第八章

第1話

「由弦さん。由弦さん……起きてください」

「うん……?」


 天使のような可愛らしい声に起こされた由弦は、ようやく目を開けた。

 目を開けるとそこにはやはり、天使のように可愛らしい女の子がいた。

 由弦の婚約者、雪城愛理沙だ。


「……愛理沙? 今日、泊まる日だっけ?」

「何を寝惚けているんですか」


 由弦の問いに愛理沙は呆れ顔を浮かべた。

 そしてため息をつく。


「今日は授業でしょう? 単位、落とさないでくださいよ?」

「授業……単位……うわぁ!! 愛理沙、今、何時だ!?」


 愛理沙の言葉に由弦は慌てて飛び起きた。

 辺りを見渡し、時計を探す。


「十一時半です。歯を磨いて、顔を洗って来てください」

「あ、あぁ……分かった!」


 由弦は慌てて洗面台に向かう。

 歯を磨き、顔を洗い……そしてタオルを持って来ていないことに気付く。


「すまない、愛理沙。タオル持って……」

「はい、これ」


 愛理沙はそう言って由弦の顔にタオルを掛けた。

 いつの間にか由弦の背後に立っていたのだ。

 由弦は受け取ったタオルで顔を拭く。


 そんな由弦に愛理沙は小さくため息をついた。


「慌て過ぎです。あと、一時間もありますよ。落ち着いてください」

「わ、悪い……いや、ありがとう」

「寝癖も直してくださいね。着替えと筆記用具は準備しておきますから」


 そう言って愛理沙は洗面台から立ち去った。

 由弦はあらためて自分の頭を確認した。

 なるほど、確かに所々跳ねているところがある。


(これくらいなら、ワックスで……)


 適当に付ければ誤魔化せるのでは? 

 と脳裏は過ったが、愛理沙はいい顔はしないだろう。


 由弦はしっかりと髪全体を水で濡らし、ドライヤーで乾かした。

 それからワックスで軽く形を整える。


 洗面台から離れ、リビングへと向かうとすでに愛理沙が待ち構えていた。

 両手には服を持っている。


「お待たせ。……準備、ありがとう」

「ようやくカッコよくなりましたね」


 愛理沙は由弦にそう言いながら服を渡した。

 由弦は服を受け取ると、寝間着替わりのジャージを脱ぎ始める。


「ちょ、ちょっと……! いきなり脱がないでください!」


 愛理沙は顔を仄かに赤らめながら叫ぶように言った。

 由弦は思わず苦笑する。


「別に良いじゃないか。同棲している仲なんだし。下着の中身だって……」


 由弦は思わず悲鳴を上げた。

 愛理沙は由弦の足を踏みつけたからだ。

 

「朝から変なことを言わないでください!」

「いや、今はもう昼……」

「よく分かっているじゃないですか。早く着替えてください」

「だから今、着替えようとしたんじゃないか」


 由弦は文句を言いながらもリビングから出て、素早く服を着た。

 それから服を洗濯籠に入れて、再びリビングに戻る。


「これでいいかな?」

「はい。こちら、筆記用具が入ったカバンです。中身、確認してください」

「うん。……問題ない。何から何まですまない」

「利子付きで返してください。あと、こちら。朝ごはん……というよりは、昼食ですけど」


 愛理沙はそう言ってラップに包まれたおにぎりを由弦に渡した。

 数は一つだけだが、やや大きめに作られている。


「最低限、食べないと頭が動かないでしょう? それを食べたら出ましょう」

「ありがとう。うん、相変わらず美味しい」


 高校生の時から婚約者の料理が美味しいのは変わらない。

 もっとも、味は同じではない。

 出会ってから四年と半年の月日が経過した今の方が味は進歩している。


「おにぎりなど、誰が作っても変わらないと思いますが……」


 などと言いながらも、愛理沙は嬉しそうに頬を緩めた。

 こういう照れ方をするのも、昔と変わらない。


「ごちそうさま」

「お粗末様です。……では、行きましょうか」

「ああ、行こう」


 こうして由弦と愛理沙はマンションを出て、大学へと向かった。






 高校卒業後。

 由弦と愛理沙は無事に大学へと進学した。

 今は同じ大学、同じキャンパスに通い、そして同じマンションに住んでいる。

 違うのは学部くらいだ。


 三限目、四限目、五限目での授業を終えた由弦はキャンパス内にある図書館に向かった。

 そしてすでに四限目で今日の授業を終えているはずの婚約者を探す。

 幸いにも目立つ容姿をしているため、すぐに見つかった。


「お待たせ。待ったかな?」


 愛理沙は丁度、ノートパソコンで何かしらの作業をしていた。

 側には本が積まれている。


「いえ、私もレポートを書いているところでしたから。それも今、終わりました」


 愛理沙はそう言ってノートパソコンを閉じ、立ち上がった。


「じゃあ、帰りましょう。途中でスーパーに寄ってもいいですか?」

「もちろん」


 二人はそのまま図書館を後にする。

 そしてキャンパスを出ると、真っ直ぐに帰らず、近所のスーパーへと向かった。


「今日は迎えに来てくれてありがとう。おかげで助かったよ」


 道中、由弦はあらためてお礼を口にした。

 高校生は皆、同じような時間割、カリキュラムだが大学では人それぞれ異なる。

 今日は由弦は三限目から五限目で、愛理沙は二限目から四限目だった。


 昼からだし大丈夫だろうと高を括り、寝坊した由弦を、愛理沙はわざわざ迎えに来てくれたのだ。


「どういたしまして。……私が寝坊した時は起こしてくださいね?」


 愛理沙は笑いながらそう言った。

 由弦は苦笑しながら頷く。

 愛理沙が寝坊する姿を想像できなかったからだ。


 それから二人は今日の授業内容や、最近のサークルでの活動など、他愛もない話をし……

 気付くとスーパーに辿り着いた。


「今日は何にする?」

「ビーフシチューとか、どうですか?」

「いいね」


 献立も決まり、二人は必要な食材をカゴに入れていく。

 牛肉、マッシュルーム、玉ねぎ……そして赤ワイン。


「あれ? 愛理沙……それを使うのか?」


 由弦は愛理沙がカゴに入れた赤ワインを見て、首を傾げた。

 もちろん、ビーフシチューに赤ワインを使うことくらいは由弦も知っている。

 しかし愛理沙がカゴに入れた赤ワインは、料理に使うにしては価格が高めだった。

 普段はもう少し廉価な料理用ワインを買っていたはずだ。


「これは飲む用です」

「……飲むんだ」

「はい。レポートも終わったので」


 愛理沙は上機嫌な様子でそう言った。

 愛理沙も、そして由弦もすでに二十歳を過ぎて成人している。


 お酒を買ったり飲んだりしても問題ない年頃だ。

 法律的には問題ない。

 そして明日は土曜日……二人とも授業はないので、飲酒しても何ら支障はない。


「何か問題が?」


 由弦の反応に違和感を覚えたのか、愛理沙は首を傾げながらそう尋ねた。

 由弦は大きく首を左右に振った。


「いや、別に……。飲むならチーズとか生ハムも買っておこうか」

「いいですね。あと、明日の献立の分もまとめて買いましょう」


 二人は必要な物を買い、会計を終えるとマンションへと帰った。



「じゃあ、早速作りましょう。……手伝っていただけますか?」

「もちろん」


 こうして二人は夕食を作り始めた。


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