第31話 「 自然の破壊 」
二ペソの山々を揺らす轟音が響き渡った。
池から噴き出した大量の水は、樹々をなぎ倒し、土砂を押し流す圧倒的な激流となって大地を削っていく。
懸命に足を動かすルチルたちとの差は時間にして五分ほどだが、山の上での大きな水の流れは驚くほど足が速い。鉄砲水に巻き込まれてしまう人間がいるように、水流は時に数十キロの出すことがある。いまでも滑るように山の斜面を駆け下りているが、さらに急がないと村人の避難が間に合わないかもしれない。
そう言ってミイ姉さんや山ヌシ様を急かすのは、地元が水の都と呼ばれる土地のルチルである。その顔はもう涙と鼻汁でグッシュグシュだ。
『ヤバいですマズいです怖いですぅ! 何ですかあの水量はっ、完全に村を流しに来てるじゃないですか! ミルク姉さーんっ!』
『ああもう、泣くんじゃないの。涙で足の置き場所が狂ったらすってんころりん転んじゃうわよ。それに――』
ミイ姉さんはほんの少し後ろを振り向いて疑問を口にした。
『――すごい水の量だっていうのは分かるけれど、あのくらいなら二ペソが沈むってことはないんじゃないの?』
遠目から見れば、連なる山のひとつから水芸のように噴き出す細い水柱で、山そのものが沈んでしまうようなことにはならないのではと思うのも致し方ないこと。けれど、ルチルの涙も鼻汁もミイ姉さんが言葉では収まらない。
『ミルク姉さん、沈むって言っても、お家が屋根まで水に浸かることなんて、海辺の災害か、ヒトがダムをつくるときくらいで、そうそう起こるものじゃないんですよぅ』
『あら、そうなの? なら、こんなに急がなくても平気なんじゃない?』
その疑問にルチルは下草の陰に隠れた石をよけながら答える。
『ええ、っと。あたしも詳しくないからざっとした説明になるんですけど、水って重いんです。重いってことは力が強いってことなんです。例えば、毎朝マルコ君がミルク姉さんのミルクをブリキ缶に入れて運んでますよね。そのとき、マルコ君はミルクの重さを感じているはずです』
『そうね、あの車軸が曲がった荷車じゃ余計に重たいはずだわ』
『その重さをもっと重たくして、マルコ君が引くんじゃなくて、逆にマルコ君が引っ張られるって考えると分かりやすいかも知りません。ブリキ缶がたくさん載っている荷車を引いて坂道に差し掛かった時、何かの拍子に引く力が弱まったら、マルコ君は坂を転がり落ちちゃいます。それが、ミルクの重さに引っ張られるってことなんです』
ルチルは言いながらだんだん慣れてきた全力の山下りで、邪魔な木の枝を避けたり足の捻挫を狙ってくる石を飛び越えたりしながら続ける。
『そしてミルクっていう形のない物に重さがあるって分かれば後は簡単で、それをお水に置き換えればいいんです。ブリキ缶数本分でマルコ君は引っ張るのに大変な思いをしている。じゃあ、それが後ろの量の水になったら? 考えるまでもなく、すごい力になっちゃいますよね。それこそ、山ヌシ様が百人集まって体当たりするよりももっとすごい力が、後ろをかけ下る水にはあるってことです。それが二ペソに届いたら、家どころか、アニールが毎日手入れしてる果樹園だって丸ごと流されちゃいますよーぅ!』
『……それは大変ね。山ヌシ様が百匹も集まって、さらにだなんて。考えたくないわ』
『そうだな。俺が百か……気持ちのいい絵面ではない』
『山ヌシ様、別のこと考えてませんか……?』
ミイ姉さんも山ヌシも、ルチルからの説明を受けて、更に気持ちを前に前にと持っていく。背後、山の上では今も竜神が天に伸びるような光景が水柱としてそそり立っており、山を揺らす地鳴りと共に激流が下って来てもいる。まさに一分一秒を競って村に着かなければ二ペソの村人全員が流されてしまうことだろう。
ルチルは、体が沖いのにどうしてこんなに身軽に山を下れるのか分からない二人に懸命について行きながら、祈る気持ちで二ペソのことを考える。
(あたしは二ペソのことをほとんど知らない。本当を言えばマルコ君のこともアニールのことも全然だ。けど、あたしは二人が二ペソで幸せに暮らしていることを知ってるよ! 毎朝頑張ってミルクを売ったり、村の一員として果樹園の手入れをしたりしながら、マルコ君もアニールもすごくいい笑顔をしていたよ! ああ、この村は良いところなんだなって、この土地にきて十日もたってないあたしにもちゃんと分ることが出来る、そんな幸せな村なんだ! ――なのに!)
弩級の災害が迫っている。
ルチルは故郷での暮らしを、おばあちゃんの教えを、水の都ならではの知識を引っ張り出す。何をどうすれば二ペソ村の人たちを助けられるのか。何をしてしまうと助けられないのか。駆け下りながら考える。
一番いいのは水がぱっと消えること。けれど、そんな都合のいいこと神様が奇跡でも起こさない限りあり得ない。
下ってくる水は激流といえる水量と速さを持っていて、実際問題、間に合ったとして村中に散らばった数百人単位の村人を全員助けられるか分からない。
(ううん、ちがう。そうじゃない。水がどこを流れるか、どの範囲を押し流すのかさえ分かれば避難はそう難しく――――ッ)
そう考えてルチルは歯がみする。
水は形のない凶器だ。山の上にあるときは水の流れる範囲が狭くても、下流に行くにつれて扇状に広がってしまう。普通の(と言っていいか分からないが)鉄砲水なら、下れば下るほど、川幅が広がれば広がるほど流れの勢いは緩くなり、それほどの脅威ではなくなるが、今のこれはそんなことに頼っていたのでは村一つ壊滅する規模。樹々を飲み込んで土砂を含んだ激流は、それこそ山という大きな存在の姿を変えるほどの力を蓄えてすべてを押しつぶしていく。
(これは祟り……あたしみたいのがたてつくなんて考えちゃいけないのかな……おばあちゃんも言っていたよね、『自然の神様とけんかしちゃなんねぇ』って……)
だが、そうであっても。
ルチルはは首を振った。助けたいものがあって、どんな無茶をしても守りたい笑顔がある。だったら諦めない。走る足は止めることはない。
(……ううん! おばあちゃんはこうも言っていたよ、『自然の神様とは一緒に暮らしていくんだ』って! こんなピンチなんてどうにかなるよ! どうにかするよ!)
そして駆け抜けた先、一気に空間が広がった。
始まりの川。
あまりに巨大すぎる岩が崖の縁に立っているあの場所。
「ここまでくればもうすぐだよ、ミイ姉さん。頑張って!」
すごいスピードで一気に駆け下りたミイ姉さんの背中から、マルコが声を張り上げる。マルコもアニールも背中にしがみつくだけで精いっぱいといった様子だが、その目にはやり遂げるという覚悟が色褪せずに燃えていた。
(よぉし、あの岩っていうより、もはや小さな山ってくらい大きな岩を過ぎればこのスピードだ、村まであと数分もかからない! これなら間に合うかもしれな――)
ここで、ルチルの思考にノイズが挟まった。
いや、正確には、空白を生むノイズが思考に挟まったのだ。
(……え?)
それは無意識だった。
ルチルは無意識で後ろを振り向いていた。
(まさか!)
山から下りくる激流の先端が、もう目の届く範囲を飲み込んでいた。
本当に、心臓が一瞬止まったような感覚をルチルは知った。
(早い、早すぎる! もう五百メートルもないよ!)
繰り返すが水の流れは時に早い。ルチルの目前に迫っている様な災害の場合、時速にして数十キロを超すことだってある。仮にそれが時速十五キロメートルだとしても、二分もしないであの激流は今ルチルがいる場所に届き、地形すら変えてニペソへ迫ってしまう。
このままでは確実に間に合わない。ここから二ペソまでミイ姉さんと山ヌシの足があったとしても。仮に村で「大水が起こりました」と叫んで、即座に逃げられる人間がどれほどいるだろう。その声が届く範囲に村人は全員いてくれるだろうか。ルチルには予測も想像もできなかった。
だから考える。知識と経験と教えを総動員して脳みそをギュルリと回転させる。
(どうしよう、どうすればいい!? 水の流れを……勢いを? えーと、故郷のモモトトでは何してた? 橋をかけなおすとき……水をゼロになんてできないから……ええと、大きな水の力をどうやって抑え込んで……土嚢? そうだ、数えきれない土嚢を使ってた! 結局水は流れて行っちゃうから子供の頃は意味がないように思えたけど、あれは水の勢いを殺すために必要だったんだ!)
だが、ここでも問題が。山村に、大量の土嚢があるなんて聞いたことがない。
だったらどうするか。
(代わりになればいいんだ。土嚢の代わりになってくれる何かがあればいいんだ! 水の流れを一度抑え込めれば――! あの激流は樹木や土砂を大量に含んでる。なら、一度勢いを封じ込めることが出来れば、あとは勝手に堤防の代わりになって、勝手に勢いを殺してくれる!)
そう結論付けたルチルは大きな声で叫んだ。
『ミルク姉さん、山ヌシ様! もう間に合わない!』
その叫びにミイ姉さんも山ヌシも驚愕を隠せない。
『間に合わない!? 何を言っているのだ、ルチルとやら!』
『だって、間に合わないんですもん!』
『ッッッ! だとして、ここまで来てやはり無理だと逃げるのか!』
『逃げません!』
『ならば如何にする!』
『おいしさんには転んでもらいましょう!』
それは、二ペソの山に住むものであれば動物であっても予想できない答えなのであった。
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