第3話
Cucina di Oroという名前のイタリア料理屋に、僕は翌日のお昼ちょっと前に入った。黄金食堂という派手な名前のわりに小さな古ぼけた一軒家の店の前には僕の背ほどの高さの青々と葉の茂った棕櫚の木が一本立っている。店の中はさほど広くはないけれど煉瓦と漆喰の、ヨーロッピアンテイストの内装になっていて、樫でできたアンティークの椅子とテーブルが整然と、でも適度なスペースを空けて並んでいる。この店のオーナーがどこかの古道具屋が店を畳むときに纏めて安く手に入れたらしい。テーブルの上にはピンク色の良く洗濯されたテーブルクロスが昼時でもきちんと掛けてあって僕は特にそこが気に入っていた。混んでいないかと心配していたけれど客は一組しかいなかった。待ち合わせなんだ、空いていてよかったよ、と僕が言うと店のシェフは顔を綻ばせた。
「夏はね、結構みんな旅行とかに行っちゃってお客さんが減るんだよ。うちはサラリーマン向けの店じゃないし、東京に残っている人たちは暑くて外に出るのも億劫なんだろうね。その上、アルバイトの子まで沖縄へ帰っちゃうしさ」
時おり一人で食事に来ているうちに話すようになった店のオーナーでシェフで唯一の正規従業員でもある前田さんの言葉は、喋っているうちにだんだんぼやきに変わって行った。齢は知らないけれど銀髪でコック姿がとてもよく似合う人だ。背は低くて僕の肩ぐらいまでしかない。昔はイタリア人の奥さんがいたのだけど離婚して今は独り身だと言っているが、それが本当かどうかは分からない。でも別れた奥さん直伝という料理の腕は確かだった。
「まあ客が少ないからちょうど良いんだけどね。夜はヘルプが入るし」
諦めたのか嘆いているのかわからないようにそう前田さんが付け加えた時に玄関のドアの鈴がカランカランと音を立てた。前田さんは振り返ると、いらっしゃいませ、と入って来た客に声を掛けた。淡いイエローのドレスを着た斎藤さんが、ドアから僕らの方を窺うように見ていた。
「ほう」
前田さんは小声でびっくりしたような声を上げて僕を見た。僕が頷くともう一度
「いらっしゃいませ」
と低い声を出して前田さんは僕の席の前の椅子を引いた。斎藤さんはゆっくりと僕の席の方に歩いてきた。
「こんにちわ」
そう言いながら斎藤さんは微笑んだ。今日の斎藤さんは僕の記憶の中のサイトウより、そしてこの前会った時の斎藤さんよりもほんの少し大人びて見えた。唇に薄いピンクの口紅をしているからそう思えたのかもしれない。
「どうぞ」
僕は立ち上がって自分の座っていた窓際の椅子に斎藤さんを招いた。その方が店が華やかになるように思えたのだ。
「今日は素敵な服装ですね」
年下の少女をどんな風に褒めたら良いのか僕にはよくわからなかった。
「へんですか?ちゃんとしたお店みたいだったからどんな格好で来ればいいのか分からなくて」
白い日傘を壁に立て掛けると、そう言って振り向いた斎藤さんは困ったような顔をしていた。
「いや、本当に素敵です。お母さんがそんな恰好をしているところを見たことがなかったからちょっと驚いた。制服を着ている姿しか見ていなかったから」
「そうですか」
斎藤さんはほっとしたように再び微笑んだ。
「写真を持ってきました」
使い古いした茶色の革のショルダーバッグから封筒を取り出すと僕は斎藤さんに渡した。それを受け取ると封筒からから写真をテーブルの上にあけて、斎藤さんは丹念に一枚一枚写真を眺め始めた。長い睫が時々ゆっくりと閉じ、瞼の中でサイトウの思い出を映し出しているかのようだった。
「西尾さんはこの人でしょう」
斎藤さんは、ピースサインを出している二十五年前の僕を指さした。
「分かりますか」
「あんまり変わっていないです。でも今の方が真面目そう。この写真は笑っているからそう見えるのかしら」
斎藤さんは僕と写真を見比べながらそう言った。
「お母さんが一番好きだった写真って分かります?」
僕が尋ねると斎藤さんはもう一度じっくりと全部の写真を見比べ、サイトウが夕焼けの中で遠くを見ている写真を細い指で指した。
「良く分かりましたね」
黙って斎藤さんはその写真を見つめていた。
「僕が撮ったんです」
「素敵な写真ですね」
斎藤さんはサラダとパスタ、僕はサラダとピザを注文した。
「おいしい」
斎藤さんは先に出てきたサラダを食べながら呟いた。
「ドレッシングがとってもおいしい」
斎藤さんはそう言うとちょっと俯いた。そしてしばらくじっと姿勢を崩さなかった。やがてポトリと涙が落ちて、テーブルクロスに落ちた。テーブルクロスのピンク色がそこだけ濃く滲んだ。
「大丈夫?」
こくりと首を縦に振ったけれど斎藤さんはそのまま静かに泣いていた。
しばらくしてから斎藤さんは、
「ごめんなさい」
と顔を上げた。眼のふちが少し赤くなっていた。
「大丈夫ですよ」
僕がそう答えた時、前田さんがテーブルにやってきて「どうぞ」と言いながら斎藤さんの前にパスタを置いた。
「すいません」
そう言った顔を上げた斎藤さんの涙に気付いた前田さんは、おやっというような顔をしてから僕を睨むと小声で
「こいつが原因なら・・・これから罰として出入り禁止にしますよ」
と僕を指でさした。
「違うよ」
せっかくの行きつけの店を悪いことをしたわけでもないのに出入り禁止にされたらたまらない。僕が慌てたのを見て斎藤さんは泣き笑いのような顔をして前田さんに手を振った。
「西尾さんにはとっても親切にしてもらっていますから」
「でも女の子を泣かせるなんて」
前田さんはまだ僕を睨んでいる。
「ううん、母のことを思い出しちゃって」
「彼女のお母さん、中学の時の僕の同級生なんですよ。もうだいぶ前に亡くなっちゃったんだけど。今日は中学の時の写真を彼女に見せるって約束したんですよ」
変な濡れ衣を着せられてはかなわないので僕も必死に言い訳をした。
「いじめてなんかいない・・・むしろ逆です」
「ふうん」
前田さんは機嫌の悪い猫のような声を出して、テーブルの上に置かれた写真をちらりと見た。
「じゃあ、まあいいか」
そう呟くと前田さんは斎藤さんに僕には一度も見せたことのない笑顔で
「泣きたいときにはたくさん泣いた方がいいですよ」
と言って僕らのテーブルから離れて行った。
「ごめんなさい。変なことになっちゃって」
憮然として前田さんを見送った僕に斎藤さんは小さく頭を下げた。
「ひどい誤解ですよね。でも悲しい時には泣いた方がいいというのは本当だと思いますよ」
そう言った僕に斎藤さんはもう一度、小声で本当にごめんなさいと謝った。僕はショルダーバッグに入れてあった小さなアルバムを取り出した。
「焼き増しをしてきたんですよ。こっちは差し上げます」
「ありがとうございます」
斎藤さんはアルバムを抱き締めるように受け取った。食事を済ませ、斎藤さんが手洗いに行っている間に僕は勘定を頼んだ。
「三百万円です」
澄ました顔で言った前田さんに黙って三千円を渡すと、前田さんは笑いながら受け取った。
「いい子だね。素直そうな子だ」
「そうでしょう」
「とっても綺麗な子だね」
「彼女のお母さんも綺麗だったんですよ。男の子の憧れの的だった」
「でも、なんだかはかない感じがするよね。守ってあげなければならないような」
前田さんは店の奥を透かすように見ながらそう呟いた。僕は黙って頷いた。斎藤さんは母親のサイトウと同じように凛とした雰囲気を持っているけど、同時にどこかはかなく脆そうな感じがした。
サイトウには一度もそんな感じを抱いたことがなかったのに・・・。それは僕が幼すぎて気づかなかっただけのことだろうか?世の中には大人になってようやく気付くことって、やはりあるのだろうか?
見知らぬ電話番号から携帯に電話がかかってきたのは斎藤さんとランチを食べてから一週間ほど経った晩だった。テレビを見ながらビールを飲んでいた僕は、画面に表示された見知らぬ番号を不思議に思いつつ通話ボタンをゆっくりと押した。
「西尾さんでいらっしゃいますか」
深いバリトンが受話器の向こうから僕に尋ねた。
「私は斎藤と申します。聡子の父親代わりをしております」
勧誘の電話だったらさっさと切ってしまおうとしていた僕は受話器を慌てて持ち直した。
「聡子がいろいろお世話になっているようで」
「いや、こちらこそ申し訳ありません。聡子さんのお母様と中学校の頃の同級生だったものですから」
「いや」
短く否定するとその人は
「一度、どこかでゆっくりとお話できませんでしょうか」
と柔らかい声で僕に尋ねた。
「はい。結構ですが」
「急で申し訳ありませんが、明日ではご都合が悪いでしょうか。明日の夕、六時半ということでは」
「いえ、問題ありません」
受話器の向こう側でほっとしたようなありがとうございます、と言う声が聞こえた。
「失礼ですが、少し離れていますが」
と言ってその人は僕の家の最寄の駅から四つ離れた駅名とその駅前の商店街に入ってすぐ右手にあるという和食の店の名前を僕に告げた。
電話を切ってからもしばらくは僕の心臓の鼓動はいつもより少し早く打ち続けていた。電話の話し振りでは腹を立てている様子でもなかったが、高校生の娘と二人きりで会っている四十近くの男に父親が会いたいと言ってきたら話はあまり好ましい内容ではないのが普通だ。
その一方で、もしそうなら電話で二度と会うな、と警告すれば済むはずだとも思えた。それに僕の電話番号を教えたのは斎藤さん以外に考えられない。何が起きているのか斎藤さんに電話で確かめようかと思ったが、なんだかそれはやめた方が良いような気がした。半分グラスに残っている泡の消えたビールを飲み干すと僕は大きくため息をついた。
翌日の夕方、教えられた駅から店への道を僕は重い足取りで歩いていた。辺りはまだ明るくて学生や仕事帰りの人々が道の反対側から僕を避けるようにしながら駅へ向かっていく。久しぶりに着た紺のストライプのワイシャツとジャケットの着心地があまり良くないのは緊張しているせいだろう。指定された時間通りに店の前に着いた僕は深呼吸を一つするとその店の格子戸を開けた。カラカラと軽快な音がして戸は開いた。
いらっしゃいませ、と明るい女性の声がしてカウンターの向こう側で着物姿のほっそりとした女性が僕に向かってお辞儀をするのが眼に入った。
「斎藤さんのお連れの方ですか」
眼に笑みを湛えながら尋ねたその女性に
「そうですが」
と答えつつ僕は店の中の様子を窺った。
「お待ちでいらっしゃいますよ。小上がりの方にどうぞ」
店にほかに店員はおらず、どうやらその女性が店の女将さんで、店を彼女が一人で切り盛りしているらしかった。その明るい声になんだかほっとして彼女が手を指し示した方を見ると銀縁の眼鏡をかけた小柄な初老の男性が立ちあがって僕に向かって軽く頭を下げた。
「聡子のめんどうをみております、斎藤仁と申します。どうぞこちらへ」
丁寧な挨拶をしてその人は僕を手招くようにした。僕は慌ててお辞儀を返した。
「西尾と申します。ご迷惑をおかけしています」
「まあ、どうぞ。気を楽にしてください」
白髪の混じった短く刈った髪の下で一見柔和だが油断のならない、経験を積み重ねてきた男の眼が眼鏡の奥から値踏みをするように僕を見ていた。
「どうぞ、こちらへお掛けください。昨晩は突然お電話して申し訳ありませんでした。また急にお呼びたてしてしまって」
言われるがままに靴を脱いで僕は斎藤さんのお父さんの真向いに座った。掘り炬燵になっていて胡坐をかくのが苦手な僕には有難かった。
「ビールで宜しいでしょうか」
女将さんが部屋を覗くと僕らを交互に眺めながら尋ねた。斎藤さんのお父さんは僕を見た。
「それでよろしいですか」
「はい」
年上の男性と差し向かいで話すのは会社の上司に辞表を提出した時以来だとふと気付き、僕はますます緊張した。そんな僕の心配を和らげるかのように斎藤さんのお父さんは笑みを浮かべた。
「わざわざお呼びたてして申し訳ありません。聡子があれの母の写真を頂いたようで、私も久しぶりに由紀子のことを思い出しました。あれが亡くなったのもずいぶん昔の事になってしまって、最近はめったに思い出さなくなってしまったのがかわいそうでしてね」
にこやかな光を眼に湛えたままで斎藤さんのお父さんは運ばれてきたビールを僕のグラスに注ぎ、返杯しようとした僕を軽く手で押さるようにして自分のグラスにもビールを注いだ。白い綺麗な泡がグラスを駆け上っていった。
「西尾さん、まず最初に打ち明けておきたいのですが、聡子からしばらく前にあなたのことを伺いました。大変失礼ながら個人的に少しあなたのことを調べさせていただいた。申し訳ありません。いつか周りの方からそういうお話があるでしょうから、先に謝らせていただきます」
「いえ、そんな」
別に不愉快ではなかった。孫ほどの齢の娘に変な男がついているかも知れないと思えば、物騒な世の中なのだ、相手の身の上を調べてみたくもなるだろう。斎藤さんのお父さんとグラスを軽く合わせ僕はビールを飲んだ。冷たくおいしいビールだった。
「今は会社を辞めて小説家を目指しているそうですね」
「大層なものではないんですけど、自分にしか書けないような物を書く仕事をしたいと思っています。でもそれだけじゃ食べていけないのでいろんなところから仕事を貰っているのが実際のところです」
僕はそう答えると斎藤さんのお父さんの眼をまっすぐ見た。この年で勤めずに小説家志望というのは斎藤さんの年ならともかく、大人の世界では決して高く評価されないことを僕は身をもって知っている。新しくクレジットカードも作れないし、もちろん銀行からお金を借りることなどできない。それが世の中の評価と言うものだ。でも・・・斎藤さんのお父さんはふっと眼を和ませた。
「結構じゃないですか。小説。昔、私も目指していたのですけどね。才能が有りませんでした」
「本当ですか」
「なに、そんな大層なことを考えていたわけではありません。何か良いものを一つか二つでも書ければと思っていたくらいです。なんにせよ若い方が何かを目指していると言うのはいいものです。会社員を長い間やっていると自分が何を目指しているのか分からなくなる。地位とか高い給料とかそう言うものしか自分の価値を測るものがなくなるのですな」
「いや、それも立派なことだと僕は思っています」
そう言いながらふと何か違和感を感じた。僕は斎藤さんに物書きをしているとは言ったけど、小説を書いているとは言わなかったと思う。なぜ斎藤さんのお父さんは僕が小説家を目指していることを知っているのだろう。そのことを知っているのは本当に数えるくらいしかいない。怜、前田さん。母にだってようやくこの間打ち明けたばかりなのだ。それとも物書きと言う言い方がいつの間にか小説を書いていると誤って伝わったのだろうか?
斎藤さんのお父さんは僕のグラスにもう一度ビールを注いだ。
「我が家の事情は聡子から聞いてご存じのことと思います。あの子は私の姪の娘で本当の両親がいません。可哀想な子です。実はその聡子から頼まれたことがありまして。あの子は今まで滅多に私に頼みごとをしたことなどなかったのですが」
「頼みごとですか?」
「はい」
斎藤さんのお父さんはビールの瓶を卓の上に置くと出てきていたお通しを
「どうぞ」
と指した。
「いただきます」
お通しで出てきたたこわさは程よくわさびが効いていて、ねっとりとしたタコの舌触りがとても良かった。
「お好みかどうかわからないですが、料理はいつも店に任せているので、それで宜しいでしょうか」
「ええ、もちろんです。それにこのたこわさ、とてもおいしいです。」
そうですか、それはよかったと言って斎藤さんのお父さんは話を続けた。
「聡子が母親のことを話したのも久しぶりです。西尾さんは由紀子と中学の同級生でいらしたとか」
「その通りです。聡子さんが由紀子さんにとても似ていらっしゃったので、つい声をかけてしまいました」
「聡子もそう言っておりました。一週間ほど前になりますか。聡子が珍しく私のところに来て新潟に行ってみたいと言うのです。よく聞いてみると、あなたにお会いして、写真を頂いたと言っておりました。昔、由紀子とあなたが一緒にどこかの丘に登って海を見たとかいうお話を伺ったようですね。聡子はその丘に行ってみたいと申しております」
「ああ、確かにそんな話をしました」
「宜しければ、西尾さん。聡子をその丘に連れて行ってやって頂けませんか」
「え?」
食べかけていた鯵のたたきを器に戻すと、僕は斎藤さんのお父さんの顔ををまじまじと見た。
「大変失礼ですが費用は私の方で持たせていただきます。といいますか、気の早い話ですがもう切符もホテルの手配もさせていただいてここに用意をさせていただいています。ご都合も確かめずに申し訳ありませんが聡子に早くお願いしてとせっつかれておりまして」
頭を掻くと、斎藤さんのお父さんは僕を見上げるようにした。
「聡子は聡子の伯父の家に泊まらせます。どうかお願いを聞いていただけませんか。実はもう少し早くお話もできたのですが、なかなか電話を掛けることを私がためらってしまいまして。ようやく昨日決心したわけで、申し訳ありません」
「いつからでしょうか」
「明後日から三泊の予定で用意させていただいています。聡子はもう少し長く由紀子の実家に泊まらせようと思っていますが。もしご都合が悪ければ、日を変えても結構です。予約も取り直します」
「分かりました。今のままで結構です」
差し迫った用事があるわけではなかったし、ほかに用事があったとしても僕はその旅行を優先しただろう。斎藤さんがレストランで静かに泣いているのを見ながら、僕はサイトウが遺したこの娘のために何かできることはないのかと心から思っていたのだ。それにサイトウと最後に会話を交わしたあの丘のことを思い出してからというものの僕自身がそこに行ってみたくなっていた。
「そうですか。よかった」
斎藤さんのお父さんはほっとしたように、煙草宜しいですか、と僕に尋ねた。構いません、と答えると箱から煙草を一本取り出し火をつけおいしそうに吸う。女将さんがそれを見て僕らの部屋に灰皿を持ってきて静かにテーブルの上に置いた。
「さきほどもお話しましたが、聡子は今まで私に何かを頼んだことがほとんどないのです。良い子と言えばそうなのですが、あの子はめったに笑いもしない。由紀子はどちらかというと活発な子だったのですが、聡子は容姿は似ていても由紀子とは性格が違っているのかもしれません。今までわがままを言ったことがないものですから、最初はあの子が何を言っているのかさっぱりわかりませんでした」
ちらりと小さな窓の外の景色に視線を送ると斎藤さんのお父さんは言葉を続けた。
「お母さんが登った丘に自転車で行ってみたい、最初はそう言いましてね。私には何のことか見当がつきませんでした。どこの丘のことかと聞くと、新潟だと。新潟のどこと聞いても、知らないと言って。」
わがままを言ったことのない斎藤さんが必死に父親を説得しようとしている姿を思い浮かべるとちょっと微笑ましかった。
「知っている人がいるの。そう言って、話をするのですがなんだか良く分からない話になって、あなたのお名前が出てくるまでに五分ほど掛かった。最初は自分であなたに頼むつもりだったのでしょうが、それは駄目だと私が止めましてね。でも私自身もやはり見ず知らずの人に頼むのは気がひけますし、ましてや娘を男の方と一緒に旅行に出すのはとんでもないと思ったのですが」
斎藤さんのお父さんは僕をじっとみた。
「あなたの写っている写真を見ましてね。楽しそうな写真でした。それと、あなたが御撮りになったという由紀子の写真も拝見しました。お母さんが一番好きな写真だって、と聡子が嬉しそうに言っていました。あんな聡子を見たのは初めてのような気がする」
実の父ではないにしろこの人は確かに斎藤さんの父親なのだ、と僕は思った。いつも繊細に斎藤さんのことを気にかけているに違いない。顔を良く見ると大きな眸と細い頤の線がどこかサイトウにも斎藤さんにも似ていた。
斎藤さんのお父さんは
「それでも躊躇いました。それであなたのことも少し調べさせていただきました。仕事柄、つながりのあった調査会社がいくつかありましたのでね。申し訳ありません。それと」
もう一度謝る斎藤さんの父親に恐縮しながら僕はふとどこかから僕らを心配そうに眺めているサイトウの視線を感じた様な気がして、思わずあたりを見回した。何かを躊躇うように言い淀んでいた斎藤さんの父親は思い切ったように言った。
「西尾さん、私は由紀子からあなたのことを聞いたことがあるかもしれない。実はお名前を覚えていたわけではないですが、あなたは中学の時に新潟から東京に引っ越されたのですよね」
「そうです」
「こっちに由紀子が初めてきたときに懐かしそうに話していました。東京のどこに住んでいるのかなあ、会いたいな、と言っていました。それを思い出しましてね。私もあなたに会ってみたいと思ったのですよ」
「由紀子さんは横浜の大学に通っておられたのですよね。そんなに近くに住んでいたのなら僕もぜひ会いたかったです」
そう言うと斎藤さんのお父さんは頷いた。
「子供の頃の友人と言うのは良いものですね。実はその点も聡子の心配なところです。あの子には由紀子にとってのあなたのような友人がいないのです」
そう言うと斎藤さんのお父さんは眉を曇らせた。
「あの子は脆い硝子のような子です。いつかどこかに行ってしまうのではないか、それが由紀子のいる所なのか、あるいは私らも行ったことのない遠い街なのか、いつもそんな不安を持って私は過ごしておりました。私には懐いてくれていますし、女房にもそれなりに接していますが、他の誰とも濃い人間関係を持っていないようです。そんなあの子が初めてあなたには気を許した気がします」
「ありがとうございます。聡子さんに馴れ馴れしく声を掛けてしまって、こちらこそ申し訳ないと思っていました」
「西尾さん、私たちももう齢だ。父というより祖父の年齢なのです。聡子のことをあとどれくらい見ていてあげられるかわからない。あの子は素直で良い子です。私はあの子がひどく不憫に思われて仕方ない。このままあの子が誰とも打ち解けないでいるのが心配なのです」
「聡子さんもだんだんと大人になるのではないですか」
「あの子は母親が死ぬ間際でも、父親のことは一切母親に聞かなかった。本当は知りたかったと思うのですが母親の方から話さない以上自分から聞きはしなかった。東京に来てからも父親を自分から探そうとは決してしないし私にも頼まない。それどころか、実の父をこちらから探すようなことはしないで欲しいと私に頼んだのです。父親が自分を探すべきだと固く思っているのです。頑ななところのある子です。そういうところは私は決して嫌いではない。でもね、うまく生きて行きにくい性格です。時々あの子の眼を見ると、深い湖の底を見ているような気がする時があります」
斎藤さんの父親はそう言うと小さく溜息をついた。
「あの子の学校の先生方と何回も話しました。決して悪い子ではない、成績も悪くない。でも、いつも言われます。友達が少ない、本当の友達がいない、協調性に欠ける。積極的に人に交わることをしない。醒めている」
「そうなのですか」
「あの子には根っこの部分で人に対する不信があるような気がします。それが自分を一人にした母親や父親のせいなのか、何なのか私には判らない。そう言う話をするとあの子はいつも黙ったまま手を握り締めているのです」
斎藤さんが学校や家でそんな様子だとは僕は思ってもいなかった。ごく普通の女の子に見えた。ただファストフードを一緒に食べたとき、私、友達が少ないですから、と小声で斎藤さんが言ったのを思い出した。
「あの子の中に何か固まっている氷のようなものがあって、それを溶かさないといけないとずっと思っていました。それもなるべく早いうちに。もうこれが最後のチャンスなのかと思うと居ても立ってもいられない気分になるのです。私も長い間人間を見てきた。勤めていた会社では人事の仕事をしてきましてね。そういう仕事をしていると相手の人間がどうなっていくのか少し分かるような気がするのです」
そう言って、斎藤さんの父親は僕を見た。
「変なお願いをして申し訳ないと思います。というか、親代わりの人間として見知らぬ男の人に娘と一緒に旅行をして欲しいなどと頼むのはまともではないかもしれない。私も一緒に行こうと思っていましたが、聡子はなぜかそれは駄目だというのです。そうすると由紀子を感じられなくなってしまうかもしれない、と言いましてね。あれはいつも由紀子が自分を見ている、そんな視線を感じているというのです」
そう言うと斎藤さんの父親は微かにため息を吐いた。
「しかし、少しでもあの子が人や社会にまともに心を開く可能性があるならきっかけだけでも作っておきたい。それが正直な気持ちです。あの子が東京に来るかどうか決めるときに、あの子は父親が自分を見つけるかも知れないから東京に行くと言ったのです。その時は単純に私たちの子供になってくれることを喜んでいましたが、思えばあの子の心にある氷の芯はその頃にできていたのかもしれない」
「そういえば、僕もさっきなんだかサイトウに・・・いや由紀子さんに見られているような気がしました」
僕がそう言うと、
「そうですか、あの世で由紀子が心配しているのかもしれませんね」
斎藤さんの父親はあたりを見回しながら答えた。なんだか僕までしんみりとしてしまうような口調だった。
「あら、まだ煮物を食べていらっしゃらないの、温めなおしましょうかね」
女将さんが運んできた焼き魚を卓に置くとそう言って白い歯を見せた。
斎藤さんの父親は持参した新幹線の切符とホテルのクーポンを僕に渡すと料理を少し残したまま用があると言って先に店を出た。斎藤さんに早く報せたかったのかもしれない。
ただ、立ち去り際に、
「そうだ、一つ西尾さんにもお話しておかなければいけないことが・・・あの子は最近、誰か人につけられているような気がする、と言っていたことがあります。単なる勘違いだとは思いますが。それに旅行先まで・・・という事はないかと思いますけれど」
と眉を曇らせて言った。その事が僕の決意を変えてしまうのではないか、と恐れているようでもあった。
「そうですか、僕も注意しておきます」
僕が答えると、
「ありがとう。多分気にし過ぎだとは思いますが、万一のことがあってはいけないので」
と安心したかのように柔らかく微笑んでお辞儀をして出て行った。斎藤さんの父親を外まで見送った女将さんが戻ってくると、ひとりで座っている僕のところにやってきた。
「締めにはおにぎりをお持ちしますからね。斎藤さんの分も握りましょうか」
「あ、はい」
僕が答えると
「斎藤さん、きょうはずいぶんと早くからいらしてそわそわしていらしたのよ。いつもはそんなことないのに」
「そうですか」
僕とそれほど歳が離れていなさそうな女将さんは上がり
「斎藤さん、聡子ちゃんのことになると本当に大変なんだから。だから聡子ちゃんのことよろしくお願いしますわね」
「聡子さんのことをご存じなのですか」
「まえに何度か一緒にお店に来たことがあって、奥様も御一緒に。聡子ちゃん、本当に綺麗な娘さんね。」
そして僕を軽く睨むようにして言った。
「一緒に旅行に行っても、絶対に変なことにならないようにしてくださいよ」
斎藤さんの父親は僕にはそれを言わなかった。でも心の中ではすごく心配をしているのに違いない。敢えて口にしなかったのは僕が気を悪くすると思ったのだろうか。
「おにぎりは鮭にします?それとも昆布にしましょうか」
女将さんは僕のそんな想いを断ち切るように明るい声に戻ると立ち上がって、ぼんやりと宙を見つめていた僕に尋ねた。
「じゃあ、鮭で・・・」
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