(2)

「お前が生まれてきてくれてよかった」


 そんな母の言葉が、その笑顔が、俺は子供心に嫌なものだと感じ取っていた。


 貧しい平民の出の母は、旅芸人の一座の踊り子として王都を訪れた際に、お忍びで下っていた父の「お手付き」となり、俺を産んだ。


「それはそれは貧しい家だった」。母は昔のことをあまり語りたがらないが、口にするときはいつだって忌々しげだった。


「それに比べて今の生活は……」。続く言葉は俺を――王子を産んだお陰で贅沢暮らしができるようになった喜びに、満ちている。


 その贅沢も、地位の高い他の妃と比べればささやかなものなんだろう。手当てはそう多くないのだから。それでも母にとっては、贅沢な生活なのだ。


 しかし幼心に俺はそんな母の言葉にさもしさを感じていた。


 母は母なりに苦労したのだろう。だからこそ今の生活を喜ばしく思っているのだろう。……何度も何度も己にそう言い聞かせてきた。けれども。


「お前が生まれてきてくれてよかった」


 母の言葉を呪いのように感じてしまう俺は、どこかおかしいのかもしれない。


 そう思って生きていたからなのか、今では俺は完全におかしくなってしまっているのは、ご存じの通り。


 慢性的な不眠症に加えて、調子が悪いときはやけにうるさい幻聴がある。幻聴は、いつだって俺を口汚く罵ってくる。


「ミソッカスの王子のくせに、分不相応に出しゃばるから」「お前が生まれてきてくれてよかった」「見ろよ、だれにも顧みられないバケモノの醜悪さを」「お前が生まれてきてくれてよかった」「民草からも見放されて、いったいどこへゆくんだろうねえ」「お前が生まれてきてくれてよかった」「ああ、今やだれしもがお前を恐れている!」「お前が生まれてきてくれてよかった」「わざわざバケモノになった価値はあったか? え?」「お前が……」


 その幻聴は突飛なものもあれば、俺の内なる声なのだろうと思ってしまうこともある。


 いずれにせよ、幻聴は幻聴。だれも俺にそんな言葉をかけたりはしない。今や、この屋敷にいるのは俺ひとりなのだから。


 だれにも顧みられることのなかったミソッカスの王子は、今やだれからも恐れられるバケモノの王子となった。


 俺を見る目はおおよそ人間に向けられるものではなく、みな恐怖に顔を引きつらせて俺を見る。


 当然だ。今は人間の形をしているが、俺は俺が望めばいつだってバケモノに変化へんげできるのだから。


 敵兵の喉笛を食いちぎり、ひと噛みで頭蓋骨を砕き、相手の血肉に身を浸し、敵の国土を焦土へと変える……そんなバケモノにいつだってなれるのだ、俺は。


 しかしそんなバケモノになっても父の愛など得られるはずもなく、母の愛もあきらめた。そう、あきらめた。


 もはや俺が得られる物はなにひとつないのだとあきらめて、公爵領にある小さな屋敷でひとり引きこもっている。書面上でだけ領民を見て……そしてそれ以外の時間はただぼんやりと過ごしていた。


 そこに先生がやってきた。だれかに遣わされたのかはわからなかった。俺にはどうでもよかった。


 先生。俺たちの先生。この国にバケモノを授けた……悪魔の使者。いつだったかだれかがそんな陰口を叩いていた。


 先生がもしこの国に現れなければ、俺は今も人間だったのだろうか? そんな詮ないことを考える。


 何度だってそれは考えた。かつての仲間たちと酒の席で話したりもした。しかしなんとなくだが、結局バケモノにならなければ俺は死んでいた気がするのだ。仲間たちも、一兵卒として死んでいった気がするのだ。


 けれどもしかし、そうであれば、戦没者として……偉大なる英霊として祭られていたのだろうか?


 今のように、まるで臭いものに蓋をするかのように、存在しなかったかのように扱われ、記憶の彼方へ忘れ去られて行くばかりという立場に甘んじることもなかったのだろうか?


 ……結局すべてはタラレバで、結果はわかりもしないのに、考え始めると止まらない。


 俺たちはバケモノになる道を選んだ。半ば選ばされたには違いないが、それでも選んだという事実には間違いない。


 国のために……。そう言ってバケモノになる道を選んだ仲間たち。家族や友人をひとりでも救えるのならばとバケモノになった俺たち。


 けれども今やそれは忘れ去られようとしている。みな、忘れたがっている。


 俺ひとりを除いて。


 ……そう思っていたのだが。


「お前が、生きていてよかった」


 そう静かに涙を流す先生を見て、ああこの人もあのバケモノたちを忘れられないのだなと、悟った。


 俺と同じように忘れられずにいて、心にトゲのように刺さったままの思い出を、必死に抱きしめているのだなと、わかった。


 いつも煙草のにおいを漂わせていたティエリー。


 迷い込んできた白猫に先生の名前を付けて可愛がっていたルイゾン。


 酒が好きで酒があればなんでもできると豪語していたアドリアン。


 猫っ毛でいつも湿気に敏感で雨がくると大騒ぎしていたベルナデット。


 理屈っぽい割には情に厚くてだれかが怪我をすれば率先して助けようとしてくれたエロディ。


 俺の誕生日会を開いてくれたリュカ、ギャスパル、オリヴィエ、マクシミリアン、パトリス、ウジェニー、ミレーヌ……みんな。


 それから……それから……。


 堰を切ったように封じていた思い出が、次々と脳裏でよみがえって行く。


 今はもういない。


 全員死んだ。


 あの戦場で死んで行ったバケモノたち……。


 不意に前線で嗅いでいた臭いがしたような気になって、俺は気がつけば絨毯に向かって嘔吐していた。


 げえげえと朝食に口にした果物を吐き出す俺の背を、先生は無言で擦ってくれる。胃で溶かされかけた吐瀉物の、独特の汚臭があたりに広がる。


 反射で浮かんだ涙で歪む視界に、先生を捉える。しばらく無言だった先生は、ただひとこと「懐かしいな」と言った。


 ……そうだ、以前にもこうして先生に背中を撫でてもらったことがある。


「バケモノになった頃は、みなあちらこちらで吐いていた。……掃除が大変だった」

「……ああ」


 バケモノになった頃は、練習するたびに吐いていた気がする。


 しまいにはミレーヌは吐くのが嫌だからと朝食を抜こうとして、それでまたひと騒動があったりしたものだ。


 最終的には吐瀉物の処分も手慣れたものになった。俺たちも、先生も。


 そうして慣れて行った。……バケモノに、なることに。


「しばらく、ここにいてもいいか」


 先生が淡々と告げた言葉を却下しなかったのは、きっと俺の中でまだ昔を懐かしむ感傷的なものがあったからだろう。


 だれもが忘れ去って、忘れたがっている、バケモノたち。俺のかけがえのなかった仲間たちを、まだ忘れないでいてくれる、先生。


 昔と同じように、また俺に触れてくれる先生。


 それが無性に離し難い気になって、けれども先生に対する怒りや罵った気恥ずかしさがあって、俺はぶっきらぼうに「勝手にしろ」としか言えなかった。

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