第2話 豆腐──pure──

 私はニューヨークの新聞記者だ。お上品なプレスというよりかは「下卑たブンヤ野郎」と罵られる場合の方が多い。ゴシップ、ネタ記事の専門家。

 そんな私だが、たまには指向の違った記事を書こうと思う。


 台南の街のど真ん中だというのに、駅前に建つその潰れた映画館は、なぜかいつまでも手付かずのままだった。

 正面入り口に掲げられたペンキが剥がれかけた看板からは、長年染み付いた生臭い潮風が漂ってきそうだ。紫紺のハイヒールをベンチの下に揃えて脱いで、三角座りをしながらトウチャオはたっぽりした紅い唇に煙草を挟んだ。

 夜通し遊び歩いた果てに辿り着いたこの世の終わりのような静かな夜明け。やかましい風が艶やかな彼女の髪を弄んで、東洋人のくせに美國人アメリカンのようだと大学仲間からは揶揄されていた癖っ毛をさらに波打たせる。

 このうらさびしい建築と、駅前の超近代的ビル群との組み合わせが彼女は好きだった。

 チャオの絵画における腕前はたまにコンクールの佳作を獲得できる程度のものだったが、大学の成績では平均的な美学生で通っていた。反面、外見においては誰からも褒めそやされた。男達は鼻の下を伸ばして犬のように彼女のキスを欲しがった。女達は眉をしかめてカフェテリアに陰口の花畑を耕した。

 彼女は孤独だった。

 煙草を十本も灰に変えた。始発から吐き出された勤め人達が駅からぞろぞろと歩いてくる。まるで蟻の群れのようだ、とチャオは連想した。単純で陳腐な勤め人の行列。けれど確実に、彼女よりは生活に余裕があり、住んでいる部屋は広く清潔なのだろう。

 彼女は豊かではなかった。遊ぶのはクラブだが、大抵の場合は裾の短い派手な服さえ着ていれば黒服の男は脇へ譲ってくれる。中は入ればこっちのもの。酒も食べ物も男達の奢り。ウインクの一つも投げてやれば、だらしのない笑顔で財布の紐をゆるめてくれる。男なんてそんなもの。

 けれどもチャオは、春をひさぐ事だけは決してしなかった。蛇足ではあるが男を知らない肌だった。

 突然チャオの右眼の中に、痛いほどするどい光の矢が差し込んだ。ビルの窓からの反射光。さっと掌でそれを遮り、熱い物体を近づけられたようにその方角を薄目で眺めた。それは無味乾燥な、新しいだけが取り柄の富裕層向けのタワー型マンションだった。

 あそこには彼女の弟子がいる。今頃は召使いにかしずかれ、朝食にクロワッサンでも焼かれているのだろう。

 台湾の先住民族である高砂族の血を引く浅黒で目鼻立ちのくっきりとした少年の事に想いを馳せ、ゆっくりとチャオはハイヒールを履いて駅前を離れる。彼は弟子だが、彼女とはあまりに住む世界がかけ離れている。

 彼女は大人しい画家の卵だった。しかしあの出来事で、すべては変わってしまった。


 台北で老舗の豆腐屋を営んでいる実家はチャオの学費の負担を厭うた。なにがしかの資格を取って安泰な人生を送ってほしいと願っていたからだ。平凡な両親だった。それに比べて彼女は突出してジレッタントだった。独学で絵を学び、芸術学部のある大学を受験し、合格した後の学費と生活費はすべてアルバイトで賄った。職種はおもにヌードモデルだった。

 若い駆け出しの在校生にはあまりない事だが、チャオのモデルにはプレミアがついた。豆乳のように色白で、ひれの長い熱帯魚のように儚い手脚と、存在感のある胸と腰のくびれ。実際に有名画家の数人が彼女に専属契約を持ちかけたが、そういった束縛は受けつけなかった。それがため、プレミアも一層はね上がった。

 その話を受けたのは、相手が個人ではなく学生、それも本格的に美術を学んでもいない私立の男子高等学校の生徒達であるという点に純然たる興味を覚えたからだった。

「僕の母校なんだけど、毎年希望者には芸術に触れてもらうため人体ヌードのデッサン教室を開いているんだ」

 モデル台の上でポーズを取り、いつもと変わらない淡々とした時間を過ごしたあと、その教授は言った。さも受けるのが当然と言わんばかりの傲岸な口調は癪だったが、拙くとも年若い少年達の視線に晒される方が才長けただけの子供老人とその弟子達に描かれるよりかは刺激的に思えた。


 夏のさなかであり学期末の八月だった。男子学生達の汗と欲求不満の匂いが充満していそうな雰囲気の美術教室で、素肌にまとわりつく重苦しい湿気さえも楽しみながら、チャオはローブの帯を解いた。ローブが彼女の丸い肩を滑り落ち、何もかもあらわになる一瞬。自分を取り囲む男子学生達の喉仏が、生唾を飲み込まれるとともにゆっくりと上下するのを彼女は全身で感じていた。

 時計を確認し、タイマーをセットする。スイッチを入れようとした時、ハイトーンの声が意識を捉えた。そう、例えるならライムのような…

「その女の人のどこをどの位置からでも描いて良いのですか」

 チャオは自分でも驚くほどの勢いで声の主に向き直った。それはひときわ大柄で坊主頭の、地色の濃い肌の男子学生だった。

 彼女は美術教師の代わりに、どこからどう描いても構わない、なんならそこに彼女自身を描かなくたっていいのだと説明した。

 得心したように、まだ少年という風格の彼は頷くと、やおらイーゼルからキャンバスを外し彼女のど真ん前に胡坐をかいた。どうやら、床に直接置いて描くつもりらしい。

 冗談好きか目立ちたがり屋の、周囲から称賛されるためのパフォーマンスか…とチャオは察した。

 だが、それはあっさり裏切られた。

 その名も知らぬ男子学生は大きな背中を折り曲げて、見たこともない機械のように素早く繊細に鉛筆をキャンバスに走らせた。時折彼女を見上げる黒目がちの瞳は獰猛に輝き、まるで自分が野獣の前に引き据えられたウサギのような気分になった。

 そう、彼女は恐れた。そして、押された。圧倒。見間違えようもなく、芸術学部にもいないような絵画への情熱を携えて生まれてきたもの特有のオーラを少年は纏っていた。

「はい、タイムアップ。描きかけのひとも手を止めて。モデルさんもプロなんだ、契約時間以上の拘束はできないよ」

 はっと我を取り戻したとき、既に彼女のかけたアラームが快活に終了のビープ音を響かせていた。

 台から降りるとき、チャオは少しよろけた。咄嗟に掴むところもなく、危うく床に顔から衝突しかける。モデルとして致命的なミス。

 ゴツゴツとした熱いものが彼女の頸部を空間に固定した。ガクンと頭が揺れ、衝撃と痛みが遅れて喉元にやってくる。声が出ず、呼吸が止まったが、それは一瞬のことなので苦しくはなかった。

「おい、何をしてる⁉︎早く離せ!」

 美術教師の怒声が響き、ふわりと身体が軽くなる。床にへたり込んで後ろを見ると、助けてくれたのはあの少年だった。とても子供に近い年齢とは思えないほどの節くれだつ腕で、彼女の頸をむんずと捕まえ、支えてくれたのだ。

 いきなり首を鷲掴みにするという方式は不器用を通り越して暴挙だが、怪我から守ってくれたのには違いない。そして既に情熱の冷めた黒目がちな瞳で彼女の様子をじっと見て、ひとことも言わずに立っている。

 級友達が彼に声をかけた。正確には、口笛まじりに囃し立てた。全裸の女性に対するヒーローじみた行いは、他の男子学生からすれば垂涎の的以外なにものでもない。

 少年はチャオの礼を待ちもせず、さっさとキャンバスを回収して級友達に散々からかわれながら退室した。


 衣服を身につけてから、彼女は後悔した。少年の絵を見ていない。あれだけの集中と、モデルになった自分の体をすみずみまで切り刻まれるような視線。鉛筆のみで描かれた陰陽のタッチがキャンバスの上にどんな果実を結んだのか、画家の卵としてもひとめ見ておきたかったのに。

 廊下に出る。ため息をつく背中に、とん、と硬い尖ったものが触れた。キャンバスの角だった。残照と蝉の鳴き声のしつこい廊下に足を踏ん張って、あの少年が相変わらずの無言で巧を睨みつけていた。巧は台詞にならない意図を感じ、恐る恐る布と板から成るそれを受け取り、正面からその画面を見つめた。

 そこには画面いっぱいに彼女の女性そのものの一部が、これでもかという迫力と真実をもって突きつけられていた。

 少年の顔を見返すまでもなかった。冗談や嫌がらせではない。そして芸術家のなかには気付かされる者もいる。自分の情熱や才能を上回る相手がこの世にはいるのだという事を。

「貴方、何かクラブに入ってる?時間はある?」

 少年は首を振った。九月から新学期になる台湾の学校制度の中で、彼は現在高校二年生。つまり来月には最終学年になるという事だ。

 加えてチャオは思い出す。この高校は台湾全土でも有数の進学校で、今日自分を描いたのは特進クラスの生徒達だったはず。いわば勉強というフィールドにおけるトップアスリート、全国大会レベルの猛者の集まりなのだ。そこへもってきて自分は何を勧めようとしているのか。全く別の方角へ続く道をしるべする気なのか。

 しかし彼女は止まれなかった。


 次の日から、チャオの方から時間をつくって少年と会うようになった。手ほどきをされるまま彼女のお手本を眺めるままに、少年の腕はめきめきと上達していった。技巧の高まりは慢心と停滞を生みやすく、往々にして稚拙な情熱がそれを凌駕する。作曲でたとえるなら一人のミュージシャンが生み出す楽曲のなかでもっともインパクトがあるのは、キャリアのはじめの方だ。常に新たな作品を生み出す事は容易ではない。そう、よほどの傑出した才能でもない限り。

 少年はその数少ない例に該当するようだった。鉛筆はマークシートを塗り潰す以外で使った事はなかったが、チャオの指導によりモチーフを繊細な陰影と正確なタッチで捉えられるようになった。それでいながら、あの「生涯初めて描いた絵らしきもの」にも勝るとも劣らない情熱と独創性が習作の総てに込められていた。もはや彼が数百年に一度の絵画の才能の持ち主であり、それを花開かせたのは疑いようもない。

 類稀な美女と巨躯の少年の交流にはしかし、ことここに至っても会話と呼べるものは一切なかった。


 少年はずっと息が詰まりそうな毎日を過ごしていた。いや実際、息が詰まった生き物のようだった。良家に生まれ、不自由一つする事なく、将来を親兄弟親戚から嘱望される頑健で健康な肉体を持つ自分。その対価として励むべき受験と進学。その二つが巧妙に混ざり合う泥の中、もがいてももがいても自由にはなれない。自分も、そして周りの少年たちも皆同じよう。ただ一つだけ彼が他の少年と違ったのは、その苦しさにいつまでも慣れることができない点においてである。

 だがどんな抵抗にも限界が来る。おしまいには少年も力尽きて泥の中に完全に沈み込んでしまっただろう。他の者達と同じように全てを勉強のためにと諦めて、仲間達とスマートフォンのゲームのランキングや夜市でひっかける女の子とのキスの数を競うだけの、つまらないエリートのミニチュアと化していただろう。

 しかしそこにチャオが現われた。

 あの、少年の通う男子校の美術の授業では通例となっている一回こっきりのヌードデッサンの日。他の男子学生は初めて見る女体(その内の数人は既に見知るどころかじかに触れてもいたが)に興奮し、人間の女性の裸体にしか存在しない自然という名の芸術家が表現した曲線美を学んでほしいという美術教師の思惑などそっちのけでズボンの前を硬くしていたが、少年には違った。

 光。

 光だ。

 圧倒的な、自分を魂ごと包み込んでしまうような力強い光輝。

 少年はチャオの中に、そして白磁のような肌の表面のあらゆる場所にそれを感じるや、矢も盾もたまらずキャンバスに鉛筆を走らせていた。素描のための鉛筆、消しゴム、教師が準備してくれていた使い放題の麺麭パンの欠片。初めて使うそれらを用い、己が感じた全てを───

 そうして出来上がった作品。乱暴なほど大胆な、女性器をこれでもかと大画面に描いたそれを、級友達はただの助平心の発露と捉えて失笑した。だが巧だけではなく美術教師もその真なる価値を感じ取っていた。

 チャオと少年双方から申し出を受けて、美術教師は二つ返事で了承した。あの写生の次の日から、二人は少年が塾に行くまでの短い時間(休日は朝から晩まで塾とジムでのトレーニングがスケジューリングされているので)を美術室でのアートレッスンに割けることになった。美術教師は二人を教室に残して職員室に戻る際、いつもさもありなんと満足げに口笛を吹く。

 少年を指導する立場のチャオは、しかし上手い講師ではなかった。彼女もまた根っからの芸術家で、その分野の人々が往々にしてそうであるように他人に説明するという術を苦手とした。けれどもそれを補うように、とにかく言葉少なく具体例を持って示した。

 光の落ち方、パースの概念、テーマの重要性、などなどなど…教える事はあまりに多く、そして少年はそれ以上に貪欲だった。鉄は熱いうちに打てという。高音の鉄は辰砂のごとく赤虹の輝きを放つ。少年が、彼自身でさえ不可思議なほどの情熱はそれを超えて、まさに薄白の高温にまで熱せられた炉鉄だった。

 チャオはしばしば己自身を教材にした。彼女の均整のとれた、アジアとヨーロッパそれぞれの味わい深い美点をかき集めたような裸体にも、愛らしく蠱惑的な面差しにも少年は劣情を催すことはない。地黒の顔貌のなかの黒目がちの瞳はつねに、絵画表現という目に見えない獲物を狙う巨大獣の眼差し。

 少年には良家の子息のならいとして、定められた許嫁がいる。これまでも少なかった同い年のその娘(これもまた女子高の温室育ち)との面会は日を追うごとに数を減らし、いまではもうメールすら交わすことはない。当然、相手の親からはやんわりと注意をほのめかす電話がきた。彼の両親もとりなそうとしたが、答えはいつも決まって

「僕は今、勉強の山場で余裕がないんです」

 だった。彼には確かに『余裕』はなかった。レッスンは素描から水彩、そして油彩へとシーンを変えて、次第にかっちりとした『作品』を仕上げるまでになってきていたから。

 だが足りない。もっと。もっと描きたい。いつまで、どこまでという目安もなく少年は美しい芸術学部生とのレッスンに耽溺していくのだった。


 チャオははじめて単位を落とした。芸術学部生にとってそれはよくあること。留年も浪人も退学も、そんな事は芸術家にとって有事ではない。

 しかしチャオの実家はそうは見做さなかった。


 降って湧いたような話だった。ほくほく顔で縁談をまとめてきた父親は、その太って真面目な警察官の男を大層気に入っており、チャオのような「美術ひとすじの不良娘」にはもったいない出物だと電話の受信機の向こうで褒めちぎっていた。数日後、チャオは言いつけ通りに台南から新幹線で台北まで里帰りをし、父親が後生大事に抱えて見せた見合い写真と寸分たがわぬかっちり七三分けの肥りじしな男と店舗兼自宅の一階の奥のリビングで対面した。

 どうせ付き合っているボーイフレンドも大金を落としてくれるパトロンもいないのだから、自分の決めた相手と結婚するのは当然と言わんばかりの父親の態度。そしてそれは事実でもある。チャオにとっても、そう悪い話であるとは感じられなかった。奇人変人が一山ひとやまいくらで売るほど居る芸術学部では考えられないほど、その相手は純朴で生真面目で真摯な男だった。妻として掌中の珠のごとく大事にされ、チャオの絵画も大目に見てもらえるだろう。絵に描かれたような平穏な家庭ではなく、平穏な家庭を描くようになるのかもしれない。

「お伺いした話では、チャオさんはこれまで誰とも付き合ったことがないとか。つまりその、であると…自分は、そういった純粋な女性を妻にしたいと常々思っていたのです」

 お見合いから三回目。二人きりで外食した際に男はそう漏らした。老酒を少々きこしめしており、気が緩んでいたのだろう。額にはてらてらと汗が光っている。普段ならそのような、女性に対し無礼と取られかねない言動は頑として慎む、そういう男だ。マナーを順守するというよりも、小心であるがゆえに。

 チャオは否定しなかった。男の言うことは事実と乖離していなかったから。

 男を知らない娘である事。そこに最大のウエイトを置いていたとて、それがなんだ?世の中には女を胸や顔だけで判断する男なんてザラにいるし、むしろそちらが本流だろう。女だって男を目鼻立ちと体型でまず品定めをするし、なんならそこへ運動能力に経済力ともっと多くの注文をつけるではないか。

 その晩の酒は多少重かった。チャオは珍しく宿酔ふつかよいをした。


 秋が駆け足で去ってゆく。冬になっても少年とのレッスンは続いていた。時折ため息をつくようになったチャオに、しかし少年は問わない。自分の人生は国立大学もしくは有名私立大学に進学する事で成り立ち、またそれは少年の一族の悲願でもあるのだ。チャオと出逢ったのは運命が用意してくれた僅かながらの悪戯のようなもの。趣味らしい趣味も持たず部活動にも専念する気のなかった自分には過ぎた幸せだと感じていた。

 もし、万が一にでも、この先に用意された成功を約束するホワイトカラーの道ではなく画家になりたいなどと言い出したなら、彼の母親は嘆き悲しみ、父親は気が触れた息子のためにカウンセリングを用意するだろう。いや、二人は結託して彼を精神病院に入れるかもしれない…

 学業には一点の曇りもなく、入試の失敗はあり得ない。少年には自分の置かれた現在になんの不満もない。恵まれた環境。望まれた将来。

 しかし少年にはなぜかそれが、今になって気が遠くなるくらい果てしなく感じられるのだった。

 春節の到来を前に、チャオは今日が最後のレッスンだと少年に告げた。

「私は6月に大学を卒業したら、去年したお見合いの相手とすぐに結婚することになっているわ。もっと貴方に伝えたいものはあるのだけれど、これ以上は無理ね」

 美術室を先に出たのはチャオだった。少年は最後まで無言のまま、彼女のしなやかで瑞々しい肉体をごてごてと飾るファー付きのコート姿を見送った。それはかの警察官が、婚約者のために贈ったヨーロピアンブランドの一級品だった。その頃にはそういったものを常に身につけるようにとチャオは両親から叱言をもらっていたのだ。

 少年はひっそりと描きかけの油絵を仕上げ、受験シーズンを控えて閑散とした校舎に残ってくれていた美術教師に教室の鍵を返して帰宅した。

「君が美術に興味を示してくれた事は大変に嬉しいよ。進学してからも、よかったら絵筆は執りたまえ。なんなら私からトウさんに連絡をとってあげるから」

 悪気もない美術教師の言葉通り、少年はいまだにチャオの電話番号も知らなかった。

 少年はチャオを描いた素描も全て持ち帰った。


 少年はコンドミニアムに自室に引き篭もった。彼が品行方正(両親の判断基準による)である限り、そこに何人たりとも足を踏み入れはしない。

 昨年の夏までは、南に面した窓のある部屋の中には少年の大柄な体格に合わせたベッドと勉強机、本棚とパソコンデスクの他にはこれといって何もなかった。

 それが今ではどうだ。壁にも机にも棚にも天井にも、床以外のすべての場所に彼の『作品』が留めてある。まる未知の大陸への探検を夢見る船乗りの部屋。あるいはまた、ありかさえさだかではない伝説の秘宝を求めるトレジャーハンターの居室のように。

 少年はベッドに長々と大の字になり、数日間、参考書も問題集も開かず黒目がちな瞳でそれらを睨みつけていた。そしてある日、ついにがばと起き出すとパソコンを立ち上げた。


 そのホテルは台南でも有名な方だった。チャオの夫となるべき警察官は普段は倹約、節制を是としてはいるが吝嗇けちなタイプの男ではない。華燭かしょくの宴の前段階として申し分のない花が豪華にテーブルに飾られ、純白のクロスにつく親類縁者の装いも煌びやかにととのえられている。

 会場の入口には両家の結婚披露のパーティーであることが洒落た英文で示されていた。チャオの父親は喜色満面で他に足がついていない。昇天してしまいそうな足取りで、花嫁の父親であることの喜びを似合わないタキシードの中に詰め込んで、ドレスに身を包んだ美しい我が娘の手を引きながら会場に入った。

 チャオはダイヤモンドのイヤリングも豊かな胸元に揺れる翡翠のペンダントも重苦しく感じていた。それは新郎の席の隣に座る事でいや増した。警察官もまたクロスと同じく白のツイードのスーツ。この日のために仕立てた一着なのだが、彼が恰幅が良いために、どことなく芸人のような印象を周囲に与える。

 ホテルが手配した司会がマイクスタンド前に立ち、会場の照明が暗くなる。いよいよ拍手と共に婚約パーティーが幕を開ける。チャオはハッとみじろぎをした。テーブルの下でそっと、紳士と淑女にふさわしい適度なさりげなさで警察官が彼女の手を握ってきた。彼女も握り返そうとするが、相手の手の冷たさが気になった。

 やがて式次第の説明が終わり、チャオと婚約者に照明が当たる。会場が割れんばかりの拍手。警察官が微笑む。彼女も微笑むが、うまくいかない。モデルとして裸を衆目に晒すよりも難しく感じる。その理由がおぼろげながらつかめてきた。

 高揚感が湧かないのだ。そういうものなのだろうか。チャオは己が芸術家であるがゆえに、こういった俗世のイベントには特別な意味を感じないのだろうかと思った。

 周囲の賛辞にも、祝辞にも戸惑うばかりだ。もうすぐ、今夜、自分はこの隣に座っている男の妻になる。それが意味するところなどとっくに理解している。それにも関わらず、なんの感慨もない。何かが、おかしい。

 不意に会場のドアが開け放たれた。チャオだけでなく、全員がそちらを中止した。なかにはそれが何かの演出してであるのかと勘違いした者もいた。

 少年だった。制服ではなく私服で大きな箱を背負い、肩で息をしながら会場の中をまっすぐにチャオに向かって進んでくる。汗みずくな彼の顎から滴り落ちる水滴は、照明の妙でクリスタルの欠片の如く美しい。

 会場を流れるBGMの荘厳さが際立つような行進。その終わりに少年は、チャオの前に到達した。

 少年は無言だった。ただ、あの初めて出逢った時と同じ眼差しが彼女に向けられている。

 チャオも無言だった。その表情には何も示されてはいなかったが、無ではなかった。

 チャオの両親も、男の両親もあっけにとられている。

 いつの間にか静まり返った会場に、少年の荒い息遣いだけが響いていた。

 やおら少年は背にした箱を床に落とした。どさりという音とともに我に返った誰かが良識にもとづいて警備員を呼ぶ。

 そこで少年は箱の中に腕を突っ込み、詰まった紙束を天井まで投げ上げた。

 それらは全て、チャオをモチーフにしたさまざまな素描だった。床といわずテーブルといわず振り撒かれた絵。新婦の裸体や、裸体でないものも数知れず。

 皆が見る。少年の絵を見る。手にとってじっくりと眺める。

 誰かが悲鳴を上げた。チャオの母親か、もしかしたら父親の方かもしれない。

 少年が無骨に節くれだつ手を差し伸べた。チャオは微笑むと、ひらりとテーブルを飛び越えてその手を取った。結婚披露の会場を走り抜ける二人。永遠とも思える数秒間。ドレスがこんなにも走りにくいとは。しかし巧には、新郎の横におさまっているよりもずっと体が軽く感じられた。

 会場を出た二人は、ともに膝に手をついて息を切らしながら顔を見合わせた。互いの顔に柔らかな微笑が浮かんでいる。もう一度、少年が手を差し出す。今度は肘を曲げた。チャオはその肘に自分の肘を絡めた。二人だけのヴァージンロード。

 ホテルの車寄せで、鈍重な足音が背後から迫る。この流鶯ばいた!という野太い声がして、そこでチャオは意識を失った。どうやらやっと追いかけてきた婚約者───『元』婚約者の警察官が、会場に用意してあったシャンパンの瓶を投げつけたのだ。やみくもな投擲とうてきと偶然のコントロール。それは彼女の後頭部を強かに打ち付けたとの話だった。

 はたから見ればいずれが悪役か判然としなかったのだが、女性に乱暴する太った男がヒーローではない事は明白だった。チャオのかつての婚約者はたまたま通りすがった通行人から取り押さえられ、そこから先、巧は生命までとられずに済んだ。


 だが数日間の入院が必要だった。家族は誰も見舞いに来なかった。しかし彼女の傍には少年が一刻たりとも離れずについていた。

 病室のベッドでチャオが意識を取り戻してはじめに少年は問うた。

「大丈夫?」

 チャオは答えた。頬を若干上気させて。

「ええ」

 それが二人が最初に交わした会話らしい会話になった。

 予定を繰り上げて退院する際、受付でなけなしの現金を支払うとチャオは言った。

「もし誰かが訪ねてきたら、豆腐の予約は取り消したと伝えて」

 恐らくそれだけで父親には通じるはずだ。彼は外省人の孫で、大陸風の言い回しを多用してきたから。

 そして少年の手を引いて…いや、互いに指を絡めあってロビーを出て行った。そのまま二人とも、互いの家には戻らなかった。財布の中にパスポートを持っていたから。少年のクレジットカードは彼自身に捜索願が出されるまでしばらくの間使うことができた。


 以上が事のあらましである。


 私は現在、三流記者としての本業のかたわら、世間を渡り歩いてきた経験と己の弁舌と少しの審美眼を武器に美術品のブローカーもこなしている。

 着の身着のまま渡米し、それなりの苦難はあったものの成功した年若い男女の画家はインタビュー記事の縁もあって私を専属のブローカーに就かせてくれた。まあ、ダウンタウンのボロアパートからマンハッタンの小洒落たデザイナーズマンションへ引っ越せるだけの額は稼がせてもらっている。二人はチャオという女性のほうが三人目の出産を前にしており、いよいよ精力的に作品をものしている。その理由は言わずもながだろう。

 ここアメリカでは、豊かな子育てにはなんといってもドルの紙幣が欠かせないのだ。二十代になったばかりで既に二児の父親でもある男が台南に残してきた一族とは、年月が経過するとともにわだかまりが薄れ、今では彼のように一芸に秀でておれば必ずしも学業で身を立てずとも構わないというところに彼らの意見は落ち着いているそうだ。


 台北の美術館で、かつて少年が結婚披露のパーティに待ったをかける爆弾となった作品のいくつかを見ることができる。抜け目のないチャオの父親が拾い集めてとっておいたものだ。元婚約者の警察官の側は、世間の常識からかんがみてなかなかに大きな賠償金を請求したが、少年の作品を売却して得られた金額はそれを支払って余りあるものだった。両親に不満はなかった。なんといってもアメリカで娘の産んだ孫たちは可愛らしく、社会的にも成功しているのだから。


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