(8)

 それは、先生が突然俺の屋敷へとやってきてから一週間も経たないうちの出来事だった。


「私もついて行く」


 先生の言葉に俺は困惑した。困惑したが、半分うれしかったのもまた事実だ。


 きっかけはセヴリーヌから「たまには王宮へきなさい」という「お誘い」の手紙だった。その手紙には返事をしてある。もちろん答えは「体調不良につきご遠慮いたします」……そんな内容の手紙を送った。


 実際に、俺の精神状態がよろしくないのは王宮内の事情に精通している人間には、知られている話だった。


 セヴリーヌは父が娶った妃のひとりで、俺の母とは違い、身元の確かな元侯爵令嬢である。高飛車な態度を取るでもなかったし、俺に辛く当たるような人間でもなかったが、俺はイマイチ彼女のことを信用できずにいた。


 俺に近づく価値などない、と強く思っているのも原因のひとつだ。戦時下ならいざ知らず、戦後世界では俺は不要の存在だった。正確には、不要の存在に「戻った」と言うべきか。


 そんな俺に接近しようとするセヴリーヌの姿は、俺には不気味に映る。


 俺がもっと、高位の王子であれば話は別だ。セヴリーヌは王宮内での身分は高いが、その子供は王女しかいない。つまり、将来的に国母になれる可能性はほとんどない、ということだ。


 だから我が子の腹違いの兄弟に接近し、上手いこと身内の令嬢を嫁がせるなりできれば――という考えを抱くのは、特におかしなことではなかった。おかしいのは、そうやって近づくのがミソッカス王子の俺だという点だ。


 しかしこれはすべて俺の邪推にすぎない。俺に「お誘い」をかけたのにはまた別の理由があるのかもしれない。けれどもそこに純粋な「好意」みたいなものを見出すのは、至難の業と言ってよかった。


 王宮内が伏魔殿と変わりがないことは、俺も肌で感じていた。実際に、ミソッカスの俺が命の危機に晒されることなどはなかったが、腹違いの兄たちの、王宮内での権力闘争は遠い離宮にいる俺の耳にも入っていた。


 だから正直に言って、王宮にはあまり近づきたくはない。そう思っていたのに、セヴリーヌから追撃をかけるような「お茶会のお誘い」の手紙が届いたのだ。再び、断りの手紙を書くのは気が重い。それに茶会の前に欠席の手紙が届くかどうかはギリギリに見えた。


 仕方なく俺は慌ただしく準備をして出立する旨を、屋敷に逗留する先生へ、イヤイヤ告げたのだった。目的のよくわからない「お茶会」に出るくらいだったら、正直に言って先生と一緒に机を囲む方がいい。けれどもそんなワガママが通せないこともまた、俺はわかっていた。


 なのに――。


「私もついて行く」


 先生はあっさりと、俺が最も欲しかった――そして、決してもらえはしないだろうとあきらめていた――言葉を発した。


 先生の言葉に、俺は困惑の表情を浮かべたと……思う。けれどもそこに喜びがにじみ出てはいやしないだろうかと気になった。


「先生?」


 俺は戸惑いのままに先生を呼ぶ。先生はしばらく考え込むような顔をしていたかと思うと、またゆるりと顔を上げて俺を見た。


「できるだけそばにいたい。駄目ならそれでいいが……」


 紫水晶のような瞳には、相変わらず表情はない。けれども心なしか、先生の柳眉が下がっているような気がした。


 ズルい。先生にそんな言い方をされて、そんな顔をされて、断れる人間が世界のどこにいるだろう?


 先生は単に保護者のつもりで俺について行くつもりなのだと、何度も心に言い聞かせる。俺たちを慈しんでいた先生のことだ。俺の精神状態がよくないことを見て、心配でついて行こうとしているのだ。そうに違いない。


 それでも現金な俺の心は、先ほどまで感じていたイラ立ちなど雲散霧消し、今では喜びに浮き上がっている。相変わらず、「お茶会」は憂鬱だったが、それでも先生が同じ王宮内にいるのであれば、なんだか心強いような気がした。


「そんなことはない。ない、が……いいのか?」


 この国にバケモノを授けた先生。そのことを恐れ、よく思わない人間がいることを俺は知っている。その結果として暗殺未遂疑惑などが噴き上がったりもしたのだ。


 けれども先生はなんてことない顔をしてただひとこと「大丈夫だ」とだけ言った。


 先生の身支度は早く、その日の昼過ぎには俺たちは公爵領を出て王都へと向かった。


 王宮内に設けられた豪奢な客室に立ち入るのは久しぶりで、郷愁よりも「またここに戻ってきたのか」という嫌気の方が先立った。


 俺たちをバケモノとして戦えるように教導していた先生は、そのあいだはずっと客室で暮らしていたらしい。らしい、と言うのは先生が逗留していた客室を訪れたことはなかったからだ。


 隣の客室に入った先生は、懐かしさとかを今まさに感じているのだろうか? そんなことを考えていれば、扉がノックされて、当の本人がやってきた。


「身支度を手伝う必要はあるか?」


 来意を簡潔に伝える先生に、俺は「大丈夫だ」と言うのをやめて、「髪を整えて欲しい」と言った。「お茶会」へと向かうギリギリまで、先生と一緒にいたかった。先生はそれをわかっているのかいないのか、わからない顔をして「わかった」とだけ言って部屋に入ってくる。


「侍女は借り受けなかったのか」

「……先生が見てくれ」

「わかった」


 立たせた俺の周囲を何度もぐるぐると回って服を確認したあと、先生は俺を鏡台の前に座らせる。先生は俺が必要としていることを聞くばかりで、なぜ侍女を呼びつけなかったのかとか、そんなことは微塵も聞きはしなかった。


 俺は、そのことにホッとする。だれか他人の手がテリトリーへ触れることに、戦後すぐ頃から強いストレスを抱くようになっていた。だから、メイドのひとりだって連れてきてはいない。


 けれども、先生なら大丈夫だった。むしろ安心感すらあって、多くの人間が母親に感じる安らぎのようなものは、こんなものなのかと夢想すらした。


「髪がパサついている。栄養が足りてないんじゃないか」

「あんまり食べられていないからな……」

「そうか。まあ、まったく食べられていないわけじゃないんだろう」

「ああ」

「なら、いい」


 先生に髪を触られていると、自然と断髪式のことを思い出す。あのときは無垢な気持ちで胸を高鳴らせていた。今となっては少々滑稽に映るほどに。


 けれどもどうだろう。今こうして先生に髪を触られていると、あのときのような切ない気持ちに襲われる。鏡越しに先生を見れば、先生は熱心な目つきで俺の髪を櫛でいている。肩より長い俺の髪をどうにかまとめようとしている姿が、なんだか健気に思えてまた胸が締めつけられた。


「先生……」

「どうした」

「断髪式の……出征前の――あのとき切った髪がどこへ行ったか、知っているか?」

「ああ、あの……」


 先生は、しっかりと断髪式のことを覚えているようだった。


 しかし――。


「たしかに私が一時的に預かっていたが……王宮を離れるときにそちらへ渡した。だから、今どこにあるかはわからない」

「そう、か……」


 口から漏れ出た声は、思ったよりも落胆の色が強くて、俺自身びっくりした。


 先生はそれを耳ざとく聞き取ったのか、俺の髪をまとめながら、こんなことを言い出す。


「そうだな……お前が茶会をしているあいだは手持無沙汰だし、捜してこようか」

「そんな……安請け合いしていいのか」

「私も気になっているし、まだ王宮には知人もいくらか残っている。そちらを当たってみれば、わかるかもしれない。お前を待っているあいだ、やることもないしな」

「それなら……」


 先生が暇でやることがないと言うのなら、任せてしまってもいいのだろうか? 俺は先生の手をわざわざ煩わせるほど、ずっと気になっていたことではないだろうと思いつつも、仲間たちの髪を取り戻せるのならば取り戻したいという思いも強くあった。


「それなら、頼む」


 神妙な面持ちの俺が、鏡に映っている。不意に、鏡越しに先生と目が合った。先生はただいつものように「わかった」とだけ言って、俺の髪を黒いリボンでまとめ上げた。

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