恋愛感情は甘美の味

水宮色葉

1

宙川明菜そらかわあきなという女性がいる。彼女の美しい黒髪は首元で綺麗に切りそろえられたボブで、そのキリッとした目元にとてもよく似合っている。公立高校の至ってシンプルでテンプレートな制服も、彼女の美しい真珠のような肌とスラリとした長い足にかかれば、ハリウッドのレッドカーペットの上でも充分通用するのではないだろうか。いや、するだろう。圧倒的美しさにかかったミステリアスというスパイスが、彼女の魅力をより引き立てる。まさに今世紀最高のアジアンビューティー。それが宙川明菜という女性だ。


一目惚れだった。

その瞬間、僕の女性的イメージは全て彼女に乗っ取られ、彼女と同じクラスになれたことを神に泣きながら感謝した。

しかし、宝石のような彼女に石ころ同然の僕が声をかけるなどすれば、彼女の美しさにヒビが入ってしまうかもしれない。そして、彼女に嫌われたら僕はもう生きていけないという恐怖感が僕を襲い、僕と彼女が普通の友達になればいいという選択肢はあっという間に掻き消えた。

彼女のことがもっと知りたかった。

しかし、彼女に僕のことを知られたくない。

僕は、彼女の学校生活に自然に溶け込みつつ、彼女を観察することにした。


まずは彼女の学校生活の観察から始まった。

彼女はホームルームの30分前には登校し、図書館で借りた本を読む。今日の本は「科学徹底解説:身近な自然景観と自然災害」だ。彼女は勉強に対して随分熱心らしい。きっと何事も真面目に取り組む人なのだろう。

授業中の彼女はとても真面目だ。黒板に書かれたことをノートに記録し、先生に当てられてもしっかりと答えを出す。ピンと伸びた背筋は授業が終わっても崩れることはなく、きっとノートもその背筋のように美しいに違いない。

昼休みに入ると、彼女は近くのファミリーメイトで買ったであろうおにぎり三つ(毎回、鮭、おかか、ツナマヨで統一されている)と、ペットボトルに入った緑茶を昼食にとる。その間、周りの女子から声をかけられると、彼女はにこやかにそれに答える。その笑顔は何にも例えがたい可愛らしく甘美なもので、それが僕には向けられたものでなくても幸せを感じる。彼女は特定の友達を作らないものの、クラスの大多数と上手くやっているようだった。

彼女とその他の生徒の会話を要約すると、彼女は一人暮らしであり自分では料理ができないこと、好きなことは旅行で、特に温泉や自然遺産などが好きであること、最近の流行りなどには疎いので是非教えてほしいということ、服は自分で選んで買うが、メイクなどは普段はしないことなど、他愛のない会話に彼女の情報が詰まっていた。その情報一つ一つは彼女が生きている、生活している輪郭をよりはっきりさせ、彼女をなお魅力的にした。

彼女は部活には入らず、放課後になると図書室で本を読む。いつも決まって窓側の後ろから三番目の席に座り、読む本は勉学的な物が多い。今日は世界史だ。図書室が閉まる時間になってから彼女は本を少し借りて家に帰っていく。ちなみに登下校は自転車だ。翌日には返却するので、彼女の本を読むスピードはかなり早いらしい。


と、学校での観察はさすがにこの辺りが限界であった。まずいことに、彼女のことを知れば知るほど、彼女のことをもっともっと知りたくなった。


「彼女のことがもう頭から離れないんだ。僕はどうしたらいいのだろうか・・・」

「そりゃあお前、宙川に話しかけて友達にでもなりゃいいじゃねえか。」

「何を言っているんだ君は?そんなことをすれば僕の保ってきた精神の均衡が崩れる。僕と彼女は交わってはいけないんだ。」

「じゃあ俺が変わりにお前の知りたいこと聞いてきてやろうか?」

「駄目だ。彼女に近づく男性を僕は全員哀れみと憎悪の目で見てしまう。できればやめてくれ。」

「はいはい。重症だな、こりゃ。しかし、お前がそんなになるなんて、宙川もよっぽど罪な女だな。そんなに宙川がいいのかぁ?他にももっと可愛い子いるだろうよ。」

「僕には彼女がモテないのはとても好都合だが、未だに解せない大問題だよ、柴田くん」

「分かったよ。ま、俺はお前のこと応援してるけどさ、杉田。ストーカーにだけはなるなよ?」

「えっ?」

「なんてな。冗談冗談。」


言われた瞬間、初めて自覚した。

僕は彼女のストーカーだったのだ。

なんなら、僕は彼女の家や通学路も既に調べあげているし、彼女が普段買い物に使っているファミリーメイトも、ドラッグストアも、使っているシャンプーの銘柄ももう知っている。彼女の美しさは僕を突き動かし、ついにはストーカーにまでしてしまったのか。

しかし、だからなんだという話だ。

柴田くんにはすまないが、僕を止めることはもう誰にもできない。


彼女は家はアパートの一階、103号室だ。南向きで陽の光がよく入る、家賃五万八千円の1LDKに住んでいる。カーテンの色は白。

その日、僕が初めて部屋の中を覗こうと窓を見ると、僅かに開いたカーテンの隙間から、二メートル程はある大きなくまのぬいぐるみが見えた。

なんて可愛らしいのだろう!

彼女にそんな可愛らしい一面があったなんて!

部屋には他にもたくさんのぬいぐるみがあるのだろうか。なぜあんな大きなぬいぐるみを彼女は持っているのだろうか。

そんな思考よりも先に僕は、

「あのぬいぐるみになれたらどんなにいいか!」と感じた。

彼女の一人暮らしを見つめられる唯一の存在。あのぬいぐるみに彼女は抱きついたりするのだろうか。そうにしてもそうじゃないにしても、あのぬいぐるみは彼女に関わることなく彼女と同居できるという、なんとも贅沢な立ち位置に居座っていた。なんと羨ましいことか!


その瞬間、僕はあのぬいぐるみに自分がなりかわることを決意した。

僕はあのぬいぐるみになるために生まれてきたのだ。そうに違いない。


僕はその日から、いかにあのぬいぐるみになるかを考えた。自分そのものがぬいぐるみになるのは厳しい。しかし、僕がぬいぐるみの中に入れればなんの問題もないだろう。背中でも割いて中に入ってしまえば良い。

家の中に入るにはどうすればよいか。彼女に気づかれないようにするにはどうすればよいか。ぬいぐるみの中に入りながら彼女を見るにはどうすれば良いのか。

僕の思考は止まらない。


郁也いくや!もう、ご飯だって言ってるでしょう!?」

「あ、ごめん母さん。ちょっと集中してて・・・」

「まったくもう、最近ずっと部屋にこもって勉強、勉強って・・・。勉強もいいけどね、あんまりやりすぎると身体を壊すのよ!」

「うん、ごめんごめん」

「・・・って、どうしたの郁也、その手の絆創膏!何やってたの!?」

「裁縫だよ、家庭科の授業でやるんだ。上手いことやって、実技で良い点取りたいから。」

「へぇ、珍しくやけに真面目ねぇ。何?行きたい大学でも決まった?」

「ううん、そういうことじゃないんだけどね・・・」

「ま、とにかくご飯だよ!せっかく作ったのに冷めちゃうよ!」


僕の将来は、大学進学でも就職でもないよ、母さん。

ぬいぐるみなんだ。




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