第7話



 晴れ晴れとした空の下、殺陣の本格的な稽古が始まった。

 これまでの数日は、各々に合った武器ややり方での殺陣の動きを、演出を交えて練習するのが主だったが、これから話に沿って台本の台詞を交えながら相手と刃を交える稽古を始めることになる。

 本物顔負けのモデルガンや、模擬刀が小道具には多数入っていて、その中の一つをこの数日で手に馴染ませる作業も兼ねていたものと思われる。

 台詞合わせでは戸惑った男たちも、体を動かす事では気晴らしにもなって真面目に打ち込めた。

 エキストラでのやられ役も、新鮮に感じて楽しみながら稽古に励んでいた。

 今回、日本の太刀に似せた模擬刀でゲンが斬り捨てるのは、女のティナだ。

 形は様になっているが、本気で相手を斬り捨てられるかが男の課題なのだが、ゲンは苦笑して言った。

「それも大事だろうけど、そっちがうまく斬り捨てられてくれるかが、問題だな」

「心配しないで。何度かサスペンスで殺される役位はやってるから」

 ずっしりとした模擬刀の鯉口を切り、手慣れた様子でその刃を確かめてすぐに収めた男の言い分に、ティナは笑いながら答えている。

「ただ、ダメ出しは覚悟した方がいいわよ。あの人たち、その辺りの動きには厳しそう」

「怖いなあ」

 今日は、見物が多い。

 いつもの演出と通訳の二人だけでなく、監督と赤毛の男が護衛を引き連れて見学に来ていた。

 他の役者たちも、いつもより若干緊張しながら、小道具を振り台詞を口にしていたが、ティナもいつもより顔が強張っていた。

 それでも、自分たちの番が来て立ち上がると、表情が引き締まる。

 その変化に内心舌を巻きながら、男も立ち上がった。

「そういえば、刀同士の斬り合いは、君らが最初だな」

 それまで大木を背に立ち尽くしたまま見物していたセイが、穏やかに声をかけた。

 確かに、これまでの話は全く別な武器での殺陣で、それもあって少し緊張していたゲンは頷いた。

「ありきたりな武器同士で、カメラに映えるのか、気になるな。レン、一度ティナの代わりにその人とやってみてくれるか?」

「ん? オレか? 何で?」

 急に振られたレンが当然尋ねると、若者はやんわりと答えた。

「ティナと同じくらいの体格だから、分かりやすい」

 暗に含む言葉に気付き鋭く睨みつつ動いて、立ち尽くしていたティナから模擬刀を受け取りながら尋ねる。

「力量は、どの位だ?」

「ゲンが、本気で斬りかかる位に乗るまで、手を抜くな」

「え」

 女を脇に引かせ、セイの言い分に固まる男の前に立ったレンが、少し首を傾げる。

「本物じゃないとはいえ、怪我させるかもしれないぞ」

「大丈夫だ。その人、しっかりと最低限の防具を身に付けている」

「へえ」

 相槌を打った若者は、図星を刺されて目を剥く男を見て少しだけ表情を緩ませた。

 それは、ゲンだけの話ではないらしく、見物に回る男たちも動揺している。

 ゆっくりと鞘から刀を抜くと、若者は前触れもなく飛び掛かった。

 慌てて男も刀を抜き、辛うじて不意打ちの攻撃を受ける。

 小柄な体に似合わぬ、重い攻撃だ。

 そんな攻撃の合間にゲンも反撃するが、全く当たらない。

 自分よりも大柄な者を相手にすることが多いという言は本当のようで、これでも隙を作らない方だと思っていたゲンの懐に、一瞬のスキをついて入り込んでくる。

 興味なさげにしているローラの横で、ヒスイは二人の動きを観察していた。

 どちらも、流派という概念で分けられる形ではない。

 だが、素人の割にゲンの動きはスムーズで、少しずつ感覚を攫んでいるように見える。

 レンの方は、その感覚を少しずつ引き出すように動いているように感じる。

 打たれながらも必死で食い下がり、周囲も気にならなくなったゲンの動きが、攻撃に適した状態になった時、ヒスイの目から見ると明らかにレンの動きが鈍った。

 ゲンはレンに本気で斬りかかり、それが出来る感覚を覚えたが、予想に反して若者は紙一重で避けた。

 勢い余ってよろけた男の手にある模擬刀を、レンは自分の持つ武器で思いっきり払う。

 弾かれて手を離れた武器は、そのまま宙を舞った。

 そういう動きを見慣れていないレイジは、ゲンが打たれる度に顔を歪ませつつも、ただヒビキの隣で立ち尽くしていたが、甲高い音が響くと同時に、自分のすぐ耳元で聞きなれぬ音を聞いて、振り向いた。

 周囲がどよめく中、当てられてはいないが手に衝撃を受けてそのまま蹲っていたゲンが、当然の文句をレンに訴えた。

「何、本気で反撃してるんですかっ。約束が……」

 文句を言う相手は、険しい目で全く他所の方を見ている。

 周囲も何故か驚きの顔で、同じ方向を見ていた。

 そこには、大木を背に立つ三人がいた。

 セイの足下には黒猫が、今では馴染んだ様子で寛いでいる。

 その隣に立ち尽くしたヒビキは、胸元で腕を組んだままレンを睨んでいた。

 そして、その耳の辺りに、先程飛んで行った模擬刀が深々と突き刺さっている。

「……レン、お前、オレに、喧嘩を売ってんのか?」

 その隣で突然生えたように見えたその物体に、目を剥いていたレイジが、座り込んでしまうのを横目に、ヒビキが低い声を出した。

「売るつもりはないけど、オレも、あのまま斬り捨てられるのは、御免だな」

 無感情に答えたレンの目線の先には、小首をかしげたまま立ち尽くしているセイがいる。

「随分必死に避けたな。もう少しスムーズに出来なかったか?」

 穏やかな問いに、目を細めた小柄な若者が静かに答えた。

「気づいたのが、斬りかかられる寸前だったんだよ」

「そうか。まあ、他の所でなかっただけ、考えた方か」

「腰抜かしたのが、約一名出ちまったがな」

 言いながらヒビキが座り込んだレイジに手を差し伸べ、レンがその様子を見ていた監督と、内心舌を巻いていたヒスイに目を向けた。

「本物を使うなら使うで、最初から言っててもらわないと、困るんですけど」

 無感情な言葉に、木に模擬刀を突き刺せるほどの怪力なのかと、感心していた男が今度は別な意味で目を見開いた。

「何を言ってる、そんなもの、使う訳が……」

 言いながらその場所に近づいたヒスイが、その様を見て見開いていた目を鋭く細めた。

 力づくで押されて木にめり込んだにしては、刀の刺さり方がおかしかった。

 刃紋に沿った形で、斜めにめり込んでいる。

 柄を攫んで引き抜くと、思ったよりも簡単に抜けた。

 目を細めてその刃を確かめ、顔を歪ませた。

「何でここまで、研がれてる?」

 呟く声に答える者はいない。

 ただ、セイが小さく笑った後、感想を述べた。

「道具箱にしまっていただけなので、機会ならいくらでもあったでしょうが、中々器用な作業ですね」

「感心してる場合か。他の物は? 大丈夫なのか?」

「少なくとも、これは普通です」

 レンがヒスイの問いに答え、まだ手にしたままの模擬刀を掲げて見せた。

「じゃないと、その人は完全に死んでます」

 視線を向けられた先の男は、まだ痺れる手を抑えたまま座り込んでいた。

 痺れによるものだけでなく、別な感情が体中を震撼させて立ち上がれないようだ。

 ティナが選んだ武器がもし、自分が持っていた物だったら……という恐れよりも、もしもあのままティナと打ち合っていたら、自分は確実に女を死なせていたかもしれないと言う思いが、体を固まらせていた。

 それを見ていたヒビキが小さく笑う。

「可愛いもんだな。起こってもいない出来事で、そこまでショックを受けられるとは。昔のオレも、こうだったっけな」

「想像できないな、それは」

 穏やかにそう答えてから、セイは監督の方へと目を向けた。

 この後の対処の指示を待つ意でのその動きに、ローラは頷いてヒスイに言った。

「まずは、道具箱の中身を全てチェックしてちょうだい」

 保管場所を変えた上で、施錠を徹底することと、鍵の開閉はヒスイが行う事などをてきぱきと指示した後、ローラは顔を曇らせた。

「こんな事をする輩もいるのね。もっと、大っぴらに妨害しに来ると思ってのに」

「ここに来る程の連中は、暇なんでしょう。今回は大事にならなくてよかったです」

 穏やかに受け答えするセイを遠目で見つつ、レンが無感情に呟いた。

「……妨害を警戒してるなら、真っ先にする対処だろうにな」

「頭いい割に、こういうとこが抜けてんだな、あの女」

 演出二人の会話に何となく集合した役者たちが顔を見合わせ、トレアが恐る恐る尋ねた。

「何ですか、妨害って?」

「この映画撮影の映画の内容、歴史詐称を良しとしない奴らからすると、許せないらしくてな、オレたちは、その警戒をするための人員でもあるってわけだ」

「歴史詐称? 小説や映画は大概そうでしょうに」

「ノンフィクションでも、そうなりますよ。歴史ものは特に」

 一々目くじら立てて妨害するほどの物でもない。

 呆れ果てる役者たちに、レンも首を竦めた。

「だから、ただの後付けの理由と思ってたんだけどな」

「まさか、本当にあるとは。こちらも驚きだ」

 ヒビキも小さく笑いながら首を竦めて見せ、話を終えて戻ってきたセイに声をかけた。

「どうだった?」

「五割、加工が施されていた」

「……本当に、よくそこまで出来たな」

「全くだ。夜の間に、周囲の目を盗んで、よくやったと言いたいが、無駄骨になった。全部回収して、未加工の物と取り換えるそうだ。そういう理由で、昼からの稽古は予定を変更して、台詞の読み込みの時間にする」

 まだ緊迫している空気の中、セイの声は穏やかに告げた。


 予想外な展開が多すぎる。

 頭を抱えるヒスイを容易に想像できる、とオキは含み笑いしている。

 セイの部屋で寛ぎ、いつものようにヒスイがロンたちと連絡を取り合う現場に行っているはずのレンを待ちながらも、オキは楽しげである。

 妨害はこちら側からしても予想外の事なのだが、セイの様子には変わりがない。

「意図的に妨害する奴を、一人選抜でもしたのか?」

 眠そうな若者に、男が昼間からの疑問を投げたが、セイは答えずに窓から外を見た。

 その様子から、全く別なことを考えているのが分かる。

「無駄だと思うぞ。ロンは、お前がこの件に関わっていると察しても、引かない。むしろ、逆に張り合う気になるはずだ」

 この数日、敢てオキを「セイ」の傍に付け、ヒスイにそれとなく見せていたのは、ロンに遠回しな忠告をするためだった。

 それを知りつつもその指示に従ったのは、オキにはこれで出来れば引いてほしいと言う願望があったからだ。

「だろうな」

 セイの方も、同じ気持ちだった。

 だから、オキの意見に頷きつつ、溜息を吐いた。

「痛い目に合わないと分からないのは、あんたと同じか」

「……」

 かつて、オキも一度ある件でセイと鉢合わせたことがある。

 今回のような、敵対関係での鉢合わせて、結果は惨敗だった。

 律の力を借りてすら、痛い目に合った上に惨敗だった経験は、二度とこの若者を敵に回さないと誓わせるに充分なものだったが……。

 この、痛い目、と言うのが、曲者なのだった。

 だが、それは合ってみないと分からない類のもので、ロンに直接説明しようにも、出来ないオキだった。

 だから、その話題はすぐに切り上げ、今また、ヒスイたちの密談を聞いているであろう若者の方に話を逸らした。

「レンの奴、蘇芳に気に入られたそうだな?」

 窓の外を伺っていたセイが、少し振り返った。

「……それも、律さんからの情報か?」

「可能な限りの情報提供はしてもらった。この間、らしくもない気配の現し方をしたんでな。三年経ってもまだ、嫌悪感が消えないと言う事は、あいつ知らないんだな? 蘇芳が、女だと言う事を?」

「知ってたら、そこまで気にしなかったのかも知れないな」

「危なかったな。蘇芳の事は、言葉にして情報確認するまでもない話だったから、『政治家崩れの奴』止まりだったが……」

 男の姿で男を誑し込む女狐、などと言う言葉を蓮が聞いてしまっていたら、完全に動揺して逃げることも出来なかったかもしれない。

「……自己申告する奴ではないから、オレたちが知らなかったのは仕方ないが、珍しいこともあるもんだ。この手の作業で、レンが粗を出しかかるとは」

 鏡月がゆったりと寛ぎながらも、呑気に感想を述べてから忠告した。

「その話題、二度と口にするな。あいつ本人の耳に入って動揺されては、やりづらい」

 そういう鏡月は、先程どこかからか戻ってきたばかりで、同じくセイに言われてある場所へ行っていたオキよりも遅く、この部屋に入ってきたところだった。

 そして、待つほどの時をかけず、蓮も戻ってきた。

 音もなく部屋の窓を開けて、するりと入ってきた蓮は、苦笑していた。

「無理だろう、ありゃあ」

 何の事を言っているのかは、他の者にもよく分かっているその感想に、セイが小さく息を吐く。

「そうか。駄目か」

「それどころか、ロンのおっさんは疑ってるぜ。お前が、わざと、妨害の要員を選抜したんじゃねえかって」

「……違うのか?」

 思わず返すオキに、小柄な若者は苦笑したまま答えた。

「そこまでの暇はねえよ。オレらがやったのは、もしもの為に対応できる、男役者の人選と」

「もしもの為の女役者の選出だけ、だ」

「資料だけじゃあ分からない事は、分担して調べて置いた。最終審査の前に」

 最終的に、その選った人選から、更に十人に絞ったのがセイだった。

「ちょっと、力を入れ過ぎて、そこをカスミに突かれたから、焦ったけどね」

「それが、オレにはありがたい結果になったが」

 自嘲して呟く若者にオキが近づく目安が、あの時の読み合わせ時の、三人の反応だった。

「セイ」に近づきながら、猫本来の姿での呼びかけで自分の意思を伝えることに成功し、オキはもう一つの選択である、協力する姿勢を実行できるようになった。

「その、男役者の人材だが……もしかしたら、一人抜けるかもしれん」

 鏡月が先程仕入れた情報を、報告した。

「どうも、奴らを切る動きが、地元ではあるらしい。息子を盾に取られていた方は、ここに残る覚悟でいるようだが、女房を残している方にここから去るように言っていた」

「切羽詰まってきちまったな。向こうが先か?」

 目を細めて話す二人からオキへと目を向けたセイに、男は頷いた。

「そう考えたから、オレを行かせたんだろうが……少し事情が変わっていた。蓮、お前の不出来な弟子、今何やっているんだ?」

「? 何で、ここで始の話が出てくんだ?」

「例の被害者遺族の奴らに、始が接触していた。仕事顔で」

「……」

 眉を寄せた二人の若者の傍で、セイが目を丸くした。

「ガキ二人も抱えて、仕事に来てるとも思えねえが」

「誰かに世話を頼んで出てきたんだろう。葵の周囲には、お前の家の居候以外にも、子供好きがいるからな」

 そのまま小首をかしげて黙り込んだセイをよそに、二人の若者は話を深めている。

「仕事って言ったって、あの連中相手に何やるってんだかな」

「日本では有名な企業とはいえ、始の実家は、ああいう後ろ黒い話には縁のない会社のはずだろうに」

「リヨウが、引っ張り出すとも思えねえし、別ルートから引っ張り出されたんだろうが……」

 一体誰に? と首を傾げて黙り込んだ蓮と鏡月の代わりに、セイが無感情にオキに声をかけた。

「取りあえず、暫く様子を見ててくれ。もし、最悪な状態になるようだったら……」

「それ相応の対応をする」

 頷いた男に、鏡月がにんまりとした。

「お前、臨機応変が過ぎるな。いつものお前と見違えるようだぞ」

「他の奴の場合は、適当でも大目に見てもらえるからな。こいつの場合、それを許してはくれんだろ?」

 適当な対応ではなく、充分な対応を心掛けた結果の失敗なら、主である若者に顔向けできる。

 対応の仕方で責められたことはないが、セイの方針を知るオキからすると、それを心掛ける理由として充分だった。

 だが、その行動に移る前に、気になっていたことを尋ねた。

「ところで、あの半獣は、何の用でここにいるんだ? 察しはついてるんだろう?」

 夏に起こった惨劇を調べる為ではないようだ。

 暫く見物していてそう感じたオキに、若者は頷いたがそれ以上の説明を躊躇う気配を見せた。

 珍しい反応に目を瞬いた男に、蓮が代わりに答えた。

「行方が分からなくなった女を探してたら、ここに行きついた、ってところだ」

「匂いで辿った、と言うよりも、途切れ途切れの噂や女が口にしていたことで、ここに行きついたらしい」

 鏡月も続けながら、眉を寄せた。

 蓮もセイも表情に出さないが、鏡月は比較的正直だ。

 その様子で、言葉少ない説明の深い部分が見えた。

「……なるほどな」

 主と律以外の者への配慮はしないオキだが、それ以上の言葉は飲み込んで納得して見せた。

「後の問題は、時間が進む過程で自然に浮き彫りになっていくと思う。どの問題からくるかは分からないけど……・」

「ま、何とかなるだろ」

 呑気に返し、鏡月は苦笑する蓮を見た。

「あの赤毛の更生が出来るか分からんが、それ相応の場所代は払って行かんとな」

「ああ。世話をかけちまうな」

 ある程度の話が済んで、部屋の中の緊張が解けた。

 いつも通りの三人のやり取りに、自分も和む気持ちを引き締めながら、オキは指示された事を実行すべく、部屋を出て行った。


 日本時間の昼過ぎ、とある警察署に珍しい人が高野信之たかののぶゆきを訪ねてきた。

 その人は一人ではなく、これまた珍しい人と連れ立ってきている。

 信之は、内心焦りながらその人たちを迎え、応接室へと通した。

「始君のお子さん方の面倒を見ていると、聞いていましたが……」

 それとなく切り出すと、相手は笑って答えた。

「今日は、古谷さんに預けてきたんだ。この人に相談されたんで、こちらにも確認しなくちゃと思って」

「確認、ですか?」

 戸惑う中肉中背の刑事は、長身ですらりとした美少女の優しい笑顔から、隣の老女に視線を移した。

 気品のある、昔はそれこそ隣の娘ほどには男を翻弄させていたであろう、そう思わせる老女は、丁寧に頭を下げた。

「塚本いさみと申します。倅がいつもお世話になっております」

「ああ、いいえ。こちらこそ。塚本さんにはいつもお世話になっています」

「早速ですが、若から連絡がありましたか?」

「ええ。数日前に、暫く連絡出来なくて済まなかったと、謝罪を含めた連絡がありましたよ」

「そうですか。それ以降は?」

 身を乗り出す老女に戸惑いながら首を振ると、勇は小さく息を吐いて説明した。

「実は、お恥ずかしい話ながら、跡取りである孫がふた月ほど前から姿を消しまして」

 初耳だった。

 塚本検事には二人の子供がおり、長女はある財閥の跡取りと、駆け落ち同然に結婚してしまったため、後を継げる子供は現在大学生の息子だけのはずだ。

 若と呼ばれる若者に忠義を捧げていた一族が、秘かに危機を迎えていた。

「勿論、若をはじめ、他の方々にも極秘で、その行方を捜していたのですが、数日前に私宛に郵便で主人のパスポートが届きました」

 そのパスポートは使われた形跡がなかった。

「恐らく別ルートで、ある国に入ったのでしょう。なぜ自分の物を作成しなかったのか、わざわざ祖父のパスポートを持ち出す必要がどこにあったのか……私も倅も、困惑していたのですが……」

 また溜息をついた勇の代わりに、隣の娘が口を開いた。

「昨夜、セイから電話があったんだって。大学生の跡取りの行方は分かったのか? って」

「ほう」

 目を丸くしただけの信之に、娘は苦笑した。

「あの子が何でもお見通しなのは、当然みたいに考えているようだけど、君たち少しあの子を神がかりに見過ぎだよ。この人にも言ったけど、一個人の情報をわざわざ見通すほど、あの子は暇じゃない。だから、これには別な理由がある」

 自分を訪ねてきた勇が、崇拝する目つきで報告してきた時も、娘はそう否定した。

「別な理由、ですか」

「多分、今係わっている仕事の現場に、そのお孫さんがたまたまいる、ってところだよ」

「まだ未成年の孫がたまたまいる現場、と言うのが何処なのか。皆目見当もつかなかったのですが……」

 勇は孫が独自で何かを調べていた形跡を探り、その現場を何とか割り出した。

「とある共和国の辺境に、ネット上でも賛否両論のある、言い伝えがあります」

 それは、大昔からその地に住む、嫉妬深いヌシの話だった。

「そのヌシは、人を慕い、その子供も愛するとても優しい生き物なのだと言いますが、仲のいい家族には、とても厳しく試練を与えるのだと言います」

 実際ここ数年、その地の家族が根こそぎ消える騒動が、相次いでいた。

「騒動? 事件ではなく、ですか?」

「その地の警察が、失踪とは結びつけていないようです。夜逃げ、とも見られますし、何よりも仲が良かったというのは、後付けの話でしかありません」

 ただ、いなくなった家族は全部、子供は一人きりでその後が望めぬ家族ばかりで、幼い子供の所ばかりだった。

「……全部の家族が、ですか?」

「はい。見事なまでに、全部です」

 他の家では、子だくさんで貧しい家族が大勢いる土地柄だった。

 その中で、何故か数が少ない条件の家族が消えていた。

「仲がいいとかそういうのではなく、多分子供を大切に育てていた家族、だろうね」

 娘がしみじみと言い、話を促す。

 頷いて、勇は続けた。

「どうやら、その件で孫は動いているようです」

 根拠はある。

「実は、私の主人が、隠居後の暇さ加減を嘆いて、倅の受け持つ事件に触らない様な物を、独自に調査しているのですが……」

「ご主人も、お元気なのですね」

 その主人が隠居前に、何をしていたかを知る信之の言葉には微笑むだけにして、老女はその調査の内容を話した。

「その地と、首都を遮る山の中で起きた、列車の立ち往生の末の猛獣による乱獲。警察の発表では、虎によるものとの事ですが、これも疑問視されております」

 だが、その国の人間がその報告で納得してしまっている以上は、他の国の者が口出しできるものではない。

 塚本勇の主人は、この年の初秋、遅めの新婚旅行と称してその国へと行き、勇とともに秘かにその問題の山に入った。

「その時、私も主人の意図は知らなかったのですが、その山は意外に登りやすく、小動物には行き会いましたが、大きな、しかも獰猛な猛獣などのいる気配は、欠片もありませんでした」

 線路の周辺へも近づいたが、勇よりも十は年上の主人は、溜息を吐いてやれやれと首を振っていた。

「あの時の列車には、その国の次期首相と目される方が、乗り合わせていたそうです」

 その人物も、犠牲になった。

 と、言うより……。

「主人は、その人物を葬ったついでに、口封じでその時の乗客乗務員が犠牲になったと、断じました。警察の発表では、被害者たちの遺体は、殆んど食い尽くされていて、原形を留めていなかった、とありましたが……」

「殺害の形跡を消すために、そう断定して遺体を遺族に引き渡したのですか? それとも…そういう事にして、遺体を警察が独自に荼毘に付した、とか?」

「後者のようですね」

 つまり……。

「まさか」

「現首相は、警察の上層部とがっちりと繋がっております」

 勢力争いの末の悲劇。

 その事件を調べたのは初秋だったのだが、その件を孫も洗いなおしていた形跡が残っていた。

「恐らく、その件と辺境の地の言い伝えになぞらせた事件が、どこかで繋がっているものと見て、動いているのだと思いますが……。分からなかったのは、なぜ、堂々とその件を調査しないのか、と言う事です」

 大学には休学届が出されており、秘かにどこかに乗り込んで、その土地に潜入した気配があった。

 困惑した夫婦の元に、倅から報告があった。

 セイが、倅の元に昨夜、連絡を入れてきたのだ。

 その内容が……。

「倅は仰天して、理由を尋ねたそうですが、曖昧に答えたのち若は言いました。確認したい事があると。後継ぎに口伝する塚本の掟は、まだ後継者には伝達していないのか、と。まだだと答えると、今度は確認して欲しいと、言われたことがありました」

 それが、倅にとっては、晴天の霹靂的な話だった。

「孫が、池上の後継ぎとの間に、子を儲けているらしい、との事だったそうです」

 聞いた勇の方も仰天した。

 事情を聞いた主人も同じだったが、すぐに感心した。

「さすがは若だ。そこまで見透かしてしまうとは」

 そんな旦那の傍らで、老女は口伝で伝えられる掟を反芻した。

 後継ぎは、昔の歴史も自然に伝えられているから、昔の掟の端々は孫も知っている事だろう。

「実を言いますと、私の時代にその掟の多くが、若によって改正されているのです。孫はまだそれを知らないはずです」

 改正前の掟の中で、孫を秘かに何かを思うまでに追い詰めたものは、青天の霹靂のその件に関することだというのは、間違いなかった。

「ご存知の事とは思いますが、池上とは遠い昔は血の繋がった一族であると同時に、憎むべき一族とされ、その血を再び入れるのは禁忌とされておりました。それが分かった時点で、子とその池上の人間の抹殺をと、特に当主の血が池上と混じるのだけは、禁忌中の禁忌と伝えられていたのでございます」

「……」

「恐らく孫は、その国から戻らぬつもりなのです。そうすることで、池上の娘とその子を私たちの目から逸らそうと、考えているのでしょう」

「そんな……それは、余りに早計な」

「そうです。まだ、我ら一族の端の方しか知らぬ若造が、何を血迷ったことを考えているのかっ」

 一族でも類まれな力と美貌を持つと言われていた老女は、その顔を怒りに染めていた。

 その迫力はまだ、現役としても通用するもので、信之も思わず座ったまま身を引いてしまった。

「そういう事でね、信之君」

「ど、どういう事なんですか、姐御殿っ」

 切り出されても、どう話がこちらに及ぶか分からずに、信之が当然の突っ込みを入れるが、娘はまず目を細めた。

「その、姐御はやめてくれよ」

「では、みやび様、で?」

「様、はよしてくれよ」

セイも、その名前プラス様扱いが嫌だから、不本意ながらも「若」呼ばわりを了承していると、雅は知っていたがそれは言わない事にして、優しく笑いながら拒否すると信之は言い直した。

「姐御殿、そのお孫さんの件で、こちらで何かできることがあると、そういう事ですか?」

「……まあ、ね」

 戻った呼び方に少し抵抗しつつも答え、雅は老女を見た。

 この間に落ち着いた勇は、頷いて切り出した。

「実は、孫がその地に潜入する際、受けた公募が、判明しております」

 そこで老女が取り出したのは、公募作品を集めている雑誌だった。

 そのあるページを開き、その箇所を指で示す。

 ごく小さい記事だったが、信之には見覚えがあった。

「……ちょっと待って下さい。これ、ですか? 間違いなく?」

「ええ。ちょうど、撮影場所も同じですし、何よりも疑われることなく現地に入れる。選出された者たちの集合が、空港での現地集合だったとしたら、パスポートも使う必要はありません。あれを持ち出したのは、祖父の名前を偽るためだったのでしょう」

「……それは、難しいです。確かこの公募は、昔からあるんですが、どうやら選考されるのは女性のみのようで、一度も潜入できたことは……」

「ご存知なのですね? この公募の目的を?」

「ええ。日本全国の犯罪課は、警戒しています。何せ、最終審査が行われるのが、決まって日本のどこかなんです。書類選考で刑事が何度も潜入に挑戦していましたが、かすりもしないんで次からは女捜査員を使うことを視野に入れていたと、話には聞いています」

 曖昧に聞こえないように信之が答えたが、勇はその顔を見つめながら切り出した。

「その件の担当の方と、連絡は取れないものでしょうか? 出来れば、早急にお会いしたいのですが」

「申し訳ありません。その件は、極秘の捜査と言う事で、担当の者もどこの誰なのか、警察関係者でも分からないのですよ。私は特に、しがないノンキャリア、と言う奴ですから」

 笑って答える男に、雅は大げさに溜息をついて見せた。

「信之君、じゃあ、君が、私たちの前に会っていた人たちは、その関係者じゃないんだね?」

「……ええ。いえ、その関係者ではないですが、別な件の関係者ではあるかもしれませんね」

「別な件?」

 おや、と言う顔をした娘に答える前に、ドアがせわしなくノックされた。

 返事をする前にドアが開き、そこには見慣れぬ男が立っていた。

 長身の四十半ばのその男は、無言で部屋の中を見回して老女に目を止めた。

「……塚本の、先代殿ですね?」

「そういうあなたは……」

 老女が立ち上がりながら男に呼び掛けた。

「池上武殿ですね。初めてお目にかかります。良かった、いずれはそちらにご挨拶をと思っておりました」

「挨拶?」

 武は、やんわりと笑いながらも、剣を帯びた目で老女を見返している。

 そこへ、足止めを頼んでいた年下の刑事が、ようやく追いついてきた。

「た、高野さん、すみません」

「いや、隙をつくのが上手い人だからな。むしろ、ここまでよく持った」

 一応言葉では労いつつも、信之は二人の動向を見守る。

 老女は、引退して随分経つと言うのに、まだ自分が怯むほどの眼力を持っている。

 男の方は、現役ながらも老女と並ぶと幼くすら見え、今も落ち着いている老女の雰囲気にのまれ気味だった。

「はい。そちらのお嬢さんを、うちの不出来な孫がキズ者にしてしまったと、耳にいたしました」

「……」

「私にとってもひ孫にあたる子供を、一目見たいと思っております」

 武の顔に元々張り付いていた緊張が、はっきりと表情に現れた。

「会ってどうするつもりですか? まさか……」

「そのお話は、私の孫が無事戻ってから、改めて」

「渡しません。娘もその子も、こちらで無事に成長させて見せます」

「孫が戻って、あの子の話をしっかりと聞いてから、その子の処遇は決めましょう。あなたにとっても初孫でしょうが、私どもにとっても継承者になります」

「信じられません」

 きっぱりと言い切った男に、老女は溜息を吐いた。

「そうであろうとは思います。ですが、これはこちらの門外不出の掟の話ですので、そちらに私が漏らす訳にはいきません。それに、本当に申し訳ありませんが、今はその事を言及している余裕はないのです」

「子供の命よりも大事な事案ですか。さぞかし、大事なのでしょうな」

 まさに言いがかりの類の言い分に、勇は目を細めた。

「……これ以上、そちらとお話する気はありません。どうか、お引き取り下さい」

「先に、私の方が、こちらに参りましたが」

「では、すでに用事はお済みだったのでは? 長々と居座ってもよい場所とそうでない所の区別もつかぬのですか。随分と落ちたものですね」

 挑発だ。

 やんわりとした老女の言葉に、弁護士としても社会人としても現役のはずの男も、乗ってしまった。

「そちらこそ、いくら平和な都市とはいえ、警察に孫の安否の相談など、個人的な話を持ち込める立場なのですか? 職種乱用に当たるのでは?」

「私は引退済みです。ですから、一般人です」

「では、職務妨害で逮捕されても、仕方ありませんね」

「それは、お互いさまでしょうに」

 舌戦が繰り広げられているだけに見えるが、雅が呆れながらも固まっている。

 信之も、ひしひしと別な圧力を感じながら、どうしたものかと思案していた。

 どちらかが激高したら勝負がつくようだが、その煽りで自分を含めた三人が打撃を受けそうだ。

 一番その打撃を受けそうなのが、呆れつつも優しい笑顔を絶やさない娘で、その人に何かあったら、もう一人乱入してきそうで、更なる騒動が巻き起こってしまう。

 部外者で、ここの建物を職場としている人間でなければ、そのまま一歩下がって見物したい所なのだが。

 二人の衝突を避ける手立てを考えながら、目は開いたままのドアに目が行ってしまった。

 後輩の刑事に閉めるように合図する前に、廊下を歩いてきた集団の一人が、室内を一瞥した後立ち止まった。

 連れたちも立ち止まる中、杖を突いていてもおかしくない年齢の男が、室内の老女に声をかけた。

「勇さん、このようなところで何をしているのですか?」

 目を見張っての呼びかけに、勇も我に返ってその老人を見る。

「あら、いわおさん。あなたこそ、このようなむさ苦しい所に、何か御用だったのですか?」

「ええ。訪ねた先で、訪ねた方にこちらから連絡がありまして。私の方も先延ばしにする話ではありませんでしたので、道すがら話を通していた所なのです」

 まだ、ここでの用が終わっていない連れたちに頷いて一旦別れ、老人は室内へと足を踏み入れた。

 そして、その室内の客と接客の男を見て、何となく事情の察しをつけた。

「勇さんは、こちらに話を委ねていたのですね」

「厳さんは、もしや、松本さんに?」

「はい。高野さん。お久しぶりです。それに、雅殿も」

 落ち着いた笑みの老人に、雅も優し気な笑顔を返した。

「本当だね。年末年始にちらりとは会ってたけど、こうした場で会うのは久しぶりだ。あなたが古谷を引退して以来だね」

「はい。随分と体にもガタが来はじめました。雅殿はお元気そうだ」

「病気になる要素は、今のところないからね。それより、ガタって、どこに? 背も縮んでないし、足腰も頑丈そうだし。何より、暇だからって塚本の真似事してるって聞いたよ」

 娘の言い分に、厳は照れたように笑った。

 古谷厳、と言うのが前の名前だった男は、入籍こそしていたものの、女房の家の方には全く係わっていなかった。

本当は婿入り、の形だったので塚本姓なのだが、古谷の人間だったころは一度もその姓を名乗らずにいた分、今は塚本の姓で堂々と女房とともに動き回っているらしい。

「私も勇さんも若い頃は夫婦の幸せより、若に尽くす方を選んだ身です。その分のツケが、引退後にどっと来てしまった次第です」

「夫婦でともに暴れまわろう、そう決めたのです。楽しゅうございますよ」

「……そう。まあ、程々に、暴れなさいね」

「出来れば、我々の仕事にならない程度で、お願いします」

 雅の忠告に補足を加え、信之が廊下の方へ向かい、もうその場を去った厳の連れたちを探しながら、尋ねた。

「昨夜の騒動に巻き込まれた子を、引き取りに来たんですね。やはり、親は現れないか」

「あの子は片親なのですが、その父親が借金を抱えてしまい、その返済のために高校を中退して就職しております。松本さんの所の寮に入ったあの子に、毎度何かの理由をつけて金の無心に来るそうです。騒動を知らせて迎えに行かせたら、その事をダシにして、更に金の無心をしかねない男だそうです」

「まだ生存していますね。自分を棚上げにする人種は」

 それだから犯罪も減らないわけだが、それはどの世でも解決できない話なのでその辺で納め、気になったことを尋ねる。

「松本さんの連れが、見慣れない人でしたね」

「ええ。最近知り合った、外国の方だそうです」

 図体のでかい松本まさる社長や竹のように細長い厳より、図体も身長も大きい男だった。

「口上術に長けておられる上に、腕もかなり立つそうです。何でも、酒の席で意気投合して、招き入れることにしたとか」

「反対勢力の者じゃないでしょうね」

「そういう方では、無いように見えました」

「それならいいですが」

 ようやく後ろ黒い仕事と縁が消えつつある松本家だが、まだ敵視する連中が後を絶たない。

 家同士での争いに留まってくれればいいが、激戦になると周囲の一般の住民に飛び火するから、警察としても気にするしかない。

 しかし、松本勝は大概自分の所有する土地の、日本酒や焼酎を扱う店でしか管を巻かないはずだが、意気投合するほどその男も、酒や焼酎に通じていると言う事だろうか。

 堅気の仕事でも会社を大きくしつつある、松本の社長の見込んだ男なのだから、よほど凄腕の工作員でなければ、間違いない人物なのだろうと自分で自分を納得させ、突然の敵の加勢に固まっている池上武に話しかけた。

「池上さん、そちらのお話は、後程また改めて伺いますので、今は向こうの部屋でお待ちいただけますか」

「…すみません。塚本の方が訪ねてきたと耳にしてしまい、思わず……」

「お察しします。私もこの人に掟の事を再三問い詰めているのですが、どうしても口を割ってくれないのです」

 厳もそう丁寧に説明し、頑固な妻を一瞥する。

「ですが、お約束します。どのような掟が現存しているにせよ、私どものひ孫にもなるその子は、きっと守ります。もしも、塚本の家が総動員で命を狙うのならば、私も古谷の家の者を総動員してお守りします」

「狙いませんよ。それは、はっきりと断言したではありませんかっ。あなたも、意地悪が過ぎます。いくら、思わず若い者を苛めてしまったからって」

 勇が顔を膨らませてそっぽを向く。

「別に責めてはいませんよ。こう言う事で、勇さんがそういう顔をしてくれるのが、嬉しいだけです」

「まあっ。厳さんったら」

「……これ、いつまで付き合ってたら、いいかな?」

 少しげっそりとして呟く雅に、信之が苦笑して答える。

「取りあえず、お孫さんがいるであろう現場の方は、担当の者がいる所轄で探ってもらいます。万が一、と言う心配はないとは思いますよ。若が係わっているのなら、きっと最悪な事には、ならないでしょう」

「信頼してるんだね。まあ、分からないでもないけど。それとも、他にそう言い切る要素があるのかな?」

 優し気な笑顔での、威圧的な問いかけだ。

「……一つだけ、情報を漏らしましょうか」

 小声で言った男に、そんな脅しに屈しないと思いつつもやっていた雅は、目を見張って顔を寄せた。

「その、お孫さんがいるのがその公募の現場なのならば、最強の人材が集っています。若も一人ではありません」

「……どういう意味?」

「それ以上は、私からも言えません」

「それは、警察の人間からの情報? それとも、他に情報源があるの?」

「それも、言えませんが……確かな所からの情報、とお答えしておきます」

 天井を仰いだ雅が、ようやく納得して頷いた。

「勇さん、帰りましょう。一応、話は通ったみたいだから」

「はい」

 話を途中から聞いていた老女も素直に頷き、武に丁寧に頭を下げた。

「先程は失礼いたしました。孫が帰りましたら、改めてそちらに伺います。それまではどうか、娘さんの体調に注意してあげて下さい」

「それは、言われるまでもありませんが、こちらからもお願いいたします。お孫さんが戻って来ても、どうかあまり責めないで下さい。大学生とはいえまだ十代の男の子に、重い責任を負わせたくはありません」

「善処します」

 二人が深々と頭を下げ合い、雅と勇は連れ立って警察署を後にした。

「中々、物騒な空気だったな」

 気楽に声をかけてきたのは、松本勝だ。

 恰幅のいいその男の背に隠れるようにして、引き取ってきた少年がついてきている。

 その後ろから、勝よりも上背のある男が歩いてきた。

 体格もがっしりとしているから、もう少し威圧感があってもよさそうだが、銀色の髪と色白の肌が、それをうまく中和しているようだ。

 周囲に綺麗な人間が多いから見惚れることはないまでも、思わず目を見張る位には美男子だ。

しのぎ、だ。しばらく前から、うちの側近として来てもらっている」

「また容姿とは、かけ離れた呼び名をつけましたね」

「名乗ったのは、こいつだぞ。オレがつけるとしたら、もう少し呼びやすい名をつける」

 それはそうだと頷き、信之は高校時代の先輩に当たる勝の新しい側近に頭を下げた。

「本日はご足労をかけました」

「いいえ。そちらこそ、忙しい中、ご苦労様です」

 微笑んで礼を返し、凌と紹介された男はやんわりと続けた。

「大変ですね、捜査員の応援が今からで、間に合えばいいですが」

「へ?」

 思わず変な返しをしてから、顔を強張らせた刑事から廊下の前方に視線を移して、微笑みを投げた。

 その先に、雅たちの前に接客していた客がいた。

 一人は信之と同じように顔を強張らせ、取調室から出てきた水谷草太だ。

 もう一人、刑事がいたはずだが、中から顔を覗かせることもしない。

 代わりに草太の背後から、同じくらい長身の男が姿を現していた。

 優しい顔立ちのその男は、穏やかな笑顔を凌に返した。

「そういう事は、突然やらかすものじゃないですよ。多少の不思議現象は慣れていますが、信之も他の方達も、常識人ですから」

「常識人が、お前さんを軽々しく呼ぶのか?」

「オレは、あなたほど非常識じゃないので」

 穏やかに笑いながらも、きっぱりと言い切り、男は信之に声をかけた。

「話を進めるか?」

「ああ……」

 信之は武に頷いて見せて、一緒に廊下へと出た。

 後輩の刑事が全員部屋を出たことを確認してドアを閉めて信之に続き、その後に厳と松本家の面々が続く。

「ドアを開けっぱなしで、物騒な話を大声で出来る程、この辺りの警察は平和なんだな」

「平和が一番だ。物騒なことは、早く片づけるに越したことはない。話題になったのは、『あれ』の売買をやっている、女実業家の件だな?」

「その通りです」

「随分解決に時間がかかるな。裏付けが難しいのか?」

 まだ完全に裏の世界と切れていない、そう言える問いかけに信之は苦笑しながら答えた。

「実は今回、ようやく動きましたので、一気に片付ける方向に行きます」

「そうか、良かったな。女しか採用されねえんじゃないかと思っていたが、違ったんだな」

 勝は頷き、そのまま話を収める姿勢だ。

 先の凌の言葉の真意を聞き返すことも、それ以上捜査の話を聞きだそうともしなかった。

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