秋崎くんと、宇佐見さん。――経理課恋愛日誌――

8月6日 快晴。

1.猛暑


 「あー……あっちぃ……。アイス食いてぇー」

 背後からそんな元気のない呟きが聞こえてきたのは、昼休みが残り半分に差しかかった頃だった。


 秋崎伴也あきざきともやは、先ほどから持っている団扇うちわで顔をあおぐ手を休めずにため息をついた。声の主は確認せずとも分かっている。一つ年下の後輩、得田とくだだ。見なくても、力なくデスクに上半身を投げ出して駄々っ子のように身体を左右へ揺らしている姿が容易に想像出来た。

 普段からこの後輩と意見が合うことはあまりなかったが、今の秋崎は「同感だ」と心の中でうなずいた。

 暑い、と口にするのも忌々しいが、それでも口に出さずにはいられないほどの猛暑にこの日本列島は見舞われている。気温が三十度を超すことなどもはや珍しくもない。いちいち気にかけていては、暑さで精神までやられてしまいそうだ。

 だが、それでも暑いものは暑い。

 社内はある程度は空調が利いているものの、省エネ対策のせいで満足に涼しさは行き届いていない。日光は窓のブラインドを下げれば遮られるが、太陽から発せられた熱までどうにかすることは出来ない。だから窓際の席は、夏は地獄のような暑さだ。


 「ああ……、アイスかぁ。俺は食べるより、もういっそアイスに身体を浸したいよ……」


 その最も過酷な席に身を置いている佐々川ささがわ経理課長が、細い目で何処か遠くを見つめながらこれまた元気なく呟いた。冗談か本気かよく分からないが、とても切実な声だった。毛のほとんど残されていない彼の頭こそ蛍光灯の明かりを反射して輝いているものの、顔つきは正反対に暗い。

 心配になり「大丈夫ですか、課長」と秋崎が声をかけてみると、「よく分かんないけども、多分ねー……」というさらに心配になる答えが返ってきた。課の長が熱中症で倒れるような事態など、明らかに一大事であり絶対にあってはならないことだ。いや、どの社員も一人として倒れて欲しくはないが。


 「夏は昔から暑いもんだが、ここ最近の猛暑にはうんざりさせられるぜ。この地球っていう星も、そろそろ人間が住める環境じゃなくなってきてんじゃねぇか」


 秋崎のすぐ背後で扇子をひっきりなしに動かしながら言ったのは、この経理課に所属するメンツの中では最年長の宮路みやじだ。来年の春に定年を迎える、社員としても人間としてもベテランな男である。扇子の風に揺れる短く刈り上げた髪には、白いものが目立つ。快活な性格の彼も、この暑さには辟易しているようだ。


 「人類も、そろそろ本格的に別の星へ移住することを考えるべきかもしれませんね」


 天満あまみがSFじみたことをさらりと言って端正な顔に微笑みを浮かべた。フレームレスの眼鏡の奥の瞳が細められている。この男の言うことが冗談か本気かよく分からないのは、秋崎がこの課へ配属になった頃から今も変わらない。

 「別の星って……、月とかっすかぁ?」

 「得田くん、月には空気も水もないって学校で習わなかった? もう一回、中学校から通い直した方がいいんじゃないかな」

 「遠回しに、頭悪ぃなって言わないで下さいよ!」


 「いやいや、僕は君のことを思って言っているつもりなんだけどね」


 嘘だ。絶対に、微塵もそんなこと思ってない。

 涼しい笑顔を浮かべる天満を視界の端に捉えながら、秋崎は吊り上がり気味の目を細めて思った。普段は紳士的な態度で周りに接している天満だが、時折こうして毒舌になることを課の人間はもうとっくに理解している。が、他の部署の人間はというと、ほとんどの者がこの事実を知らないだろう。顔も振る舞いもイケメンなので女性社員からは人気があり、食事などの誘いを受けることも多いらしい。

 いつもの優しい笑顔のままで毒を吐く彼の姿を目の当たりにしたら、彼を支持する社内の女性たちは一体どんな顔をするのだろう。


 「僕の気遣いって、どうもねじれて伝わっちゃうみたいだなぁ。ねえおき、どうしてだろう?」


 「…………」

 何も言葉を発さずに、フンとわずかに鼻を鳴らしただけで無口な沖は済ませてしまう。

 長く伸ばした前髪の向こう側にある彼の目は、天満に話しかけられる前からパソコンのディスプレイへと向けられたままだ。声をかけてきた者の方を見やりもしないなんて素っ気ない、と初対面の人間ならばあまりいい印象を抱かないだろうが、経理課ここの人間は沖のそんな態度にはもうとっくに慣れているのでいちいち不愉快に思ったりなどしない。ただ口下手で物静かな男というだけで何か問いかければ答えてくれるし、仕事はちゃんとこなす。そして根は優しく親切な人だということも周りは理解している。

 そんな一風変わった沖を、隣りの席の天満は気に入っているらしく、今のように例え大した反応が返って来なかったとしても自ら積極的に話しかけることをやめない。あまりにしつこく話しかけた天満が沖から一睨みされる、という光景も見慣れてきた。


 「そうそう。月といえば、宇佐見うさみちゃん知ってる? 月って地球と違って昼と夜の寒暖差が激しいんだって。昼間は約百二十度にまで上がって、夜になるとそれが急に約マイナス百七十度にまで下がるんだってさ」

 「天満さん。前から知ってたように言ってますけど、絶対にそれたった今パソコンで調べて得た情報でしょ」

 「バレた? 得田くんのくせに勘が鋭いね。僕、宇宙になんて全く詳しくないから、さっき君に言ったことにも自信なくて今ちょっと検索してみたんだ。水と空気がないのは合ってたみたいだから良かったよ」

 「俺はこれっぽっちも、良くないんですけどねぇ?!」

 

 「おい、天満。今お前、宇宙にって言わなかったか。馬鹿にするんじゃねぇぞ。宇宙には人類の夢とロマンが詰まってるんだからな」

 

 得田と宮路が好き勝手に天満へ反論し始める。


 その様を、先ほど天満から声をかけられた宇佐見があわあわと落ち着きなく見守っていた。天満へ何か相槌を打とうとしていたところを得田が口を挟んだものだから、どうしたらいいのか分からなくなってしまったようだ。

 宇佐見は沖と同様に、他人と接するのがあまり得意ではないタイプの人間だ。会話を交わすことも目を合わせることも苦手なようで、本人もそれを好ましくは思っていない様子である。コミュニケーションが下手でも態度からは一生懸命さが伝わってくるので、誰かから嫌味を言われたりするという組織の中ではありがちの事態には陥っていない。

 もしそんなことが起きたとしても、秋崎は真っ先に宇佐見をかばうだろう。

 同じ職場の人間であり、六月に彼女がこの会社へ勤め始めた際には教育係として事務作業を教えた立場でもある。だが、秋崎には宇佐見を守りたいと思うもっと別の、深くて確固たる理由があった。


 宇佐見を一人の女性として慕っているからだ。


 少し前から抱いていた想いを相手に打ち明け、同時に交際を申し込んだのがまだたった三日前の話だ。

 もちろん返答を得るまで猶予を与えようと思っていたのに、まさかその場で承諾されるとは秋崎自身、思ってもみなかった。これまで自分のことなどなんとも思っていないように見えた宇佐見が、多少なりとも好意を持ってくれていたという事実を知った時には嬉しくてたまらず、もう一度改めて告白をしたほどだ。


 それにしても、まだ三日前の出来事なのに信じられない。

 片想いをして密かに観察していた相手が、今や自分の彼女だなんて。交際を受け入れてもらった際にしつこく確認したはずなのに、これが夢なのではないかとまだ心の何処かで疑っている自分がいる。夢ではないのなら、テレビ番組のドッキリかもしれない。

 

 こうした具合に、彼女が出来たという実感がわかないまま、秋崎は平日木曜の昼休みを社内で汗だくで過ごしているのだ。


 「……アイス、食べたいですね。得田じゃないですけど」


 宇宙の話をとうとうとし始める宮路を横目で見ながら、秋崎は隣りの席の宇佐見へ何気なく声をかけた。宮路は意外にもロマンチストらしいと頭の片隅にメモをすることを忘れない。人間観察が自分の趣味だと認識してから、いつの間にか身についてしまった癖が、こんな風に、身近な人間の情報を得たり珍しい言動を目にした時などは頭の中にメモを取る、というものだった。良くも悪くも、秋崎のこの趣味が周囲の者に影響を及ぼしたことは未だかつてない。


 宇佐見はまだ落ち着きなく視線をあちこちさまよわせていた。秋崎に話しかけられて、やっと視界が一点に定まる。


 「そう、ですね。今日はとても暑いので、食べたいですね」


 出会ってから二か月近く経ってやっと目が合う回数が増えてきた。

 が、話し方はまだ何処かぎこちない。相手が誰であろうと宇佐見のこの態度は変わらない。彼氏になった秋崎にも、相変わらずのを発揮している。それでも、入社した当時と比べればずいぶんと接しやすくなった方だ。


 宇佐見が良い方へ変化しているのと同じように、秋崎もほんの少しだけ変わり始めた。

 自分から進んで宇佐見へ話しかけるように努め出したのだ。職場では必要以上の会話、すなわち仕事の内容以外は話すこともなかったが、想いを伝えてからはより深く相手のことを知りたいという欲求が出てきた。そこで、毎日何か一つは世間話やプライベートなことを宇佐見と話すようにしようと自分の中で取り決めた。

 告白をした翌日は、昼休みが終わる直前に思い切って好きな本のジャンルをたずねてみた。宇佐見が読書好きだという情報は、彼女へ明確な好意を抱く前に得ていたものだった。

 その日、宇佐見が好きな本のジャンルがホラーだと知ることが出来た。か弱そうな見た目とは正反対の好みに、驚いた。あまりの意外さに眠る前も延々とそのことについて考えてしまったほどだ。


 「宇佐見さんは、普段よくアイスは食べますか?」

 「は、はい。夏は、お風呂上がりにはよく食べます」


 風呂から上がり、髪は湿ったまま可愛らしい模様のパジャマに身を包んだ宇佐見が美味しそうにカップアイスを頬張る。そんな光景を、秋崎は自然と頭の中に広げていた。

 すぐに、何を考えているんだと、軽く頭を左右に揺さぶり物理的に意識を現実へと引き戻す。


 「ああ、風呂上がりに食べるアイスって美味いですよね。冬はストーブの前であったまりながら食べたり」

 「わわっ、分かりますっ。炬燵こたつとかストーブで温まりながらは、贅沢なひと時……ですよね」

 「寒い時に食うアイスって、夏場食べるものとはまた違う美味さなんですよね。俺の場合、夏はシャーベット系で、冬はクリーム系っていうように何故か自然と食べるジャンルが偏っていくんですけど」

 「それ、私も同じ……です。やっぱり夏は、しゃりしゃりしたアイスが食べたくなりますよね」

 「そして冬はしっとり食感が恋しくなると」

 「はい。無性にバニラアイスが食べたくなっちゃいます」

 「分かります。スプーンで一口ずつ食べるのがまたいいんですよね。夏は豪快に食べるのが美味しいし」

 「……それでたまに、頭が痛く……なります」

 「あー、氷系のを食べるとよくなりますよね」


 「何? なんかすごく盛り上がってるみたいだけど、秋崎くんと宇佐見さんアイスの話してるの?」


 宇佐見とアイスのジャンルの好みが合ったことが嬉しくて、つい長めに会話をしてしまった。秋崎と宇佐見が珍しく話し込んでいる様を目撃したからか、佐々川が意外そうに、それでも顔にはいつもの優しげな笑みを浮かべて声をかけてきた。窓際の席はやはり暑いようで、しきりに団扇で顔の辺りをあおいでいる。


 秋崎が「ええ」とうなずくと、隣りで宇佐見もうなずいた気配がした。

 「アイスって、お年寄りから子供まで皆が好きな食べ物だよね」

 「そうですね。老若男女問わず、好んで食べますよね」

 「ろ、ろうにゃく……っ」


 秋崎が口にした『老若男女』という単語を自らも言おうとした宇佐見が、後半になって突然、口元を手で押さえてうつむいた。


 どうやら舌を噛んでしまったようだ。


 「宇佐見ちゃん、大丈夫……?!」

 「……はっ、はひ。だいひょうぶ、へふ」

 「いや、全然大丈夫そうに見えないよ。すごく痛そうだよ」

 佐々川が気の毒そうに宇佐見を見つめる。


 宇佐見を心配する気持ちは秋崎にもあったが、それよりも今、彼は別のことが気になってしょうがなかった。


 『なん』と言うべきところを、噛んで『にゃん』と言ってしまった宇佐見。

 そんな彼女を可愛いと思ってしまっている自分がいた。頭の中に、近所で飼われている子猫の顔が浮かんでしまい消えてくれない。

 今のは故意ではないといえ、好きな女子が目の前で猫の鳴き真似などをしていたら、男は誰だって悶絶するのではないか。そんな個人的見解にまで辿り着いたところで、秋崎は心の中で「落ち着け」と己に言い聞かせた。

 

 「ん? 秋崎くんまで口元を押さえて……、気分悪い? 大丈夫?」


 「い、や。大丈夫です」


 佐々川へなんとかそれだけ答え、咳払いをして誤魔化す。考えていることが顔に出にくい性質で、助かった。反対であれば、思い切りおかしな表情をしていてもっと訝しがられたに違いない。

 やっと心中を安定させ、宇佐見の方へ目を向ける。

 彼女はため息をつきながら、目元を手の甲で拭っている途中だった。涙が滲み出るほど痛かったらしい。


 「舌、大丈夫ですか」

 「は、はい。もう、平気です」

 「一応、氷とか何か冷たいもので冷やしておいた方がいいんじゃ――」

 「アイスとか、っすかぁ?」


 急に背後から聞こえた声に、秋崎は思わずびくっと肩をすくませた。勢いよく振り向いた先に、見慣れた後輩の顔がある。きょとんとしていて、いかにも悪気はないと言いたげである。


 「なっ……、お前、いつの間に席立って……」

 「宇佐見さんが老若……、老若男女を噛んだ直後くらいからですかね」

 「お前も言えてねぇよ」

 「二回目は言えましたよっ」


 憤慨しながら言い、フンと鼻を鳴らした得田は、だが次の瞬間にはいつもの人懐こい笑顔に戻って話題を元に戻した。


 「で、なんか今冷たいものって言ってたように聞こえたんですが、それならアイスが丁度いいんじゃないですかね。舌を冷やせるし美味しいし、一石二鳥!」

 「よし。お前今すぐ近くのコンビニまで一っ走り行って来い」

 「なんで俺なんですかっ! そういうのはジャンケンで決めましょうよ!」

 「この一大事にそんな悠長なこと言ってられ――」

 「どうせだから、課の人数分を買ってくるっていうのはどうですか? お代は、課長のおごりってことで!」

 

 「ひえっ。なんでそこで俺が出てくるのさ」

 「アイス七個の代金くらい、課長の給料じゃ痛くもかゆくもないでしょう」

 「それはアイスの種類にもよるから! ハーゲン〇ッツを七個買うとしたら、かなり痛いから!」


 「じゃあ、安めのを七個ってことでいいんじゃねぇか?」

 悲痛に訴える佐々川の叫びなど聞こえていないかのように、宮路が言う。

 

 「ガリ〇リ君とかなら家系に優しいですしね」

 「天満くんまでっ」

 「沖も食べたいよね。アイス」

 「……ん」

 天満にたずねられ、沖は至極素直にうなずいた。彼が天満の意見に賛同する姿は、秋崎も初めて見る。


 「先輩と宇佐見さんが反対したとしても四対三なので、賛成派の勝ちですねっ! ―――さあ課長。男らしく俺たちにアイスをおごって下さい」

 「ううっ……。パワハラだよ……。上司からじゃなく、部下からパワハラを受ける日が来るなんて……っ」


 鼻をぐずつかせながら、それでも佐々川はデスクの引き出しから財布を取り出し、中から千円札を二枚抜き取った。渋りながらも札を一枚ではなく二枚出した彼は、やけになっているのか太っ腹なのか。


 「ありがとうございます、課長。後は誰がコンビニまで行くかっすね。課長以外の人たちで、ジャンケンですよ。負けた人が使いっ走りです」

 しれっと宇佐見と宮路を入れるところが、得田の容赦のなさをより際立たせる。

 そして得田本人がこの勝負に勝つ気満々な様は、呆れや苛立ちを通り越してもはや清々しい。


 出過ぎた真似をしている後輩をたしなめてやろうかとも思ったが、横目で見た宇佐見は拳を出してジャンケンに参加する気満々だったので、秋崎は結局何も言わなかった。


 「じゃあ、いきますよー。最初はグー」

 誰か一人が買い出しを買って出ればいい話な気もするが、誰一人として名乗り出る者はいなかった。誰だって、炎天下の中へわざわざ進んで出て行きたくなどないのだ。


 「ジャンケン、ポン」


 せめて宇佐見と宮路は負けないでくれと願いながら、秋崎は自分の手を拳のまま軽く振り下ろした。

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