第7話 “婚約者”のお願い

 愛理沙の家に行く前に、まずやらなければならないことがある。

 由弦は携帯で天城直樹に電話をかけた。


 仕事中に電話を掛けたことへの謝罪。

 そして愛理沙が風邪を引いていること。

 様子を見に行くため、家に入るが許してほしい。

 看病のために台所を一部、使わせてほしい。


 と四点を直樹に伝えた。


『ああ、大丈夫だ。……すまないね、由弦君。娘をよろしく頼むよ』

「いえ、愛理沙は僕の“婚約者”ですから」

『……ところで、由弦君』

「はい。……何でしょうか?」

『由弦君は……愛理沙のことを、どう思っているのかな?』


 急に何を聞くんだ?

 と由弦は思わず、首を傾げた。


「大切な人だと、思っています」

『……ふむ、そうか。いや、すまない。変なことを聞いたね』


 直樹も仕事中ということもあり、あまり長話をするわけにはいかない。

 後で愛理沙の体調については伝えることにして、電話を切った。


 直樹の許可を得た由弦は、愛理沙の家へと向かった。

 インターフォンを鳴らし、自分が来たことを伝える。


 しばらくするとドアが僅かに開いた。


 玄関には寝間着と、その上に上着を羽織った愛理沙が立っていた。

 普段は綺麗に梳かされている髪は僅かに乱れている。

 顔半分はマスクで隠されているが……顔色があまり良くないことは分かる。


「おはよう、愛理沙」

「おはようございます……ごほっごほ」


 愛理沙は咳をした。

 あまり冷えては良くないと考えた由弦はすぐにドアを閉めてしまう。


「すまない、起こしたかな?」

「いえ、大丈夫です……」


 一先ず、由弦は愛理沙に案内される形で彼女の部屋まで赴いた。

 

(あまり体調は良くなさそうだな)


 気丈に見せてはいるが、足取りは少し覚束ない。

 一先ず今日一日は一緒にいた方が良いだろうと由弦は判断した。


「ここが私の部屋です」


 愛理沙の部屋を見るのは、初めてだった。

 ややこじんまりとはしているが、インテリアなども可愛らしい。

 とても女の子らしい部屋だった。


 もし愛理沙が病気でなければ、由弦も少しは楽しめただろう。


「そうか。場所は覚えたよ。一先ず、君は寝てなさい」

「……はい」


 やはり愛理沙も辛かったらしい。

 素直にベッドの中に潜り込んだ。


「病院は行ったか? その様子だと、行ってないみたいだけど」

「……いえ、行ってないです。げほっ……三十七度くらいなので、大丈夫だと思います」


 そう言う愛理沙は……正直なところ、あまり大丈夫そうには見えない。

 とはいえ、三十七度程度ならば、すぐに病院に行かなければならないというほどの緊急性はないだろう。


「……ところで、昼食は食べたか? まだなら、レトルトのお粥とか、桃缶でも買ってこようと思うけど」


 お粥を手作りすることはできないが、レトルトくらいならば由弦でも何とかなる。

 もっとも、もしこの家にすでに常備されているならば、それを開けても良いが。


「ん……まだです。買ってきて頂けると、助かります。そういうの、この家にはなくて……少し困ってました」

「分かった。あとのど飴とポカリスエットでも買ってこようと思うけど。他に欲しい物はあるか? 薬は足りてる?」

「薬は常備薬があるので、大丈夫です。……その、申し訳ないのですが、冷えピタも買ってきていただけると……助かります。今、切らしてて」

「よし分かった」


 由弦は愛理沙に対し、もし何かあったら携帯で連絡をするように言い含めると、近くにあった薬局で必要な物を購入した。

 特に愛理沙からの連絡はなかったが……万が一を考えて、小走りで家まで戻る。


「愛理沙、帰ったぞ」


 部屋の前で愛理沙にそう告げるが、返事がない。

 ドアをノックしてから、愛理沙の部屋に入る。


(……寝てるのか?)


 そう思い、由弦は愛理沙の顔を覗き込んだ。

 先ほどよりも顔色が悪く感じられた。


「うっ……由弦さん?」

「大丈夫か?」


 顔に汗を浮かべ、端正な顔を歪めながら、愛理沙は薄目を開けた。

 とても辛そうにぐったりとしている。

 由弦は愛理沙の額に手を当てる。


「酷い熱だな……測り直した方が良いな。自分で測れるか?」


 由弦は近くにあった体温計を手に取り、愛理沙に尋ねた。

 愛理沙は小さく頷くと、寝間着のボタンを一つずつ開け始めた。

 白い清楚な下着が視界に映った。

 由弦は慌てて、目を逸らす。


「測れたか?」

「……はい」


 由弦は愛理沙から体温計を受け取る。

 数値は……三十八度七分。


「この熱だと、病院に行った方が良いね。インフルエンザかもしれない」

「うぅ……でも、どうやって……」

「タクシーを呼ぶよ」


 由弦は携帯を使ってタクシーを呼び出した。

 幸いにも近くに空車があったようで、タクシーをすぐにやってきた。


「愛理沙、立てるか?」


 保険証や手帳などの準備を終えた由弦は愛理沙に尋ねる。

 愛理沙はぼんやりとした様子で、首を縦に振った。


「はい、大丈夫です」


 愛理沙は小さく頷くと、ふらふらと立ち上がった。

 が、しかしすぐによろけそうになる。


 由弦は慌てて愛理沙を支えた。


「無理するな。抱くぞ?」

「あ、いや……ちょ、ちょっと……」


 由弦は一方的に告げると、戸惑いの声を上げる愛理沙を無視して、抱え上げた。

 お姫様抱っこの形になる。

 愛理沙は最初は驚いていたが、すぐに由弦の服を両手で掴み、大人しくなった。


 由弦はそのまま愛理沙を抱えて歩き、タクシーに乗せ、運転手に病院へ向かうように頼んだ。





 幸いなことに、インフルエンザではなかった。

 鼻水・咳などの薬と、解熱剤を処方してもらい、家へと帰った。


 帰った時にはすでに昼時だった。


「愛理沙、食欲はあるか?」


 ベッドに戻した愛理沙へ、由弦は尋ねた。

 愛理沙は小さく首をふるふると横に振った。


「あんまり、ないです……」

「そうか……」


 とはいえ、処方された薬には『食後』と書かれている。

 何か食べないと薬を飲めない。


「桃缶なら、食べれるか?」

「……ちょっとなら」


 そう言うので、由弦は冷蔵庫まで向かい、冷やしておいた桃の缶詰を取り出した。

 適当な皿に移し、フォークと一緒に持って行く。


 愛理沙の体を起こしてあげると、手に皿を持たせた。


「無理そうなら、残しても良い。取り敢えず、一口は食べてくれ」

「……」


 愛理沙はぼんやりと、皿を見つめた。

 それからその翡翠色の瞳を由弦へと移す。


「あの……」

「どうした? ……食べられないか?」

「いえ、その……」


 愛理沙の頬が僅かに紅く染まった。

 それは……風邪や熱の症状とは、少し異なった理由からのように見えた。


「どうした?」


 もしかして白桃よりも黄桃の方が良かったとか?

 と、由弦がそんなことを考えていると……


「……ください」

「うん?」

「食べさせて、ください」


 潤んだ瞳で愛理沙は由弦にそう言った。

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