そのネタ、ズレてますよ?
栗堂
ある種定番と化した暗鬱な学園モノの題材に対して。
いじめを題材とするような作品を見かける時に感じる事。
定番として、覚えてる被害者と忘れてる加害者とあるが、合理的に考えてなんで加害者が覚えてると思った?
加害者が覚えていない事が被害者からの復讐の根拠となり、物語が展開されていく。
いやいや、被害者全部が加害者に対して罪の意識を覚えてるはずなんて思わないでしょ?
だって、覚えてるはずだよ?
加害者は楽しそうにしていた事を。
子供の頃の記憶、特に遊びの記憶の中で細かい事覚えてる?
かくれんぼや鬼ごっこをした時、なかなか鬼から代われなかった子供が怒っていた事とか。
覚えてないでしょ?
つまり、そういう事。
いじめというのが、遊びの一部であり、それの対象だったと被害者が怒っていたところで、役回りとしてそうなっただけで、加害者は罪の意識なんか覚えない。
鬼ごっこの鬼に対してそうであるように。
いじめは良くない事。
確かに学校とかでは教えられる事かもしれないけど、それ以外にもやっちゃイケナイ事とか教えられる事でも、フツーに皆やってる事だし、別に死ぬような事やってないし、大した事してないからダイジョブでしょ?
だって、遊びなんだもん、皆楽しんでやってる事だもん。
ウン、こんな事があるから、いじめって問題はなくなる事はないし、子供たちだけの問題でもない。
それがワカランと、逆恨みと加害者から思われるだけで、罪の意識に囚われるコトはない。
なんだったら、他愛ない冗談に過剰反応したイカれ野郎に迷惑かけられた被害者であると思うだけだ。
そんな加害者連中にいちいちかまってられるか?
大多数のいじめ被害者はこう思うだろう。
「二度とかかわりたくない」
学校を卒業し、実家も離れ、生まれ育った土地から遠く離れたトコロで新しい社会生活がはじまった。
新しい人間関係と、今まで経験の無い社会人としての様々な出来事。
そんな中で元クラスメートからの電話があった。
学生時代の頃の自分が刺激を受けたモノはたくさんあるが、学生生活そのものには思い入れが薄いため誰なのかまったくピンとこなかった。
だからだろう、電話の相手は怒ったらしく、「もういいよ!?」の一言を残し二度と電話をかけてくる事はなかった。
正直なトコでホッとしたのだ、相手はいじめ加害者ではなかったが。
縁が切れた関係性ではあったが、学生時代のつながりがまた結ばれるというコトは、そこから加害者とのつながりが生まれる懸念があるからだ。
「二度とかかわりたくない。」
この言葉がいじめ問題を聞くたびに、自分の中で確固たる信念としてあるモノだ。
そして思う。
そこから、いじめ加害者への復讐へと走った人はナゼそういう結論に至ったのだろうか?と。
学校が世界の全てではない、これはよく言われるコトだ。
だから、カウンセラーは時として、学校から逃げるコトを進めるトキがある。
平成に入るぐらいまでは、そんなコトは誰もすすめるコトはなく、追い詰められて悲劇的なラストを迎えるコトもしばしばあった。いや、今も現在進行形で悲劇を選んでしまう子供達がいる。
そのニュースに接するたびに胸を襲う痛みは学生時代と同じようにやってくる。物理的な傷では訪れない、生々しく表現しようとすれば本質を見失うような、独特の重苦しい痛みだ。
その痛みに耐え、学生時代を生き残り、社会に出るとクラスメート間にあったヒエラルキーの無意味さに気付かされる。
仕事上での上下関係、先輩後輩であるとか、上司と部下であるとか、明確な会社のルールの上で仕事という成果の差という部分からくるヒエラルキー、そこには納得ができる部分がある。
だからこそ、上の人間には従うべきだし、会社組織、さらには社会全体として秩序へとつながっていくと理解させられた。
(蛇足であるが、社会生活が長くなれば、能力が自分より劣る上司や横暴な経営者というのも経験して、正しい評価とか、会社組織とか、不満に感じる理不尽もあるが、ココでは割愛、話が進まなくなるので)
クラスメートはナゼ上から目線で自分をターゲットにできたのか?
テストの成績か?
運動できないから?
それらで負けていたという客観的な事実はない。
それなのにナゼ、クラスの中で下の階層の人間だと設定されたのか?
生意気だから?調子にノっているから?
それこそ理解できない。
ナゼその評価を同年代の子供にされねばいけない?
先輩が言っている?
その先輩もたかだか1、2才程度の差しかない未成年の子供で社会的な信用がない年齢だぞ?
こういったコトを考えられるようになるのは「大人」の「特権」ではなく、「特性」かな?
社会人になってからも、なんらかの失敗するコトはある。そして、ソコで経験を得る。
よほどのコトでなければ失敗はリカバリーできる。
どうしようもなく、その職場を辞める場合もあるが、別の職場で再起するコトもできる。
死ぬまで人生は続くのだから、よほどのコトがなければ、失敗した後の日々は続いていくのだ。
そんなコトを続けていけば、学生時代のコトなんて忘れていってしまう。
人によっては「勝ち組」と言われるような人生を送るコトになる人もいるだろう。
学生時代では得るコトのなかった人間関係から様々な出来事があり、人生を謳歌する。そして、その流れに学生時代の人間関係がまったく無ければ、学生時代の友人達など再会する機会もないかもしれない。
自分にメリットのない同窓会の通知がきたとしても不参加の返答を送っておしまいだ。
今の人間関係が大切であるから思うだろう。
「二度とかかわりたくない。」
残念ながら、自分は一般的な尺度であれば「負け組」である。
いろいろと目指したコト、叶えたいと思った人生の目標。そういったコトはあるが、はっきりとしてるのは、それらの多くに失敗したというコト。
最低限、ほんとに最低限であるが、衣食住が揃い、趣味にお金を使える。そんな生活をおくれる収入ぐらいの仕事はやっている。
端からみたら「下流」と呼ばれるような生活。
そこから上を見上げるコトがある中で不満とか理不尽とか、自分の中に降り積もるモノがあるから余計に思う。
「いじめ加害者へとナゼ復讐しようとしたのか?」と。
いじめ加害者への復讐の動機として、不遇な日々を嘆くコトがある。
多くのメディアが犯罪の理由としての「人間の闇」を欲し、それらの分かりやすく得られる情報の一つに学生時代のいじめがあるからだろう。
学生時代が終わり、社会にうまく対応できなかった人生の原因を学生時代の人間関係に押し付け、その原因を作り出したいじめ加害者へと求める。
構図として分かりやすけど、そのストーリーラインに沿って犯罪者へと至る人間はどれほどいるのだろう?
加害者にとっては遊びの一種である行為が、被害者にとっていじめと感じる行為であるため、日常的に多くの学校で行われている。それこそ、昼休みに鬼ごっこやって遊んだ程度の話として。
そんな経験者はごまんといるだろう。一度きりでその場限りの遊びであるモノも含めれば。
そう考えると、いじめ加害者への復讐というのは被害者の数に対して非常に小さな割合の選択肢だと思える。
だから、多くの被害者は、
「二度とかかわりたくない。」
という選択肢を選んでいるのだろう。
だから思うのだ。そんな特異な選択肢を選んでしまった人の心境を。
学生時代だけでは語れない、復讐までの年月の中で積み重ねられた人生というヤツを。
理解し難い結論に向かうまで、何を見て、どう感じたのかを。
そして、安易にいじめ問題を題材にした復讐劇における被害者の代弁という部分に、
「そのネタ、ズレてますよ?」と。
そのネタ、ズレてますよ? 栗堂 @marondoh
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