白百合十夜

エスマ

第1話

 その日は夢を見た。

 私の瞳孔いっぱいを白い月が満たす。暗い夜空を丸く切り取ってこぼれたような光が降り注いでいる。私はというと、そんな月を見上げながら、呼吸も止まりそうな静寂に包まれた草原にいた。

 私はどうしてここにいるのか。私自身答えを知らない。ただ、その答えを教えてくれる誰かを、私は待ち続けていた。


 「明日死ぬとしたら何をしようか」

 そう言って彼はイーゼルと向き合う。口癖のようなものだ。明日死ぬとしたら。それをテーマに彼がキャンパスに描く世界は、高校生ながらにして高い評価を得ている。

 彼というのは私の部活の先輩だ。ただでさえ部員が少なく、他の部員は来ることすらないこの美術室で、私と先輩はよく二人で下校時間になるめいいっぱいまで絵を描く同士だった。

 仲がいいのかと言われたら首を横に降ってしまう。私は彼の好きな食べ物もミュージシャンも何も知らないし、会話をするのは部活の時間だけ。けれど、先輩の創作理念とこだわりと、あとは白百合の花が一番好き、……それだけは知っている。

 「先輩はなんで白百合の花が好きなんですか?」

 「俺の中で一番綺麗な花だからね」

 「白百合の花は描かないんですか?」

 「……描かないなぁ」

 私の問い掛けに先輩は苦笑いをして返した。


 先輩はどこか浮世離れした雰囲気を纏っている。そのせいか校内で見かけてもまるで友達と居たのを見た試しがない。家族以外で一番会話をするのは間違いなく君、そう言って先輩はケラケラ笑った。毎日少しの間だけ絵を描き合うだけの後輩ごときが一番会話をするなんて、単に寂しい人じゃないかと突っ込むと、また先輩はケラケラ笑った。

 何がおかしいのか、そこは私に怒るべきだろう、それは口には出さないでおいた。彼の中の一番のひとつが私であることが嬉しかったということも、口には出さないでおいた。


 「明日俺が死ぬとしたら、君はどうする?」

 「なんですか急に、不謹慎ですね」

 「そう言わずに。何をする?」

 「……さぁ。お葬式に参列くらいはしてあげますよ。先輩は寂しいお方ですから」

 「俺が生まれ変わってまた逢いに行くから百年待っててって言ったら、君は待っててくれる?」

 「なんだか夢十夜みたいですね」

 「どう?」

 「……じゃあ、待っててあげますよ」

 先輩はにっこりと笑った。

 「じゃあ待ってて。俺はまだ白百合の花を描けないけど、その時が来たら白百合の花を描いてあげる」

 先輩はそう言って今日もイーゼルに向き合う。

 流れ星がひとつ降る、綺麗な星空のキャンパスが掛かっていた。


 それから片手の指を折り曲げるより先に、先輩が部室に来ることはなくなった。

 名ばかりの顧問が教えてくれた。元々彼は余命幾ばくもない病の身だったこと。本来ならば病院で治療を受けるべきところを、無理を通して普通の高校生としてここに通い、私と絵を描いていたこと。

 いつ死んでも、おかしくなかったこと。

 『明日俺が死ぬとしたら、君はどうする?』

 「ちゃんと来てあげましたよ、お葬式」

 白百合の花に囲まれて眠る先輩の顔は、声をかければ目を覚ましそうで、腹が立つくらいに綺麗だった。なんだか馬鹿馬鹿しいから涙は流さなかった。


 その日から夢を見るようになった。丸い月が沈まない中で、私はずっと何かを待っている。白百合の花が咲くのを待っているのだろうか。

 (先輩はどうして白百合の花を描かなかったんだろう)

 花というのはしばしば絵の主題に挙がる。白百合もそう難しいものではない。もしも彼が白百合の花を描いたなら、それはまた他の絵と同じように高く評価されていただろう。もし技術的な問題ではないのなら、彼の創作理念に、白百合の花はタブーであると言うに足る何かがあったのだ。

 私にはそれを理解出来ていなかったのだ。


 それから私は、たびたび白百合の花をキャンパスに描いた。なんだか腹が立った。意味のわからないことばかり言い残して、ひとつも白百合の花を描かなかった先輩の代わりに、私が白百合の花を描いてやろうと思った。何枚も何枚も。重ねていけばいつか月まで届いてしまうのではないかと思うくらい描いた。

 どれもそれは先輩の描いた絵よりも魅力的には思えなくて、破り捨てた。

 先輩の描いた白百合の花を見たこともないのに、私の描いた白百合の花は彼のそれよりずっと醜く感じる。自分は何をしているのだろうか。白百合の花を描かなかった先輩の気持ちが、白百合の花を描いて分かるはずないだろう。自問自答を重ねながら、私は何本も何本も白百合の花を咲かせては散らせた。

 夢の中でも白百合の花は生えてこない。私はずっと白い月の下で待ち続ける。


 そしていつの間にか私は卒業証書を手にしていた。たった一人の美術部になった私が卒業して、部活は廃部になった。

 

 先輩が死んでからも私が一人で毎日使い続けてはいたが、残されたガラクタのような画材たちは先輩の生きていた頃と何も変わらない。廃部にあたり片付けをするのは、先輩との思い出をなぞる行為に等しかった。

 手付かずにしていた先輩のロッカーに、その時初めて手を掛けた。いつの日か何かの賞を貰ったらしい絵も、星空が描かれたキャンパスも、しばしば落描きしていたコピー紙も等しく無造作に突っ込まれて時を止めている。長い間閉ざされていたせいか少しかび臭く、顔をしかめつつ、ロッカーからひとつひとつそれを取り出していった。


 「……ん?」

 ガラクタの詰め合わせのような先輩のロッカーの中で、細長いポテトチップスの筒が奥の方に丁寧に立てかけられていた。

 お菓子を持ち込んでいた記憶こそないが、万が一も考えて。私はそのポテトチップスの筒を手に取り、恐る恐る蓋を開ける。

 中には、一枚、少し小さめの画用紙が丸めて入れられていた。折れないようにという工夫だったようだ。少しほっとする。

 (他の絵は扱いがぞんざいなのに、これだけどうして……)

 丸まった画用紙を床に広げる。人物画だった。一人の少女がこちらに向かって微笑んでいる。……その少女は、私によく似ていた。

 絵こそ描きかけだけれど、右下にたった一文字、おそらくこの絵のタイトルが書き込まれていた。


『恋』  


 その時、初めて先輩が死んだのだと実感した。

 先輩がかたくなに白百合の花を描かなかった理由も、その時初めて理解した。


 「白百合さん、片付けはどのくらい進みました?」

 「あぁ、先生。まだ全然です。このままだと朝になるまで終わりそうにないですね」

 ひょっこり顔を出した名ばかりの顧問に、私はそう返しておいた。


 その日は夢を見た。

 私の瞳孔いっぱいを白い月が満たす。暗い夜空を丸く切り取ってこぼれたような光が降り注いでいる。私はというと、そんな月を見上げながら、呼吸も止まりそうな静寂に包まれた草原にいた。

 私はどうしてここにいるのか。それに気づいた私の前に、青い茎が伸びてきて、一輪の蕾がふっくらと花弁を開く。

 百年にも足る長い時間だった気がする。それまで沈まなかった白い月が地平線に消えていくと、東の空にひとつ暁の星が瞬いた。


 この夢から目覚めても彼は居ない。彼が白百合の花を描いてくれることは、もうない。

 けれどここで今、白百合の花は咲いた。私はそっとその白い花弁にひとつ口付けを落とす。


 目が覚める。何かと触れた感触だけが唇に残っていた。

 百合の花が咲くのを待っている。

 もしも本当に、先輩が生まれ変わって逢いに来てくれるならば。私はそれを待っている。百年でも、千年でも、私はただただ待っている。

 いつか、彼がもう一度白百合を描けるその日まで。

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