第19話 “婚約者”と雷

 むにゅり、と。

 柔らかい物が自分の胸板に押し付けられるのを感じた。


 体の上では、愛理沙がぷるぷると体を震わせている。


「お、おい、愛理沙。大丈夫か?」

「あ、す、すみません。だいじょうっひ!」

 

 再び発生した落雷に、愛理沙は体をびくりと震わせた。

 取り敢えず由弦は身を起こす。


 愛理沙はぺたりと、腰が抜けたように座り込んだ。


「雷、苦手か?」

「い、今のは、び、びっくりしただけです。心構えができていれば、怖くないです」


 愛理沙がそう言うとの同時に、雷が落ちた。

 身を竦ませるが……しかし悲鳴だけは出さなかった。

 そして由弦に対し、「ほら、大丈夫でしょう?」と言いたそうな表情を浮かべる。


「しかし、困ったな。……やっぱりタクシーか」

「ま、待ってください。く、車に落ちたらどうするんですか!」

「いや……でも車の中は安全らしいぞ?」


 聞き齧った知識ではあるが……

 車や建物などに落ちた雷は、表面を伝って地面へと逃げる。

 つまり内部は安全だ。


「……し、信号が、止まったりしたら危険です」

「ふむ。それは確かに、そうかもしれないな」


 運転中に停電が発生し、それが切っ掛けで事故が起きるかもしれない。

 それを考えると車も危険だ。


 しかし……


「だが、電車はもっと危険だろう?」

「それは……そ、そう、ですけど……」

「まさか、泊るってわけにも……」

「それです!」


 ぽつりと由弦が呟くと、愛理沙は大声を上げた。

 何を言っているんだと、由弦は目を見開く。


「いや、それです! って……正気か?」

「正気です。……絶対に、帰りません。私はこの部屋から、出ません」


 引きこもり宣言をする愛理沙。

 由弦は思わず、頭を掻く。


 さすがに未婚の男女が同じ部屋で一夜を共にするのは不味い。


「あのなぁ……愛理沙。もしかしたら君は忘れているかもしれないが、俺は男だぞ? 危ないだろう」

「雷と由弦さんなら雷の方が危ないです。由弦さんなら、何が起きても、私が死ぬことはありませんから」

「いや……それは、まあ、そうなんだが」


 どうやら雷への恐怖で、危機意識や感覚がおかしくなっているようだ。

 勿論、由弦は愛理沙を襲うつもりはないので安全ではあるが……

 

 世の中には絶対はない。

 何かの“弾み”があると、非常に良くない。


「着替えも布団もないけど……」

「床で寝ます。着替えもいりません」

「……そうか」


 ちなみに布団やベッドはないが、寝袋ならある。

 着替えも、学校指定のジャージや体操着を貸せば良い。


「なら……君の保護者が許可を出すなら、良いよ」

「分かりました。養父に電話をします」


 愛理沙はそう言うと、部屋の隅まで行き、電話を掛けた。

 しばらくして、愛理沙は電話を切った。


「どうだった?」

「許可が出ました」

「そうか……」


 由弦は思わずため息をついた。

 もっとも、考えてみれば由弦と愛理沙は婚約者であり恋人……ということになっている。

 なら、一泊するくらいは問題ないだろう。


 勿論、間違いが起きないことが前提ではあるが。


「じゃあ……取り敢えず、シャワーを浴びてきて良いかな?」

「あ、はい。どうぞ」


 由弦は愛理沙に許可を取ってから、手早くシャワーを浴びてしまう。

 体を拭き、寝間着代わりのジャージに着替える。

 ……普段は一人なので裸で歩き回ってしまったりするが、今日はさすがにそういうわけにはいかない。


 着替えを終えてから、由弦は愛理沙に声を掛けた。


「愛理沙」

「はい……って、ちょ、ちょっとぉ……」

 

 愛理沙は肌を朱色に染め、目を逸らした。

 どうしたのかと、由弦は思わず首を傾げる。


 すると愛理沙は自分の胸元を指で示した。


「ゆ、由弦さん。その……ちゃんと、締めてください」

「ああ、悪い」


 水着は良くてもこういうのは相変わらず良くないらしい。

 由弦はやや開き気味で、肌が見えていた胸元を、しっかりと締めた。


「そ、それで、何でしょう?」

「シャワー、浴びたいだろう? バスタオルと、俺の体操着とジャージで良ければ、貸せるけど」

「すみません。ありがとうございます」


 愛理沙はぺこりと、由弦に頭を下げた。

 気にすることはない、と由弦はそう言ってバスタオルと自分の体操着・ジャージを手渡す。

 

 それから愛理沙は少し考えてから……由弦に尋ねた。


「そ、その、由弦さん」

「どうした?」

「……下着、どうしましょうか?」

「悪いが、新品の女物の下着を持っているほど、準備は良くないぞ」


 持っていたら持っていたで、凄い話である。

 勿論、雨の中、コンビニまで買いに行くという手段はあるが……さすがに由弦もそれは嫌だった。


「それは、まあ、勿論、当たり前なのですが、その……可能であれば、替えたいなと、思ってまして。その……」


「そうは言っても無い物はないからな。そのまま身に着けたままにして頂くか、まぁ……無しの二択だ。君の自由意志に任せよう」


 由弦がそう答えると、愛理沙は葛藤の表情を浮かべた。

 下着は替えたい。

 少なくとも、一日中、翌朝まで同じ物は着ていたくない。

 だが無しというのはさすがに……

 という表情だ。


 由弦としては精神安定上、同じ物を身に着け続けて頂きたいものだが。


「……考えておきます」


 どうやら考える余地があるらしい。

 とはいえ、愛理沙に自由意志に任せると言った以上はどうしようもないのだが。


 由弦は脱衣室に入る愛理沙の後ろ姿を見送る。

 しばらくすると、僅かに水音がし始めた。


「……」


 少し気まずい。

 そう思いながら、由弦はスマートフォンを手に持ち、弄り始める。


 ……そして、それは突然、起きた。

 

「ん?」


 一瞬で当たりが真っ暗になった。

 それから浴室の方から悲鳴が聞こえてきた。


「きゃぁぁぁぁぁ!! た、助けて、助けてください!! 由弦さん!!!」


「……勘弁してくれ」


 由弦は大きなため息をついた。

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