家族
「サキ、もう寝る時間だぞ。父さん今日は遅くなるって言ってたから、待ってなくていいぞ」
「うん、分かった。おやすみ周兄ちゃん」
台所で夏休みの宿題をしていた咲子は立ち上がった。
「ああ、おやすみ」
食器を洗いながら、周は明仁のことを考えていた。いや、明仁たちのことを考えていた。
今日の登校日、明仁は来なかった。淳の話だと、飛び降りた際の怪我は酷くはないが精神的なダメージは大きいらしい。
……ちくしょうっ!! 周は心の中で毒づいた。京一が大型トラックに轢かれて入院中、淳は来週この街を出て行く、そして明仁の自殺未遂と、多くのことが一度に起き過ぎていて、彼は整理がつけられないでいた。
「周兄ちゃん?」
「あ?」
振り向くと、咲子がクマのぬいぐるみを抱いて立っていた。
「くまさんの手が取れそう……」
「ああ、でもおまえ自分で裁縫出来るだろ?」
「うん。でも周兄ちゃんの方が上手だし、くまさんの手ちゃんと治してあげたいから……」
「……分かったよ。これが終わったらやっとくから、もう寝ろ」
周は妹の頭を軽く撫でてやる。
「うん! ありがとう! くまさん良かったねー! おやすみー!!」
咲子はクマのぬいぐるみを周に渡すと、部屋へ駆け足で戻って行った。
母親を幼い時に亡くしているせいなのか、家での咲子はとても甘えん坊だった。
周は食器を拭き終えると、それらをきちんと棚に戻した。素早く手を洗って、クマのぬいぐるみを手に取ると、裁縫箱の置いてある自分の部屋へと向かった。
そのとき、カチャリと玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
「お帰り父さん。あれ? 今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「ああ、その予定だったんだが、意外に早く片付いたんだ」
父親は陽気な笑顔を見せる。
「おとーさん! お帰りー!」
咲子が部屋から飛び出し、父親の足にしがみついた。
「おお、サキ! まだ起きてたのか?」
「うん! 今寝ようとしてたところだよ!」
「サキ! もうとっくに寝る時間だろ?」
クマのぬいぐるみを空いている椅子の上に置くと、父親にお茶と温めなおした夕食を運びながら、周は時計を睨んだ。
時計の針は既に八時二十四分を指していた。
「うん……でもお父さんともっと話したいよー。あと十分だけお願い、周兄ちゃん!」
「おお、そうか。そうか。お父さんももっとサキと話したいなー。あと十五分だけお願い、周兄ちゃん!」
父親と娘は一緒になって唇を尖らした。
「父さん……分かったよ。でもあと十分、十五分じゃないよ」
「やったー!!」
「やったー!!」
二人は顔を見合わせると、手を叩いて喜んだ。そして素早く席に着くと、話し始めた。
周はそんな二人の様子に首を振りながら、裁縫箱を取りに行った。
「学校はどうだ? みんなと仲良くやってるか?」
「うん! おとーさんに言われたとおりに、下の名前で呼んでもらってるよ」
「おお、そうか! で、もっと仲良くなれたか?」
「うん!」
「一番のお友だちは誰かな?」
「りょうちゃん! 」
「ようちゃん? 誰だ?」
「もー! りょうちゃんだよ!」
「おお、りょうちゃんか! で、誰それ?」
「佐々木さん家のりょうちゃん! この前も話したでしょ!」
「はっはっはっ!! そうかそうか。で、どんな子だっけ?」
「うん。すごくいい子だよー、でもよく深水くんと喧嘩してる」
「深水くん……おお、咲子のお気に入りだったな」
「違うよー!」
「はっはっはっ!!」
「もーお父さん、真面目に聞いてよー!」
二人の会話を周は隣の部屋で裁縫をしながら聞いていた。仕事で疲れているはずなのに、いつも咲子や周の相手をしてくれる父親を、周は大好きだった。
「痛てっ」
裁縫針が周の人差し指に刺さった。そこから赤黒い液体がゆっくりと姿を現す。それは、周に路地裏で見た小さな血だまりを連想させた。
周は血がつかないようにクマのぬいぐるみを慎重に脇へ置くと、洗面所で指を洗おうと立ち上がった。
すると、背後から父親が声をかけてきた。
「まだまだ残暑が厳しいですな。ところで学校は楽しいですか?」
父親は神妙な表情を浮かべている。
「え? ああ……そう、ですね。ま、まあまあ……」
周は質問の意図が解らないまま曖昧に応答する。
「はっはっはっ!! なーんちゃって! 今の似てただろ? なあ、サキ? 今の似てたよなー?」
父親は子供のように無邪気にはしゃいでいる。
周はそこで初めて、今のが最近テレビドラマに出演している人気俳優の物真似だと、気がついた。その俳優は何か質問をする時、必ず初めに天気の話を入れるのが癖だった。
「あ、ああ。うん、似てるよ」
「どうした周? なんだか元気がないようだが? 学校で何かあったか?」
一瞬、父親の眼が真剣になった気がした。
「い、いや、何もないよ……」
周は狼狽えている自分を必死で隠した。隠しながら、同時に父親に相談したい衝動にも駆られた。
「本当に?」
「本当に?」
いつの間にか咲子が父親の隣に来て、父親の真似をしていた。
「サキ!!」
周がわざと怖い顔を作ると、咲子と父親はわーっと声を上げて居間の方へ逃げていった。そんな二人をあきれ顔で見送ると、彼は洗面所へ行き、既に血が固まりかけている指を石鹸で洗い始めた。
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