第3話 水面に映る

 黙っていてもお腹が空きます。

 泣いていても眠くなります。

 

 何の為に生きるのか分からなくなっても、人生は続いていました。


* * *


「朝、か」


 ナオが目蓋を開けると、年季の入った宿屋の天井が見えた。


 寝台ベッドから起きて、縁の欠けた手鏡を覗く。

 ナオが映る。


「変なの」


 この世の終わりと嘆き悲しんだのに、もう涙の跡も無い。


―― 私はラルフの為なら死ねたのだ。


 着替えてドアを開ける。


 目的は無い。


 宿から出たナオは雑踏の中に紛れる。

 混沌と人が入り混じる流れを、鮎が清流を泳ぐように進んで行く。


「いらっしゃいいらっしゃい! さっき獲れたばかりの新鮮な魚だよ!」

「こっちはもぎたての果物だよ! 甘くて美味しいよ!」

「さあさあ寄ってらっしゃい! エバンの町名物! 草原大兎の串焼きだよ!」


 鼻を突く匂いに、ナオのお腹が鳴った。

 

「おばちゃん、串焼き二本頂戴」

「あいよ! ハイお待ち!」


 串焼きと革袋から出した銅貨を交換する。


「えらく可愛い嬢ちゃんだね! ここらじゃ見ない顔だけど神官の見習いかい?」


 ナオの胸元で鈍く光る、土の聖霊ヌニトの聖印が少し揺れた。


「いえ。でもまあ、似たようなもの、でした」

「そうかい。ごめんね、余計な事を聞いちまってさ」

「いえ……」

「元気出しなよ! こんなご時勢だけどさ! 魔王だ戦争だって騒がしいけどさ! すぐに良くなるって! はいお詫び!」


 ナオの手にもう一本、串焼きが増えた。


「あ、ありがとうございます」

「あっはっは!」


 ナオはぺろりと一本を平らげて、一本を味わいながら歩いて行く。

 淡白で少し歯応えはあるが、噛むと熱い肉汁が広がって、香草の香りと甘辛いタレが合わさって、何とも言えない程に美味い。


「おいしい……」


 気付けばナオは橋の上にいた。

 食べ終わった串は魔法で燃やした。


「はぁ、この世の全てが面倒臭い」


 石造りの欄干の向こうには河がある。

 火打石のような大きさに見える人が漕ぐ船が幾つも浮かぶ、底の見えない真っ黒な水面みなもが。


―― ふらりと欄干にもたれて、覗き込む。


「いっそ、神器を解放して」


―― 遠くて、水面みなもに揺れ映る自分の顔が、顔無しの化物みたいだ。


「早まるな!!」

「え?」


 河に大きな水柱が立ち盛大な水飛沫が上がった。


 初夏には冷たい河の水の中で。


―― 今日は厄日だな、と思う。


 ナオは水面みなもを見上げながら、目を閉じた。


* * *


 私が十二歳の頃、一人の神官が村を訪れました。

 神官、先生は色々な事を私に教えてくれました。


 滝壺に落とされて、溺れながら頭上から落ちて来る丸太を魔法で斬って斬って斬りまくった後に。


 とても綺麗な川の向こうで死んだおじいちゃんが必死に私に「来るな! こっちに来るんじゃない」と叫ぶ幻影が見えて。

 朦朧とした視界に霞む青空が見えて。

 口から魚を吐き出して、咽る私に向かって、先生は仰いました。


「戦わず楽に生きるのも、正しい事なのですよ」


 ぶっ殺すぞと思いました。


 ……。


 ……。


―― 思い出した。


「空が青い」


 仰向け。


 びしょ濡れ。


 揺れる。


 船の上。


「怪我無いようで何よりだ。夏だからって河に飛び込むたぁ、若いねえ嬢ちゃん達!」


 ハッハッハ、と笑う船乗りのおっちゃん。

 それをナオは横目で見て、一息吐いて、体を起こした。


「ありがとうございます。引き上げて下さって助かりました」

「なあーに、いいってことよ! 綺麗な女を助けるのは男の誉れってな!」

「はは、ありがとうございます」


 昔なら照れていた。

 今は素直にお礼を言えた。

 そう、私はもう小さな少女ではないのだ。


―― さてと。


「本当にすまなかった!!」


 土下座して謝罪し続ける青年にナオは首を横に振った。


「もう十分以上に謝罪は受けました」


 ナオは彼の事を知っていた。


 A級冒険者【ロバート・トンプソン】。

 エバンの町、いやこの地方で『銀の瞬閃剣』と並ぶ魔剣使いの最強の剣士。

 私部隊パーティー『嵐の誓い』を引きいており、こなしてきた冒険とそれにまつわる武勇伝は数知れず。

 その中で特に耳にするのは、ホリフューン王国西の砂漠に現れた冥宮ダンジョンの攻略。


 敵国の王子と競い、彼の妨害を受けながらも深部に辿り着き、遂には最奥の主の討伐に成功する。

 しかも罠に掛かって傷付き倒れた王子を助けた上でだ。


 根は善良で人望も厚い。

 顔が整っており、女性の人気も非常に高い。

 嘘か真か、部屋一つを埋める程の恋文が毎日届いている、とも。


「けど、俺が」


 ナオは言葉に詰まるロバートの顔を見る。

 そして噂通りの、善良な人だと思った。


「では一つ、私の依頼を受けては頂けないでしょうか?」


 しばらくナオは忘れていた。

 ラルフに拒絶されて、何も考えられなくなっていたから。


 でもナオは思い出した。

 氷河より始まる、初夏でも冷たい、河の水で頭どころか全身を冷やされて。


―― 怒りという感情を。


(もう一度、ラルフと会う)


 グーで殴る。


(いや、それだけじゃ足りない。私は全てを捧げたのだ。女になったのだ)


 更にグーで殴って。


 山ほどの慰謝料を請求してやる!!

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