうでしたよ」

 しんみりと言う葵も、父親とは生まれる前に死別している。

 それに答えて頷いた男は、カスミと呼ばれる男の、唯一生き残った子供とされていた。

「でも、事件の解決にかこつけて、やけになるのは、少し違う気がするなあ」

「巧の話では、予定より実行は遅れているようなんですが、今回妨害行為が認識されて、連中の危機感次第でまた変わる可能性がある、と」

「つまり、その妨害の真似事をして足止め、もしくは実行を遅らせるつもりなのかな?」

「多分。その割に、切羽詰まった声だったんで、ただの取ってつけた言い訳かも知れないですが」

 その可能性の方が大きいと、草太は内心危惧している。

「他の人だけならともかく、若もおられるのなら、その辺りを止めて下さるとは思うが……」

「信之。さっき、ミヤも言ってたが……」

 考えながら呟く信之に、男が苦笑して雅の呼び名を出して反論した。

「セーは、そこまで万能じゃない。神がかった動きを期待するな」

「お前こそ、あの人を過小評価していないか?」

 すかさず、雅の時にはできなかった反論を試みる。

「東さんもそうだが、あの人の今までの実績を、知らないだろう?」

「永くあいつとは顔を合わせていないし、その実績も知らないが、昔をよく知っている者はオレを含めた全員、そのきらいがあるのは仕方がないだろう。あいつには、どうしようもない弱点が、何個もあるからな」

 その殆んどは気にするものではないが、二つ程どうしても心配な弱点があった。

 その一つは、時を止めてしまったにもかかわらず、何故か弱い治癒能力だ。

 皮膚や骨は頑丈で、中々破れたり折れたりはしないのだが、それが耐えられない衝撃を加えられた時、意識があるうちは自力で治癒が出来ないのだ。

 今仲間の一人が医者としての勉強をしている最中で、まだその原因を解明できないと聞いているが、切羽詰まった状況で怪我をしたら傷を焼き塞ぐか、他人を治癒できる仲間に治してもらうかの対策で、今日まで何とか来ている状態だった。

 そしてもう一つは、薬の類に面白いほど弱い事だ。

 昔から、何としても休んでもらいたい時は、軽い睡眠薬を一服盛って、強制的に休んでもらっていたものだったから、こちらからすると有り難い体質なのだが、仕事の危険性を考えると、これは強力な弱点だ。

「しかも、ロンがオキやメルと一緒に、その首謀者についているんだろう? あの人は、経験上どのくらいの量で、あの子が動かなくなるかを知っているからな」

 父親であるカスミが係わっていた仕事を、ロンが受け継いだと聞いた。

 敵が哀れだと思った矢先、葵からの呼び出しを受けて妙な予感がよぎり始める。

 警察署の、取調室の一つに通されると、そこで待っていたのは初対面の水谷刑事と、池上武だった。

 先に駆け付けたのは草太で、信之と葵はどう突破口を見つけるか頭を抱え、意見を聞きたいという目論見で男を呼んだのだが、男が到着する前に武が訪ねてきたのだ。

「あなたが、エン殿ですか。初めてお目にかかります」

 丁寧に頭を下げた武と、戸惑いながらも挨拶する草太に挨拶を返し、男エンは二人の話を他の二人の話を交えて聞いた。

「池上さんの所の娘さんの恋人と、セーが同じ現場にいる、と?」

「あの方だけでなく、蓮殿もカガミ様も、です。偶然なのかは分かりませんが」

 そう話す武の横で、草太の口がぽっかりと開いた。

「……それ、大丈夫なんですか? あの三人が今いる現場は、カスミの旦那が罠を張った所のはずですよ」

「何だって?」

 流石に目を見張ったエンに、草太が説明した。

「お前、それをなぜ早く言わねえんだっ? オレはてっきり、蓮はヒスイさんの思惑をぶち壊すために、カガミさんと組んで海外へ行ってるとばかり……」

「それに、間違いはないでしょうが……」

 葵が目を剝いて喚くのを宥め、エンは眉を寄せる。

 そう、根本の目的は、ヒスイの思惑のぶち壊し、だ。

 どんな案件かは知らないが、カスミが兄の思惑に沿った方向へ持っていける様に罠を張った現場に、蓮を仕事と称して送り込んだのだ。

 ヒスイが仕事を持ち込んだ時、当然それに気づいたはずの蓮が引き受けたのは、二人の強力な助っ人を捕まえられたためだったのだろう。

 しかし。

「カスミの親父さんは、失敗してもそれを楽しむ傾向がある。だが、聞いた話では、あの人は降りて、ロンがその後を受け継いだと聞いたぞ」

「ええ。あの人は、この国にいます」

「……それも怪しいな。もう確保してるのか? 親父さんのことだから、罠を張る役を降りても、どこかで登場する役を持っているはずだが」

「……よくご存じですね。それは、確保済みらしいです」

 感心する草太には曖昧に笑い、エンは考える。

「ロンは、それなりに常識でものを考える人だが……ある事を除いて、という条件が付く」

 慎重に言葉に乗せると、葵が頷いて返した。

「あの人は、セイに関して言うと、自分の娘より束縛してえ相手らしいからな。だが、薬の心配は無用だぜ。知ってんだろ?」

 鏡月は匂いに敏感で、薬は警戒される。

 匂いを感じない量の薬をまず使うとすると、近くで直接吸引させるか服用させる必要があるが、敵対する相手を、元仲間とはいえ気軽に近づかせることは、セイもしないだろう。

 最悪、薬で倒れたとしても、それこそ蓮がいる。

「あいつは元々母親の家系が薬師で、薬に耐性がある上に、あの特技があるからな」

 蓮は、どういう形式で行っているかは謎な「特技」がある。

 それは、他人の体に入った薬物の類を、触れることで吸い取れる、というものだ。

 しかも、最近ではその薬を自分の体内で分析し、成分を変えて再び他人に戻す、という荒業まで出来るようになったらしい。

 もっとも、そのような特技を発揮できる場があっても、中々それを実行には移さない。

 だが、仕事の上で本当に必要なら、迷いなく使うだろう。

 母親の話題で不意に浮かんだ事を振り払いながら、エンは苦笑して返した。

「ですが、ロンは簡単な暗示なら、すぐにできる器用さがあります」

 蓮にも、少々厄介な弱点がある。

 それも、よくここまで生き延びたと、周囲を呆れさせている弱点だ。

 それは術関係の攻撃には最弱だ、というものだった。

 昔は特に、薬にまつわるものよりも呪い関係の危険が多かったはずなのに、勘の良さが幸いしてか、そこまで切羽詰まった状態になったことはないらしい。

 もっとも、それは本人の自己申告の話なので、信じてもいいとは誰も思っていない。

 鏡月は、潔癖症の気がある分、緊張感を持った動きをするが……。

「たまに、大きな段差で転びます」

 昔から鏡月とは面識のある池上武が、きっぱりとした声で主張した。

「転ぶだけならまだしも、昔は崖から足を踏み外して川に落ち、見知らぬ地に上がってしまう事があったそうです」

 だから、上野幸雄が最初にそれを危惧したのだ。

「ああ、セーも昔、くみ上げタイプの井戸に、水汲みしようとして桶の重みで落ちた事がある」

 それだけ聞くと、三人の内で蓮が一番しっかりしているように感じるが、本人曰く殆んど虚勢で生きてきただけ、なのだそうだ。

 とにかく応援を出す方向で、地図を見てその国への入国方法や、その国の関係者への連絡方法を相談している時、冷静に意見を述べていたエンを、唯一取り乱させることができる人物が、突如訪ねてきたのだった。

 しかも雅の連れは、池上家と昔因縁関係にあった、塚本家の人間だ。

 そして、より詳しい情報を、意図せず持ってきたくれたのだった。

「……一つだけ、塚本のあの方からは、私たちへの恨みつらみを感じている気配がありませんでした。最悪な事態は、あの方本人の言い分通り、考える必要はなさそうです」

「その割に、随分食って掛かっていたような気がしましたが」

 盗み聞きしながらひやひやしていたエンが、いつもの笑顔に僅かな苦みを加えて返すと、武は頭を下げた。

「心配をおかけしました」

 何とか、もう少し情報を引き出したかったのだと言い訳したが、あれは逆効果だと自分でも分かっているのかその声は弱い。

「しかし、下手な応援は、逆に邪魔になりかねないな」

「何でだ?」

 ぽつりと呟くエンに、葵は目を丸くして問いかける。

 慎重に男は答えた。

「その現場、元々は女の人しか選抜されなかったんだろう? だからこそ、警察は女捜査員の適用を模索してた。なのに今回は、男も選抜されている。その内の二人は、間違いなく実力がある人材だ。他の三人もそうである可能性が高い」

「その根拠は?」

 鋭く問う草太に、エンは微笑んで答えた。

「あの子は、そういう奴を選る事ができるからだ。オレたちを束ねる事ができた理由の一つは、その目の良さだ」

 それだけが理由ではないが、それがなければ信頼できる人材を、周囲に固めることなどできない。

「自身の弱点は、全員がよく承知している。だから、それを補える人材を投入するのは、当然と考えられる」

 信之が頷き、その後眉を寄せた。

「だが、これは想定内か? 補う人材の一人が、やけくそになる事態は?」

「案外、他の奴らもそういう奴らかもしれないな。紙一重の状況で、相手をかく乱させる方法もあるからな」

 エンは笑ったままそう答えた。


 最大の注意を払いながらも、稽古は続いていた。

 あれ以来、目立った妨害はなく、それでも赤毛の男は気を抜かずにその場その場の周辺の警護や、道具の点検を怠らない。

 真面目に見えない分、女からは見直されている今日この頃だった。

「予定通りの日程で、進みそうね」

 サラが気楽に体を動かしながら、近くにいたコウに話しかけた。

「意外に、そうなったな」

 頷くコウは、あの妨害の後撮影も早く済ます方向になるのではと、話していたことがある。

 その予想に反して、予定通りに舞台になる場所での、本格的な稽古が始まっていた。

 一人一人のドラマ性が深いこの話に、役者たちは脇役を含めて真剣に取り組んでいる。

 今日はその三日目で、準主役の側近の一人とある女の再会と、その衝突のクライマックスだ。

 コウが空砲の入った拳銃を懐から出し、慣れた手つきでその重さを確認していると、サラが目を丸くして尋ねる。

「それ、もしかして本物?」

「いや、だがよく出来てる。実弾が入ってたら、間違いなく凶器だな」

 言いながら珍しそうに手を伸ばす女に気楽に拳銃を差し出すと、受け取ったサラはその重さに更に目を丸くした。

「やっぱり、扱いが難しそうね。これで、本当に使ったら衝撃もすごいんでしょう?」

「さあな。撃ったことないから、分からない」

「……そうなの?」

 手慣れた様子からの疑問か、男の国の治安を知っての意外性からか、サラは驚きながらも男に小道具を返した。

 二人が今いるのは、監督や赤毛の脚本家、演出の内二人とは離れた場所だが、小道具は男が受け取る直前に、赤毛の男の点検済みだ。

 とは言え、役者が標準を合わせて人を狙ったところで、正確に当たるかは疑問だ。

 だから、万が一の点検だった。

「でも、おかしい現場よね。稽古の期間はどこもまちまちだから、長いのは気にならないけど、映画の撮影で、舞台になる場所まで足を運んでいるのに、カメラテストもないなんて」

「それどころか、監督もそれらしい指示を出さないな」

「でも、作る話はしっかりしているのよね。最初は詐欺かなって思ってたけど、わざわざ人を集めてお金を出して、私たちを騙したところで、余り儲からないでしょう?」

「……」

 世間話として口にしているらしいサラの疑問を聞き流しながら、コウは拳銃を内ポケットに仕舞う。

 その様子を見守っていたレンが、黙ったまま本格的に言い争う場所にいる他の二人の方を遠目に見た。

 その視線の先で、ヒビキは傍の柵の下を覗いている。

 全員でぞろぞろと山を登り、まだ空気が濃い開けた場所での稽古だ。

 近隣の金持ちが、時々観光で訪れるからか、柵の向こうには緑と山々の絶景が広がり、自然に削られてできた崖の下には、山頂から流れ落ちる清水が勢いよく流れていた。

 それ程大きな山ではないが、殆んど人の手が入っていない為か、河原の石がはっきりと見えるほどに大きい。

 その崖の手前の柵は木製のものだが、子供ですら楽にまたげる高さのものだ。

「そろそろ撮影日を決めないといけないわね」

 ローラが言い、セイに笑いかけると、若者も笑い返した。

「こういう事はよく分からないので、間違っていたら申し訳ないのですが、小型のカメラででも映り具合を見ておいた方が良かったでしょうか?」

「そういう心配は、しなくてもいいわ。私が全部用意するから」

 色っぽく笑う女から目をそらし、ヒスイは出来るだけ周囲に気付かれないように溜息を吐く。

 その心境を察しているのか否か、セイは笑ったまま女に頷き、赤毛の男を一瞥した。

 そして、待機組の役者たちの方へ視線を投げる。

 女たちが真面目に台本を見直している傍で、男たち四人はそれぞれ鋭い目を監督へと向けていた。

 セイの傍で立ち尽くすレイジも、一瞬顔を強張らせたが何も言わない。

 そんな周囲の様子を見回してから、セイはレンの方を見返した。

 目が合ったことを確認したレンが、コウとサラに何かを告げると、コウの方が大きく手を振った。

 準備が整ったという合図に、セイは頷いて声を張り上げた。

「始めてくれてもいいぞ」

 これも、最初は耳を疑ったが、今では全員がすっかり慣れ、そう言われた二人も気持ちを切り替えて動き始めた。

 まず、サラがのんびりと歩き出し、空を仰ぐ。

 そのまま見物人が待つ場所へと進み、柵の傍で立ち尽くして視界に広がる絶景を見回して微笑んだ。

 振り返ると、そこに厳しい表情のコウがいる。

 軽く息を乱しているのは、走って追いかけたせいだ。

「久しぶりね」

「お前だったのか。あの方を執拗に狙っていた刺客は?」

 微笑んだまま黙る女に、男は顔を歪ませる。

「裏切りの上にこの所業、見過ごせないのは分かっているな?」

「……」

 微笑む女の顔が、少しだけ崩れる。

「あなたの事だから、どんな相手にもそうやって義理を押し通すんでしょうね。いいわ。それがあなたの意志なのだから、そうすることであなたが満足するのなら、好きにすればいい」

「お前が忠義の意味をそう言っているのなら、そうだろうな。だが、お前の所業は裏切りだけじゃあないだろう」

 絞り出す声は、男の感情の複雑さを明確に表していた。

「お前は親友ともいえる程、親しかったはずのオレの相棒を、手にかけた。それとも、元々お前は、向こう側の人間なのか? あいつと親しくなったことも、オレとの関係も、偽りの者だったのか?」

 そう思いたくないが、そう考えるに至る程の行いを見てきた男の問いに、女は黙って俯いた。

 そして、静かに問い返す。

「あなたのご主君の、あの方がそう言ったの?」

「……」

「それを、あなたは信じた。そうよね、あなたにとって、あの方はそういう存在だもの。仕方ないわ」

「今、お前が仕えている主君が何処の誰かは知らないが、忠義について語るならお前も同じだ。こちらを心から信頼させておいて、あっさりと寝返るような指令を出す主君に、ここまで尽くすんだからな」

「そうね。あの方は、そんな指令出さないけど、それを受けてもいい位には、信頼できるお方だわ。敵対勢力にいた私の命を助けてくれた上に、大事な指令を与えてくれた」

 目を閉じてその命令を出した時の相手を思い浮かべ、女は目を開いて男を見つめ返した。

「あなたは、家の存続と主君への忠義、どちらが大事かしら?」

「……急に、何を言い出す?」

 台詞はそれぞれ続き、話は一気に進んでいくのだが、実は初めの武将云々の話からかなり遠ざかった話になっている。

 それでも真面目に取り組む役者たちに、ヒスイは内心感心し、時代考証は無視の話とは言え、よくこんな話を盛り込んだものだと、弟には呆れ返っている。

 殺伐とした空気が走り、男が静かに懐から拳銃を出して構える。

 ヒスイのすぐ傍に立ち尽くしていたセイが、不意にびくりと体を強張らせた。

 何かを口走ったが、言葉までは分からない。

 男が標準を合わせて引き金を引いた拳銃の発砲音が、その声をかき消したのだ。 

 男の前で、サラが頭から血を吹いて体を揺らし、倒れていく。

 危うく低い柵から崖へと落ちそうな勢いだったが、その前にヒビキが動いた。

 倒れこむ女を抱きとめ、勢いを殺して地面に座らせると、見学者たちの方を睨んだ。

「遅いっ」

 睨まれたセイが、珍しく謝った。

「すまない」

「謝って済むかっ。完全に弾が掠ったじゃねえかっ」

 ヒビキの言葉で、ヒスイも我に返った。

「掠っただけ? 今のは、どう考えても……」

 男の構えからして的を外したようには見えず、完全に絶命したと思っていた男は呟きながら女の傍に近づいた。

 レイジも慌てて近づいて、ぐったりとしているサラの傷を見た。

「額を掠っただけのようです」

 衝撃が強かったのか、女は失神状態だったが、傷も浅く息もあった。

 脳に異常がないかはここでは分からないが、すぐに目を開けてレイジの短い問いかけに正常に答えたところを見ると、今のところは大丈夫なようだ。

 それを確認して、ヒスイは撃った男を振り返った。

 コウは、拳銃を両手で握りしめたまま、固まっていた。

 銃口からはまだ薄く煙が上がっているから、どこかからか音に合わせて別な者が撃ったという訳ではないようだ。

「……実弾は一つだけだろうと、思い込んでいたんだ。その時一旦止めれば問題ないと」

 珍しく言い訳じみた事を言うセイの言葉で、コウは顔を持ち上げた。

 ぎこちなくそのまま拳銃を片手に握り直し、近くの木に狙いを定める。

 引き金を引くと、先程と同じ発砲音が響いた。

 細い枝を打ち抜き、枝はそのまま地面に落ちる。

「……」

「どういうことだ? どこですり替わった?」

 ぽかんとするコウの様子を見ながら、ヒスイが呟いた。

 先ほどの確認では、確かに空砲だった。

 その後、すぐに役者であるコウに手渡したから、すり替える間は、無かったはずだ。

 だが、コウの今の驚きは本物だ。

 ヒスイは人の表情を読むことには長けていないが、それくらいは分かる。

 では、いつの間にすり替わったのだろう?

 他の役者たちがまだ放心しているサラに近づき、女の一人が心配そうに呼びかけている。

 立ち尽くしているコウには、セイが近づいて行き、握りしめたままの拳銃をあっさりと取り上げ、近くに広がる森へと歩いていく。

 その時、のんびりと戻って来たレンがヒビキに事情を聞き、首を傾げた。

「あんたやセイらしくないな。そんな余裕のない動きは。何かあったのか?」

「……いや、ちょっとな、あり得なかった未来を、そのまま制作されているような気がしちまって、動けなかっただけだ」

「何だ、それ?」

 居心地悪そうに答える女から、何かを探しているセイに視線を向けると、若者はその動きを止めてサラの具合を心配そうに見守る役者たちを見ていた。

 レンが目を細める先で、セイは空を仰ぎそのままこちらに戻って来る。

 困惑顔の若者に声をかけると、我に返っていつもの笑顔を浮かべる。

「どうした?」

「いや、少しぼんやりし過ぎていたらしい。危うく死人を出すところだった」

「らしくないと、ヒビキとも話してたんだ」

「すまない」

 多くを語る気がない、そんな返事にレンは軽く舌打ちする。

 一人ならまだしも、二人までがそんな様子で反省している。

 気になるが話す気がない相手を問い詰めるには、どこから突き崩すかを見極めなければならない。

 今はそんな余裕もないので、レンは仕方なく被害者の方へと向かう。

 ローラに女の具合を報告する為に離れたヒスイと入れ替わりの形で近づいたレンは、女の傷が髪の毛と額の皮一枚を焼く程度の傷であることを確認し、とりあえずほっとした。

 ようやく目を開けたサラに、少しだけ優しく声をかける。

「立てそうか?」

「何とか……すみません、こんな……」

「あなたのせいじゃないでしょ」

 サラの謝罪にレンが答える前に、マリーが強く答えた。

「許せないわ。弱い女性相手に、こんな……」

「……」

 全員が同意見で頷く中、サラは居心地悪そうに首を竦める。

 そんな女と、ようやくぎくしゃくと歩き出したコウを見比べて、やれやれと空を仰いだ。

 このことが、少しは何かを変えるきっかけになればいいのだが、それは個人の問題で自分が好き勝手に考える事ではない。

 結局は、成り行き任せにするしかないのだった。


 報告を聞いた東は、嘆かわし気に空を仰いで見せ、言った。

「あのね、ヒスイちゃん。今回あそこに集まっているのは、売れてないとはいえ役者なのよ。騙されちゃ駄目でしょう」

 呆れを滲ませる幼馴染の言葉に確かにと頷いたが、その事に自分が思い当たっていないと思い込んでいる様子に、少々ムッとする。

 この幼馴染は、昔から勘がいい。

 だが、その勘に頼りすぎているきらいがあると、弟は指摘していた。

 こんな時その言葉に納得できる。

 東は勘があまりに鋭く当たるがために、その勘を信じすぎて決めつけてしまう事がある。

 どんな生き物でも、その勘で感じた以上の行動や思惑に出る場合があるのに、それで自身が失敗したこともあるのに、これだけは改まらない。

「じゃあ、その男が、すり替えたってのか?」

 それを知っているメルは、話を戻す。

 このまま口喧嘩しても、ヒスイに勝ち目はないからだ。

 たいていの男相手なら体力的にも上だが、東はあまり敵に回したくない相手の一人だ。

 下手に息子の肩をもって、こちらに矛先が向いても困る。

「そうとしか思えないわね。その台本通りに動いたのなら、女を撃った後、男も後を追う事になってたけど、後の銃弾は使わないと高をくくっていたのかも」

 自分も狙われていたと思わせる、カムフラージュ。

 演出者や監督が、撃たれた女の様子がおかしいと気づいたら、それでいい。

 もし気づかなくても、それとなく自分が気づくふりをして止めるつもりだったのだろうと、東は言う。

「妨害者は、そのコウって奴か?」

「一度、詳しく素性を調べる必要があるかもしれないわね」

 人を食ったような笑顔で答えた後、別な事をヒスイに確認した。

「例の三人の内、レンちゃんだけは、離れた場所にいたのね?」

「ああ」

 赤毛の男は頷いて、その時の位置関係を思い浮かべる。

「ヒビキって女は崖の傍、セイって奴はオレの隣に立ってた」

 それを聞きながら考え込んだ東の傍で、メルが呟く。

「そいつらがすり替えたってことは、ねえかな?」

「あるはずねえだろ」

 メルの疑いには、即否定が返った。

 仮に手品まがいの事が出来て、妨害側の人間だったとすると、今迄動きがなかったのはおかしい。

「オレが、小道具の確認をするようになる前もその後も、チャンスはいくらでもあった。確認後にすぐすり替えりゃいいだけなんだからな」

 それをした形跡はないし、過去今回の事を含めても二回だけしか、脅威を感じる状況に至らなかった。

 それに、あの三人の中にレンがいるにしろいないにしろ、息はかかっているはずの三人が、レンの意志を無視して妨害に徹するはずもない。

「それにだ、あいつら、今日は焦ってた。危うく一人死者を出すところだったってな」

 ヒスイの隣にいたセイは、コウが発砲する瞬間、体をはね上げる程にびくりと反応していた。

 幸いなことに銃弾は逸れたようだったが、あの焦りは本物だった。

「じゃあ、やっぱり、怪しいのはその男ね」

 東は資料を確認しながら呟いた。

「この名前が、偽名でないのなら、すり替えることができる子である可能性は、充分にあるわ」

 カ・コウヒ。

 写真の顔は、どこかで見たような男という程度だが、変装なら。

 この名前が偽りでないのなら、懐かしい男だった。

 だが、懐かしいというだけで、今は出て来ては困る男だ。

 その男の変装した姿がこの写真なら、その変装を解いてヒスイの前に姿を現す前に、何とかしなければならない。

 最悪、この手を汚す必要もある。

 この男の存在を、ヒスイやメルに知られる前に。

 あの撮影現場に紛れているであろうセイが、真相に気付いて指摘する事態になる前に。

「・・・やっぱり、話に聞くだけでは、はっきり分からないわね」

 先日オキが「セイ」の傍にいることを知った東は、セイがこの現場で自分に敵対して忠告している事を察していた。

 何とか裏をかきたい。

そのついでに、コウと呼ばれる男が何者かも見極めようと、さりげなく呟いた。

「今更だが、露骨にお前が前に出て、紛れてる蓮たちに警戒されてもまずいんじゃねえのか?」

「すでに警戒されているんだから、本当に今更ね」

 心配する幼馴染には軽くそう返し、いつものようにこれからの事を指示する。

 そうしながらも、今もどこかにいるはずの若者の気配を探ってみたが、見事に分からない。

 蓮の知り人の名を持つ男への警戒で、少しは何か反応があると思ったのだが、同名でも違うと割り切っているのか、全く変わりがなかった。

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