バケモノ王子とその先生

やなぎ怜

(1)

「お前が私を殺して、その傷を癒せるのならば、そうするがいい」


 先生の世にも美しい唇から放たれた言葉を理解するのに、少し時間がかかった。


 薬を飲み始めてから――いや、己の精神が病んでしまったときから? 俺は異様に忘れっぽくなり、また他人の言葉を理解するのに難儀するようになった。


 先生はそんなことは知らないだろう。けれども今しがた放たれたその言葉が、俺の脳に心に浸透するのを待つように、じっとみじろぎもせず口を閉ざして待つ。


「――いまさら、身勝手な」


 ようやく俺の口から出てきたのは、そんな言葉だった。


 声は情けなく震えていた。湧き立つような憤怒の情がにじむ声音だった。


 窓から差し込む強い陽光が先生の顔に濃い影を作る。俺の気のせいでなければ、先生は少し悲しそうな顔をした。そこに憐憫があるものと感じ取った俺は、「ハッ」と息を吐き、鼻で笑う。


 先生は笑わなかった。この部屋に入ってからずっとそうだった。あの頃はぎこちなくも薄い笑みを取り繕うことくらいは、したはずなのに。俺たちとの交わりの中で、少しは微笑わらうようになったのに。


 胸中に湧き立つ怒りの念が俺の声を震わせる。


「ならば、今ここで四肢をバラバラに引き裂いてやろうか。――それとも、今この場で犯してやろうか」


 恐ろしげに、唸るように、俺は言う。


 けれども先生は俺の言葉を聞いても顔色ひとつ変えやしない。


 陶磁器のようにつるりとした異様に白い肌と、白い顔に正しく収まった先生の紫水晶のような瞳。一対の瞳は俺をじっと見ている。……憐憫を込めて?


「――っい!」


 ただ湧き立つ怒りに胸を押されるがまま、俺は先生を白い革張りのカウチに押し倒した。先生の喉からは体に受けた衝撃を逃がすように、短い呼吸が漏れる。


 そのまま先生の簡単に折れそうな細い脚を割り、股の間にすりつけるように俺の膝頭を押しやる。


 ……そこまでしても、先生の顔色は変わらなかった。


 それが異様に腹立たしかった。


 まるでお前のすることなどすべてお見通しだとでもいわんばかりの、先生の瞳。俺の心の見通すような、視線。


 俺のすることなど、池に飛び込ませた小石程度も影響はないのだと、そう言われているような気がした。


 押しつぶされそうな不安感を覆い隠すように、俺は先生の手首をつかむ己の手指に力を込める。


 怒りだ。途方もない不安と絶望と――恐怖を覆い隠してくれるのは、燃え立つような怒りしかない。


「俺たちをバケモノにしたのはお前だ。俺たちを戦えるようにしたのはお前だ。俺たちを戦場へと送り込んだのもお前だ。お前が……お前が――」


 言葉は続かなかった。


 自らが口にした言葉で、俺は思い出してしまう。縄でがんじがらめにしたはずの記憶の箱が、勝手に開く。開いてそれは、不安と絶望と恐怖とを吐き出して行く。


 ティエリー、ルイゾン、アドリアン、リュカ、ギャスパル、オリヴィエ、マクシミリアン、パトリス。ベルナデット、エロディ、ウジェニー、ミレーヌ……。


 俺と共にバケモノになった者たち。


 今はもういない者たち。


 国のためにバケモノになる道を選び、そして戦勝後の世界ではもはや二度と顧みられることのない者たち。


 俺は仲間たちの中で……ひとりだけ生き残った。


 ……いや、俺「たち」か。


「ジル」


 先生は一度として俺を「殿下」とは呼ばなかった。徹頭徹尾、先生は俺を「ジル」と名前で呼び、そして他の仲間たちと同等に扱った。先生の前では、世間一般における血の価値なんてものは、なんらの意味をも持たなかった。


 そんな先生の前で、俺は素直に呼吸をすることができた。いつだって息苦しく感じていた離宮の片隅から解放されて、俺の居場所はここにあったのだと思えた。


「ジル」という、特に思いも込められずにつけられた名前を、初めて特別なものだと感じられたのも、先生がその名を何度も口にしてくれたからだった。


「泣かないで……」


 先生のほっそりとした美しい指先が、指の腹が、俺の濡れた頬を撫でる。


 戦争が終わってから、俺の涙腺は壊れっぱなしで、ふとした瞬間にぼろぼろと涙を流しているのは珍しくなかった。


 廊下で棒立ちになってぼんやりと涙を流す俺を、不幸にも屋敷へ雇われた使用人たちは不気味そうな顔をして、見て見ぬフリをする。それが嫌で今ではこの屋敷にいるのは俺ひとりだけだ。


 部屋は荒れっぱなしであちこち埃っぽい。それでもひとりでいる方が幾分かマシだった。


 俺だって大の男なので、泣いているところは見られたくない。特に女には見られたくないという意地があった。


 怒りはたちまち羞恥に取って代わられて、俺は服の袖で乱暴にまなじりをぬぐう。何度も何度も袖の先へ強引に涙を吸わせる。そういうことを繰り返しているから、目元が少し痛かった。


「傷になる」

「それくらい……」

「よくない」


 先生の手がやんわりと俺の手首を下へと押しやった。


 先生の服の胸元にはいくつか水しみができている。俺の涙が作ったものだ。白いシャツの胸元で結わえられた白いリボンにも、水しみがある。


「今日は泣かせにきたんじゃないんだが……」


 俺の中にあった怒りの幾分かは、涙と共に流れて行ってしまった。


 先生は変わらず俺を、その水晶のような感情をうかがわせないまなこで見ている。じっと見ている。……こちらが居心地悪く感じるほどに。


 俺はまた腹を立てながら先生を見た。にらみつけるように先生を見た。ここはお前のいていい場所ではないとでも言いたげに。


 しかし先生にとっては大の男に押し倒され、上からにらみつけられることは、恐ろしいことではないらしい。俺は、そんなことをとっくの昔に知っている。先生に怖いものなどなにひとつないのだと、あの頃の俺は羨望の目で先生を見ていた。


 それでも俺は怒りを纏うことをやめられない。「先生が悪いんだ。そうだ、先生が」。俺はそうやって焚火に乾いた枝をくべるようにして、怒りを増幅させようとする。


「……お前が、生きていてよかった」


 吐息のような先生のつぶやきが、埃っぽく暗い部屋に溶ける。


 先生は泣いていた。無感動に泣いていた。無感情の顔で泣いていた。無表情の目で泣いていた。


 けれども――先生は泣いていた。


「生きていてよかったことなんて、ひとつもない」


 俺の声はみっともなく震えていた。ぶるぶると唇が震えて、まるで吹雪の中に取り残されたかのように、歯の根が合わない。


 そしてひどくみっともない涙が、俺の頬を再び濡らして行った。


「ジル……」


 先生の言葉を聞きたくなくて、俺はその唇を奪った。


 先生の唇は柔らかかった。


 先生との口づけは、しょっぱかった。


 しばらくそうして、何度も角度を変えて先生の唇を貪ったあと、顔を離せば――先生はやっぱり、水晶のような目から涙を流していた。

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