贖宥状
せっか
本文
私のもとに、贖宥状が届いた。届いた、というのは少し正確ではないかもしれない。穏やかな日曜日、開け放った窓際で本を読んでいると、はらりと一枚の紙が空から落ちてきて、栞の如く本に挟まったのだ。ふと窓の外を見てみると、そこには羊皮紙の束が静かに置かれていた。
栞のごとく舞い落ちてきた紙には「あなたの罪状は同封の羊皮紙に全て著してあります。私は全ての罪状においてあなたを赦します。」とあった。残念ながら中世ヨーロッパにあったようなああいう贖宥状ではないみたいだ。
贖宥状には小さく名前が二つ、おそらくこの贖宥状を書いた者の名前と、贖宥を受ける罪人のものであろう名前が記されていた。どちらも私の名前ではない。私には何の関係も利益もないようだ。
しかし、今読んでいた本ももう五周目であり、今日は特に予定もない。暇は腐るほど持て余している。
ひとまず、罪状とやらを読んでみることにしよう。
「私はあなたを赦します。
おそらく此の世であなたを断罪できるのは私だけです。如何なる者も、法も、倫理も、あなたを裁くことは出来ないでしょう。しかし私は此の世で唯一それをできる権利を、そして義務を持っているのだと思います。ですから、僭越ながら私はあなたを断罪し、裁き、そして赦すことにしたいと思います。
あれはいつ頃の出来事だったのでしょうか。もうはっきりと日付を覚えてはいませんが、冬の足音が聞こえ始めた頃、凍えるような風の吹く、零雨の日だったと思います。
あの日、あなたと私は初めて出会いました。運命だったのだと思います。私たちは華の高校生でしたね。学校帰り、公園の前に差し掛かった私は、なぜでしょうか、どうしてもその公園に寄らなければならない気がしたのです。雨の日の公園に当然人などいるはずもない、と心の中で思っていたのでしょう。引っ込み思案な私ですが、その時は人目というものを考えず、公園へと入っていきました。
そこにあなたはいました。屋根のついたベンチで、一人本を読んでいましたね。
私は傘を畳み、あなたがいる屋根の下へと入っていきました。傘は外界との境界線となり、自分だけの世界を作ってくれるものです。きっとベンチの屋根はその時、私たちの傘になっていたのでしょう。初めて会った気はしませんでした。後にあなたもそうだと言っていたことを思い出します。
何を読んでいるの? と私は訊きました。すると、あなたはずっと昔からそう訊かれると知っていたかのように、さあね、当ててみたら? と言うのでした。
その時、きっと私は国語の参考書だとか、何ら面白みのない事を言ったと思います。当時の私はとても下らない人間でしたので、その程度の事を言う能しか持ち合わせていなかったのです。
そして、あなたに参考書などいらないと言われて、私は初めて独断の微睡から目覚めました。そこに私は運命を見出しました。あなたも私に見出してくれていたのでしょうか、運命という名の魔法を。
結局あなたが読んでいたのは『自殺方法大全』なる本でした。なぜか私は驚きもせず、あなたに内容を訊ねていました。すると首吊りのときは窒息じゃなくて頸椎を骨折させたほうが楽で早いとか、
私もあなたも社交的な人間ではありませんでしたが、運命が私たちを結び付けるのに長い時間は要しませんでした。雨が上がり、空に虹がかかるころには、私たちはすっかり仲良くなっていたのです。
それから、私は雨の日になると決まってあの公園に寄るようになりました。もちろん本を持ってです。いつもではありませんでしたが、時々あなたが例のベンチにやってきて、一緒に本を読めるのが嬉しかったのです。その頃、私は背伸びをして、カフカのアフォリズムなどを読んでいましたが、それを見たあなたが同じ本を読んでくれて、一緒に話が出来たこと、今でも覚えています。
そしてある零雨の日、あなたは私に連絡先を教えてくれました。嬉しくて飛びあがった私を、あなたは可愛らしいと言ってくれました。それからは雨の公園以外でも、休日なども一緒に過ごすようになりました。
大学受験はとても苦労しました。あなたが優秀すぎるから、しかし私はあなたと同じ大学に行きたかったから、必死に勉強しました。最初のうちは高望みでしたが、あなたに勉強を教えてもらったおかげで、高望みをなんとか叶えることができました。
入学後、私たちはふたりで過ごすことがますます多くなりました。お互い友人もあまりおらず、特にあなたは趣味の合う友達などいなかったでしょうから、当然の成り行きと言えるでしょう。
大学入学後もあなたは定期的に『自殺方法大全』を読んでいました。私がある本を読み始めると、あなたも同じ本を読んでくれるのですが、そしてなぜか私より早くそれを読み終わってしまうので、きっと私が次の本に行くまでの間で『自殺方法大全』を何度も読み込んでいたのでしょう。
どうしてそんなに繰り返しその本を読むのか、そんなに心に残る箇所でもあったのか、と私はあなたに訊いたことがあります。あなたは、読む理由も心に残る箇所もないと答えましたね。さらに私が、ではなぜ読むのかと問いただすと、あなたは、何もないから読むのだ、と答えました。自殺というのは即物的に済んでしまい、実行した後に反省する必要もなく、ただ生物学的な死の手解きが標本のように並んでいる『自殺方法大全』を読んでいるときは、何ら考える必要はない、考えなくて良いというのは非常に楽なんだ、と。
その当時、あなたにとって死とはその程度のものだったのでしょう。いえ、そうでなければおかしいのです。いえ、より正確に言えば、今の私は、せめてあの時のあなたにはそうであって欲しいのです。そして出来ればずっとそのままでいて欲しかった。この点では、あなたを断罪せざるを得ません。
ともかく、そのような日々が続きました。私はそれを安寧と捉えていました。皮肉の意味では全くなく、心の安寧。平穏と言い換えてもいいかもしれません。安寧は何よりも尊いものです。少なくとも私はそう信じています。
しかし、安寧は突然に奪い去られてしまうものです。誰に、と問われれば神にと答えるより他はありません。恐らく神が人間を作ったのならば、その時にドラマツルギーをひっそりと埋め込んだに違いありません。安寧は突然に消える、と。他人はおろか自分の手でさえも届かない、暗く狭い深淵の底に。
原因はちょっとしたすれ違いだったと記憶しています。もしかするとあなたにとってはちょっとしたでは済まない事だったのかもしれませんが。しかし私は思います。これはどっちが悪いとか、そういう単純で
私は、あのようなことがそんな無益なゴシップとして消費されるなんて真っ平です。ですから、今回はあのことについて語るのはよそうと思います。あのことについて何か確定した見方を提示するのは難しいですが、しかし私たち双方に罪はないと確信しています。罪がないのならば私には断罪のしようも贖宥のしようもありません。
とにかく、大事なのは、あのことによって安寧が奪われたということです。それもあまりにあっけなく、あまりに突然に。
あなたは変わってしまいました。そして私は変われませんでした。ここが優れた者と劣った者の分かれ目だったのでしょう。
あなたは優秀すぎたのです。
あなたは賢すぎたのです。
あなたは
そして、あなたは多感すぎたのです。
此の世で、
そのようなあなたの生来の気質を断罪します。そして直ちに赦します。私にはそれ以外にどうしようもありません。
私のほうがよっぽど被造物の面構えをしていたと思います。深遠な考えなども持てず、ただ泣き、ただ笑い、酔ったように生き、安寧など望み、運命の殺し方も自分の殺し方も知らなかったのです。
それなのにあなたは泣きませんでした。笑いませんでした。自分に酔うことも此の世に酔うこともなく、しかし一つの考えを秘めていました。今になってようやくあなたの秘めていたものがわかりました。それは罪悪感でしょう。
私はあなたを断罪します。この流れであればあなたはもっと深遠で、
私は何度でもあなたを断罪します。とても赦し難いことです。しかし私は赦します。もう失って惜しいものなど何一つないからです。
あなたはいきなり連絡を絶ちました。私を喜ばせたあなたの連絡先も、肝心な時には全く役に立ちませんでした。
あなたと急に一切の連絡が取れなくなって三日後、私はついにあなたが一人暮らしをしているという家の窓ガラスを割って、勝手に家に入りました。そこで私は見つけました。自殺して抜け殻となってしまったあなたの残滓を。
その時、私にはあなたが選んだ自殺方法がわかりませんでした。あなたは眠るように目を閉じて、微笑みを湛えて穏やかに死んでいたのですから。遺体の収容や警察の捜査などがひと段落着いた後、とは言っても死んだあなたを見つけて一週間も経っていないでしょうが、私は『自殺方法大全』を買い、あなたの自殺方法を自分で調べてみました。警察の人に死因を訊ねましたが、警察でも自殺方法がわからず、そもそも自殺なのか他殺なのかすらわからず、心臓麻痺による事故死で片付けるしかない、と言われたからです。しかしあなたのように綺麗に逝く方法など、本を隅々まで調べてみても、どこにも載っていませんでした。悲しくなり、つらくなり、虚しくなった私は自分で買った『自殺方法大全』を燃やしてしまいました。
それから二年の月日が過ぎ、私はあなたのお母さんに呼ばれ、あなたの遺品を見せてもらいました。つい昨日のことです。
遺品の中には『自殺方法大全』がありました。あなたのお母さんは親切にも、遺品の中で欲しいものがあったら持っていっても良い、いや、うちの子と仲良くしてくれたあなたにこそ持っていってほしい、と言ってくださいました。ですから、私はあなたが遺した『自殺方法大全』を持って帰ることにしました。
それで先ほど、つい先ほどです、あなたの自殺方法をもう一度調べてみました。やはりそんな項目は載っていませんでした。目次にも索引にもありません。しかし、私は本の一番後ろに羊皮紙でページが加えられていることに気づきました。そこにあなたの自殺の謎の答えが書いてあったのです。
『君への罪悪感を殺すには、私自身を殺さねばならないみたいだ。
そのために、世界で唯一自分だけが選べる自殺方法を以下に提示しようと思う。
祈死:せっし
祈りによって自らの命を絶つ方法である。この方法を選ぶにはいくつかの条件を満たさねばならない。
① あなたが、刑事責任を負えない、しかし決して赦されることのない罪を犯していること
② あなたがその罪を償うために、命を捧げる相手がいること
③ あなたが此の世で最も救いようのない愚か者であること
以上のような制限は非常に厳しいものであろう。この条件を全て満たした者がいるとしたら、それはある意味奇跡である(とはいえ失われて困ってしまう程の奇跡ではないが)。
では、この自殺方法の具体的な手順を以下に示す。
① 落ち着ける場所で横になる
② あなたの人生で最高級の笑顔を作った後、それを穏やかな微笑みに変える
③ 微笑みを保持したまま、償うための命を捧げる相手を強く想起する
④ その相手に感謝と謝罪を述べる
⑤ まだ生きながらえている自らの命を嘲笑い、心の底から死のうと強く思う(この時点で未練が残っているようならば、①~④の手順を十分に完了できていないと考えられるため、最初からやり直す)
⑥ 意志の力で命を絶つ
以上で説明は終わりである。筆者がこの項目を執筆している今、この方法で自殺に成功した者はいない。しかし安心してほしい。あなたがこれを読んでいるころには、筆者は既にこの方法で自殺に成功しているに違いない。また、この自殺方法の条件を満たせる者も筆者以外に存在しないだろうから、安心してこのふざけた自殺方法を笑ってほしい。この項目は、哀れな人間の戯言と思って流してくれて構わない。』
私は断罪します。強く断罪します。しかし赦します。いえ、赦しを、贖宥をあなたに与えます。私の命を贖宥にして、あなたの魂に与えます。
あなたが死んだ時からずっと、私は自分が自殺する方法を考えていました。あなたのように死にたかったのです。しかしずっとその方法が見つからずに、今日までのうのうと生きてきてしまいました。此の世に恥を振りまいてきました。生き恥とはまさにこのことです。しかし、私は此の世で最も、過去に存在した人間も含めるならばあなたと同率で、最も適した自殺方法を見つけることができました。
条件は見事に全て満たしていました。おそらくこの方法を知るまでは何一つ満たされていなかったのでしょうが、知った途端に全てを完璧に満たすことができました。私は、この方法では世界で二人目の、そして最後の自殺成功者になろうと思います。
こんな方法で人間が命を絶てるとは思いませんが、あなたにできたことなのです。きっと私にもできるでしょう。
私は自分を断罪できません。罪悪感とは自らを断罪した気になるように、人間を酔わせる美酒だからです。ですから、もしこれを見た方がいたら、是非とも私を断罪してください。しかし無関係の人に赦す権利はないでしょうから、断罪を終えたら、赦しなど与えず、そのままにしておいてください。」
贖宥状 せっか @Sekka_A-0666
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