(7)
戦力外通告を受けた。「なんの」と問われれば、「掃除の」としか言えない。
先生の提案で引きずられるようにして屋敷の客室へ足を向けた俺たちに、メイド長はハッキリと、ニッコリと「足手まといです」と言ってのけた。同じ部屋にいた年若いメイドがぎょっとしたような目をメイド長に向けたのがわかった。
メイド長の直截な言葉を不敬と捉えるほど俺は狭量ではない方であったし、古くから知る彼女とのあいだには、そういうことが許される空気があった。だから俺が抱いた感想と言えば「まあそうだよな」というようなものだった。
メイド長を筆頭とした彼女らの腕に比べれば、俺の技術なんぞたかが知れている。ここは専門家に任せるのが賢い選択というものだ。
先生は、メイド長の言葉を食らっても動揺するそぶりは一切なかった。しかし「なるほど」とだけ言って、なにか感じ入っているようだった。
「屋敷中を掃除する許可が得られたのはいいですけれど、どんな風の吹き回しです?」
「私が言ったんだ。せっかくだからもういっそ屋敷中を綺麗にすればいいと」
「あら、そうなんですか!」
不思議そうな顔をしていたメイド長は、先生の言葉を聞いてうれしそうに口元へ深いシワを作って笑った。心底喜んでいる、といった顔だ。
俺はと言えば、俺がそんなに屋敷を掃除をさせないことについて、メイド長が鬱屈とした感情を抱いていたのかということに気づき、申し訳ない気持ちになる。
メイド長は先生の後ろで気まずげにしている俺には目もくれず、それはそれはうれしそうに先生に感謝の念を伝えていた。……かと思えば急にメイド長の視線が上がって、彼女よりもずっと背の高い俺に目が向けられる。
「さ、旦那様は『先生』と庭でも散策してきてくださいな」
そう言ってメイド長は笑顔を持って俺たちの背中を押し、屋敷から放り出したのであった。
やることがないので中庭まで足を向けたあとは、庭に設置されたベンチへ腰を落ち着ける。先生がすぐ近く、横にいるのだと思うと少し緊張した。先生の方は……相変わらずなにも感じていないというような顔をしていたが。
「先生は……どうしてここに?」
ソワソワとした気分に突き動かされるまま、口火を切ったのは俺だった。しかし出てきたのは前回と似たような質問。先生は、水晶のように透き通った美しい目をゆるりと俺に向ける。
「ジルが言ったように、心配だったからきた」
「ああ、噂を……聞いたとか」
「色々と、耳に入れてくる人間はいる。しかし、それを抜きにしてもジルのことが気になったから、きた」
戦争が始まる前に先生はお役御免となったわけだが……それでもまだ、俺のことを慈しむべき教え子だと思っているのだろう。そういう感情が、先生のわずかな――あまりにもかすかすぎる――表情の変化が伝えてくる。
俺は俺で、未だに先生のことを「先生」と呼んでいるので、結局俺たちは似た者同士といったところだろうか。だが、それが今の俺には沁み入るようにうれしかった。
「先生はいつまでここにいるんだ? あ……いや、しばらくいてくれて構わないのだが」
俺の言葉が非難めいて聞こえやしないかと気になり、あわてて言葉をつけ足す。つけ足したあとで、しかしこんなことを言ってはひた隠してきた、先生への気持ちが滲みすぎてはいやしないだろうかと気にかかる。
しばらくと言わず、ずっとそばにいて欲しいのが本音だったが、もちろんそんな願いが叶うはずもない。俺には俺の人生があるように、先生には先生の人生がある。「人生」と言えば大げさだが、つまりは都合があるという話だ。
先生は俺が「心配だから」きたと言った。その言葉通りならしばらく様子見をして済ませれば、この地を離れるだろうことは予想できる。……そしてそんな「予想」の中で、俺は胸を引き裂かれるような感覚に陥った。
……いっそ、先生に着いて行ってしまいたい。そんな世迷言を口にしかけるくらいには、俺の精神は弱り切っているようだった。
「ああ、しばらくはお前の世話になるつもりだ。いや、お前の使用人たちの世話に……か?」
先生のその言葉に、俺は内心でホッと息を吐く。だからだろうか、口を突いて出たのは限りなく本音に近い言葉だった。
「しばらくと言わず、いつまででもいてもいい」
言ってしまったあとで、己の本心を曝け出し過ぎた後悔よりも、先生を困らせていないかどうかが気にかかった。
先生はパッと見ただけでは、無表情で無感動の持ち主のように見えるが、一度として俺たちに冷たい仕打ちをしたことはない。だから、先生の口から拒絶の言葉を受けることよりも、先生を困らせることの方が俺は気になったのだ。
しかし先生は、困ったような顔をすることもなく、薄っすらと口元に笑みを浮かべたように見えた。「ように見えた」のは、その変化があまりにもささやかすぎて、自信が持てなかったからだ。先生を困らせていやしないかと過剰に気にしてしまう俺には特に、先生の表情を正確に受け止めることができているか、わからなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、うれしい」
先生の瞳には居心地悪そうにソワソワとしている小さな俺が映っていた。先生の前では……俺はバケモノでもなければ、ミソッカスの王子でもなかった。単なる先生の教え子で、先生の……慈しみを受ける立場にある。
そこを、どうにか超えられないだろうかという欲が、俺の中に生まれる。……いや、これは昔からあったものだ。まだ戦争を知らない頃から抱いていた、ささやかな欲望。先生への気持ちを隠しながら、俺はいつだってそれが暴かれることを恐れ、そして同時に今の関係を超えたいと願っていた。
振り返ってみると自分のそんな馬鹿馬鹿しさが少々恥ずかしくなる。まるでなにもしないで白馬の王子様を待つ少女と変わりがない。つまり、あまりに都合がよすぎるということだ。感情を直接先生に吐露しない限り、この思いは伝わらないし、関係も変えられはしない。そんなことは、あのときの俺だって、わかっていたはずなのに。
仲間たちはそんな俺をどういう目で見ていたんだろうか。……今はもうすべて、憶測を抱く以外に方法はない。
「言っちゃえばいいのに」とパトリスはこともなげに言った。それができないから悩んでいるのに――と俺は思った。けれども、しかし、パトリス、お前は正しいよ。いや、正しかった。……俺は心の中でひとりごちる。
「でもいつかは帰らなければならない」
「先生の家は……いや、帰る場所? は、どこにあるんだ?」
「ここからは遠いところにある。なんにもない山の中を進んで、山頂の近くにある家だ」
「大変じゃないか?」
「そんなことはない。マスターがいるから……」
「マスター」。先生の口からその言葉を聞くのは初めてではなかった。
時折、先生の口からその言葉が出てきては、俺たちに謎を振り撒いた。「マスター」。先生の「師匠」筋ということだろうかと、俺たちは憶測を抱くだけだった。先生に尋ねても、それ以上の情報は出てこなかったから、言いたくないのかと俺たちは思った。……その割には頻度は低くとも、時折その言葉はうっかりといった様子で聞こえたのだが。
「マスター」。先生のそばにいられて、恐らくは尊敬を受けているのだろうその存在に、俺は嫉妬していた。いや、今もわずかながらにその感情は想起できる。「マスター」が男か女かわからなかったが、それは俺にとっては些細な情報に過ぎなかった。先生がいつか帰る場所にいられる。それだけで俺の嫉妬を呼ぶにはじゅうぶんだった。
遠いところとはどこなのか、「マスター」とはいったいどんな人間なのか――。先生はどこで生まれて、どうやって育ってきたのか。聞きたいことはたくさんあった。あったが、しかし俺にそれらを聞く勇気はなかった。
先生には謎が多い。けれどもことさらその謎を暴いてやろうという気には、なれなかった。暴いてしまったら昔話よろしく、煙のように消えてしまいそうな……冷静に考えると馬鹿馬鹿しいが、そんな気がして、俺は結局躊躇してしまう。
別に、知らなくても問題はなかった。知っても知らなくても、俺にとって先生は「先生」に違いないのだから。
だから、どうか、もうしばらくそばにいられる栄誉を俺だけのものにすることを、許して欲しい。……だれに向かってそう言ったのかはわからなかった。恐らく、神様とかそういう超常の存在だろう。
馬鹿馬鹿しいな、と俺は内心で
けれどもそんな俺を知らない先生は、いっそ無垢なまでに美しいまま、熱心に俺を見ていた。「心配」ごとが続けば、先生はそばいいてくれるのだろうか? そんな邪念を抱くが、意気地なしの俺にそんなことができるはずもなく。
その後は他愛のない――しかし俺にとっては大切で、忘れがたい――会話をして、時間が過ぎて行った。
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