珈琲を待ちながら~短編集

鱗青

第1話 真珠──Ada──

「君はどうもぱっとしないねえ」

 アダはまたしてもイタリア政府主催の芸術祭のオーディションに落選した。その瞬間も、いやずっと前からも彼女には分かっていた。オペラの主役を張れないのは彼女の声楽における技量の問題ではなく、ひとえに生まれ持った容貌かおかたちによるものであるということを。

「どうも。よく言われます。お気になさらず」

 しかし彼女は愛想よく笑って一礼をする。歌うことを愛する彼女にとって、音楽に関わるすべての人が天使と同義であった。

 笑うとえくぼのできるアダの顔は、大都会の歴史あるホールよりもむしろ県境にある小村の村役場に向いている…と、ボーイフレンドが常々茶化していた。その男は気立てが良い働き者だが芸術に無頓着な点で彼女とそりが合わなかった。けれど彼女は自分のえくぼを褒めてくれるのは田舎で漁師をしている父親だけなのだと少女の頃から分かっていた。

 父親はよく「真珠っていうもなぁ、誰にも顧みられねえような海の底、お日様の届かねぇような静かな岩陰で育つもんだ。そうして育つから、どんな宝石よりいっとう美しい」と言っていた。頑健だった肉体はもうだいぶガタついて、帰省のたびに孫の顔を見せろとせっついてはくるのだが。

 あるとき彼女が所属している劇場(エレベーターが手動の)で身の丈に合わないほど有名な演出家を招聘しての公演が決定した。ほんのささいな芸術家達の気紛れと、市長の涙ぐましい根回しへの奔走とが実現させた奇跡。

「こんな幸運が舞い込むなんて、まさか地震や火事の前兆じゃないだろうな」

 支配人がまるで法王に拝謁する予定の神父のように僥倖と畏怖の汗を額に浮かべながらところかまわず大声で話すのを、アダは控室の隅に置いてある一番古いお気に入りのスツールにいつものように腰かけて、パックの牛乳をすすりながら聞いていた。その様子は、さも自分はいつものように的確に合唱群コロスをこなすだけだとでも言いたげに見えた。

 どうせ配役はお仕着せで、メインは首都からやってくるお育ちの良い有名歌手だろう───それは彼女のみならず他の劇場付き有象無象の団員の諦観であり、真実でもあった。


 今度こそは舞台の中央で大勢の観衆にアリアを聴かせたい。せめて名前のある役がほしい。彼女には珍しく、野望の火とでも呼ぶにふさわしい情熱が胸の奥からめらめらと燃え立っていた。そしてその情熱は芸術家として正しいものでもあった。

 彼女はこの世に生れ落ちる前から母親の子守歌や雄々しい父親の漁師歌を耳に注ぎこまれてきた。物心ついて初めに口にしたのは『椿姫』の乾杯の歌。生活の、人生の、ほぼすべてを歌ひとすじに生きてきた。

 そして───彼女は天才だった。しかも研鑽を積むことを苦にもしない性格だった。ただあまりに地味すぎるその容姿ゆえに、場末劇場の監督程度では理解できないほどの高い技術と、聞いたものの心臓を優しくからめとってしまう音楽的愛と動機を兼ね備えた天才だった。さらには彼女はあらゆる努力と鍛錬を欠かさず、およそ歌と名の付くものはイヌイットの民謡からアメリカのポップスまでなんでもござれの才女だった。

 もしTV番組のスター発掘企画に応募したなら、審査員は総スタンディングオベーション、感涙もやむなしといったところだろうか。才能の点ではマリア=カラスとパバロッティ以上に恵まれ、本人の努力の点ではヘレンケラーやヒラリークリントンをも凌駕していたのだから。

 そう、ただひとたび役が付きさえすれば。

 才能も情熱もない劇場の指揮者が、もしオーディションを毎回の形だけのものに留めずきちんと全員の歌唱力を吟味し、正当に評価していたら。

 どこの劇場にもいる、ちょっと顔立ちが華やかで性格の開放的な女性新人とのベッドにおける関係を演出家が配役に持ち込んだりしなければ。

 照明係が頑固な愚か者で、彼女に当てるスポットを小さく絞ったままでなければ。他の団員が音外れで足を引っ張らなければ。合唱のとき、身長の高い見栄っ張りどもがもっと彼女のために場所を割いてくれていれば。

 ひとつひとつの歯車の狂いは些細なものだったけれど、それが嵌まらないことにはどうしても、幾ら彼女がオペラ歌手として頭一つ二つ抜きんでた世紀の天才であってもスポットライトの差し込む舞台のセンターに立つことは夢のまた夢だった。

 それが、歯がゆいと思わなかったことはない。

 しかし、このチャンスをものにすればそこで世界は変わるのだ。

 アダは有名演出家のオーディションの朝、いつもよりクッキリと口紅をひいた。前日には美容室にも行き、これでもかと資金を投入して自分史上おそらく最高のコンディションへと持っていっていた。

「真珠は深い海の底、光の差さない場所でも育つもの」

 そう呟いてアダは鏡の中へ微笑んだ。そこにある映し身は、まだどこかはにかみを含んで揺れていた。

 あとは指定された時刻に舞台に立ち、夢に見るまでに誦んじた楽譜を披露するだけで、彼女は遅咲きのプリマドンナとしてヨーロッパの音楽会を震撼させるだろう。

 それから、これだけは結婚式の際にととっておいた母の形見のカメオを胸につけて家を出た。いつもは気にしているテレビの占い番組も、ニュースも見なかった。アダの足取りはいまだかつてなく軽やかに、姿勢はランウェイを往くトップモデルのように凛としていた。


 オーディションには外部からも多数の応募が集まっていた。あまりに希望者が多かったため選考は急遽、四次選考まで設けられた。

 朝の九時から始まった選考はとんとん拍子に進んでいった。気がつけばアダは五人まで減らされた主役希望者の一人として、劇場で最もモダンなしつらえになっているダンススタジオでパイプ椅子に腰掛けていた。

 ひんやりと冷たい灰色の天井から降りそそいでくる、塩のように厳格で濃厚な照明。アダは角度によってはほとんど白い反射ばかりになる壁面の鏡の中にいる自分を眺めた。

 なんと魅力的なのだろう。アダを見返してくる鏡の中の像は彼女自身でありながら、まるで別人のようだ。少なくとも、昨日までの自分とは別物だ。

 一次二次はさることながら、アダが本領を発揮したのは三次選考からだった。それまで平々凡々、合唱群コロスにあって目立たぬ立場に唯々諾々と甘んじてきた地味な歌手などはじめからいなかったように、いやむしろ生まれ変わったかのように立派に鮮烈にイメージの脱皮を果たしていた。以前の彼女を無印象の卵とするなら、さしずめ現在の彼女は誰もが瞳を奪われる宝石の輝きを放つ極楽鳥だった。

 アダはここまでダントツの成績で勝ち上がってきた。それは日々の反復練習と声帯の開発と弛まぬ技巧の研磨があってこそのもの。いわば当然の結果であるのだが、だからこそその結果が彼女に揺るぎない自信を与え、そしてその自信こそが今日までの彼女には一番欠けていた胸の内なる恒星だったのだ。

 彼女の歌は素晴らしかった。目を閉じれば、ポカンと大口を解放してアダの歌に聞き惚れている審査員の顔ぶれと、歌い終わった直後の真に感動のこもる静かな拍手が思い出される。無論それで慢心したりして調子を崩すことなどあり得ない彼女だが、それでももう一度足を揃えて背筋を伸ばした。大事なことはひとつだけ。

「今日を、人生で最高に素晴らしい1日にしなくちゃ」

 誇らしい思いを胸のカメオに託すように、心臓に手を置いていた時だった。薄い頭皮が白く見えるほど蒼ざめた劇場支配人が、変なニヤニヤ顔をしてダンススタジオに入って来た。

 彼ははじめ何も言わなかった。そこにいるアダを含めた数人の最終候補者をさらりと一瞥し、唇に親指の背を当ててくつくつと笑うばかり。アダではない誰かがさすがに問いかけようとした先を奪うように言った。

「首相から発表があった。新型肺炎の感染者が増加の一途を辿っているから、ウチみたいな弱小劇場でも暫くの間は上演禁止だそうだ。ご苦労様。もう帰っていいさ」

 歌唱力も演技力もそこそこ、だが無謀だけは人一倍の1人が尋ねた。

「暫くの間って、いつまで?」

「分かるもんか。この馬鹿げたパンデミックとやらがおさまるまで、だそうだ。ああ、あと数時間で県境が軍により通行禁止になるそうだよ。自分の身は自分で守れ。それじゃ」

 バタン!───支配人が出て行った音だけがダンススタジオに鳴り響いた。それきり支配人は二度とこの劇場の敷居をまたがなかった。


 東洋のとある独裁国家に端を発した疫病騒ぎはヨーロッパのみならず世界中に甚大な被害をもたらした。とくにステージシーンで活躍するアーティストや企業にとっては、咽喉を無理矢理こじ開けて劇薬を飲ませられるにも等しいダメージを被ることになった。

 人々は疫病の侵入の元凶ででもあるかのように舞台を恐れ、それに関わる人々を忌避した。なにせ、ステージに感染者がいればたちまちのうちに数十から数百人を新たな感染者の仲間に引き入れてしまうのだ。

 劇場という劇場が封鎖された。映画館の扉には立入禁止のテープが巻かれ、ライブハウスの入り口には板が打ち付けられた。

 アダの劇場は県内でも真っ先に倒産した一つである。支配人は上手に逃げを打ち、騒ぎの最中に南カリブ海で悠々自適の生活を手にしたが、肺炎のウイルスではなくそれまで自分自身知らずにいたエビのアレルギーであの世へ旅立った。

 世界は混沌の巷と化した。最早オーディションどころではない。高名なオペラ歌手とて皆路頭に迷い、明日のパンどころか今夜のスープですら悩ましい困窮に追い落とされていった。

 しかしアダは諦めなかった。何しろ自分には歌があり、まだ生きているのだ。その二つがあれば、いつでもどこからでも這い上がっていけるだろう。

「大丈夫。私はまだやれる。まだ続けられる。きっといつかまた、以前にも増して活発にオペラが上演されるわ。みんなきっと舞台に飢えているはずだから。その時にこそ…」

 アダの予言は正しかった。それからパンデミック以前のように舞台の幕が上がり、ありとあらゆるパフォーマンスがかつてのように上演されるまでにじつに四十年もの月日が流れた。


 アダは結局舞台に戻ることはなかった。彼女は凡庸で朴訥だがなにものにも替えがたい真実の愛情を示してくれたボーイフレンドと結婚し、混乱の時代に二人の生活を支えるためにもっとも危険、しかし確実だった看護師の資格を取り、残りの生涯を人々への献身と家族への奉仕をもって幕を下ろした。

 何度も延長された定年間際、アダは病院内のホスピスで緩和ケアをされる患者達のために一度きり、いくつかのアリアを披露した。

 戯れにそれを録画した病院スタッフが動画サイトに投稿するや、彼女の歌声は世界を駆け巡った。

“埋もれた天才”

“白衣の女神ミューズ

 ミュージックサイトに記載の無い謎の歌声に人々は魅了され、老境に達した看護師の姿は様々な検索エンジンを疲労困憊に陥らせる。

 しかし彼女自身は日毎夜毎伸びていく再生回数も億を超えることになるコメントも知る事はなかった。動画を撮られた翌日、高齢者の運転する車にはねられたのだ。即死だった。


 彼女の動画は現在も見つけることができる。既に動画は複製され、拡散され、世界中を飛び回り、世界中の人々の心を癒し、慰め続けている。そして白衣を着て朗々と歌う看護師の胸には、あの日のカメオが勲章のように煌めいている。


 やがてアダの名は文化芸術に対して称える碑文の中に刻まれることになるだろう。毎年のように国家予算で清掃・営繕の管理がなされるのだ。怠け者で気分屋と名高いローマの業者でも、アルファベットの最初の2文字を名前に冠するアダの名前は恐らく偉人たちの列のはじめのほうにあるため、いつもピカピカになるくらいきれいに磨かれているに違いない。

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