番外編 BSS

 小学二年生の時。

 彼女が転校して来た。

 彼女はとても可愛らしく、美しい女の子だった。

 一目で、恋に落ちた。


 彼女が自分の隣の席になった時は、とても嬉しかった。

 運命かとも、思った。


 彼女はいつもクールな表情で、何事にも動じない。

 しかし決して冷たいというわけではなく、誰に対しても優しく、分け隔てなく接してくれた。


 教科書を忘れた時、貸してくれと頼むと、嫌な顔を一つせずに貸してくれる。

 そんないい子だった。


 好きだから……彼女のことを知りたくて。 

 一度、彼女の家を見に行ったことがある。


 確か、小学四年生の冬の日だ。


 ほんの出来心で、その高い石垣をよじ登り、家を覗き込んだ。

 その時、見てしまった。

 彼女の母親が彼女の頬を、叩くところを。


 母親に引き摺られるようにして、彼女は庭へと放り出された。

 ピシャリと、ガラスドアを閉める音が印象的だった。


 真冬の夕暮れだというのに、彼女は下着姿で、寒そうに震えていた。

 自分は慌てて彼女に駆け寄った。


 その時、彼女にどのような言葉を掛けたか……覚えていない。

 いや、おそらく駆け寄るだけで、何の言葉も掛けることができなかったのだろう。


 彼女は冷たい目で、一言。

 

 私に関わらないでください、と。

 そう言った。


 自分は逃げるしかなかった。


 後から彼女のお兄さん、いや、従兄の人に話を聞いた。

 彼女はとても可哀想な境遇の女の子だと、知った。

 

 平凡な一般家庭の生まれである自分には想像もできないような世界だった。


 彼女を守ってあげたいと、助けてあげたいと思った。


 でもただの子供である自分には何の力もない。

 そもそも何をすれば良いのか分からない。


 それでも何かをしてあげられないかと、考え続けた。

 実際に声を掛けたり、係の仕事の手助けをしてあげたりとしてきた。


 そのたびに彼女は、ありがとうございます、と綺麗な笑みを浮かべた。


 そうやって少しずつ距離を詰めることができれば。

 そして自分が大人になったら……


 そんなことを思っているうちに、小学六年生になった。

 彼女の従兄から、彼女は少し良いところの私立中学校に入学することになると聞いた。


 だから両親に頼み、中学受験をさせて貰った。

 両親は自分が勉強に目覚めたと思ったのか、全力で応援してくれたし、塾にも通わせてくれた。


 何とか、合格することができた。

 

 中学では二人の距離が縮まるものとばかり、思っていた。

 これからの学校生活は楽しい物になるに違いないと、確信していた。


 しかし……

 不思議なことにそうはならなかった。


 お互い、思春期に入ったからかもしれない。

 男女の垣根のようなモノを感じるようになった。


 部活も男女別。

 加えて中学では不運なことに、一度しか同じクラスになれなかった。 

 

 中学三年生。

 高校受験の時、彼女は私立高校に入学すると聞いた。


 ここから電車で四、五十分ほど。

 少し遠いところにある、名門と呼ばれる学校だ。


 全国有数の進学校……というほどではないらしいが、しかし自分の成績とその学校への入学に必要な偏差値や内申点を見比べると、大きな開きがあった。


 同じ高校に入学できるように頑張ったが……

 しかし中学受験のようには行かなかった。


 あと一歩というところで、落ちてしまった。


 絶望した。

 でも、自分と彼女はご近所だ。


 これから会うこともあるだろう。

 チャンスがないわけではない。


 高校は無理でも同じ大学へ入学できれば良い。


 ……そう思っていたのだが、しかしその見込みは甘かった。

 人と人は、一度接点を失うと、途端に疎遠になってしまうものということをその時、初めて知った。


 たまにすれ違って、会釈をする。

 その程度の関係になってしまったのだ。


 一か月が過ぎ、五月の初旬。

 連休中、彼女が美しい着物を身に着けて車に乗り込むところを見かけた。


 とても辛そうで、悲しそうな……そんな表情を浮かべていた。

 彼女のあんな顔を見るのは、小学生の時以来だった。


 それからさらに時が過ぎ、七月。

 塾の帰り、彼女の家の前を通り過ぎる時……彼女と鉢合わせた。


 しかしいつもと、少し様子が違った。

 彼女の隣に見知らぬ男性が立っていた。


 自分よりも少し背が高く、容姿の整った、落ち着いた雰囲気の男性だ。

 最初は彼女の親戚か、何かだと思った。

 というのも、高校生には見えないほど大人びているように見えたからだ。

 見た目は若々しいから、おそらくは大学生くらいだろうと。


 大学生の男性と、高校生の彼女に接点があるとは思えなかったので、おそらくは『天城家』に連なる良いところのお坊ちゃんか何かだと、そう予想した。

  

 彼は非常に落ち着き払った声音と表情で、彼女のクラスメイトだと名乗った。


 まず彼が自分と同年代であることが、驚きだった。

 しかし言われてみると、確かにその整った容姿にはまだ幼さが残っている。

 彼も自分と同じ、少し前まで中学生だったのだ。


 彼の言葉遣いと態度は、とても柔らかく、丁寧だった。


 彼女はそんな彼の一歩後ろでお行儀よく、立っていた。

 まるで彼に付き従うかのような、そんな立ち位置だ。


 そしてまるで彼の機嫌や意見、指示を伺うかのように、チラチラと視線を送っている。


 嫌な奴だなと、思った。


 それから自分が何を言ったのかは、覚えていない。

 確かなのは適当な言い訳をして、逃げ出したという事実だけだ。  


 ただのクラスメイト。

 だから、彼女にとって彼はただの男友達でしかないはずだ。


 彼女はいろんな男子から告白を受けてきたけれど、その全てを断ってきた子だ。

 今更、ただのクラスメイトの男と付き合い始めるはずがない。


 そう自分に言い聞かせた。

 それでも……気になって、気になって、仕方がなかった。


 本当にただのクラスメイトなのか?

 友人なのか?

 それとも、もしかして、もしかすると……


 考えるだけで、不安で眠れなくなる。


 しかし直接、尋ねる勇気もない。

 擦れ違っても、会釈するだけだ。


 そんな日々が過ぎ……

 やがて九月になった。


 ある日、家族と共に服を買いに出かけた。

 すると……


 彼女がいた。

 声を掛けようとしたが、しかしその隣にはあの男がいた。


 彼女は楽しそうに、男性向けのアクセサリーを選び……

 そのうちの一つを、指で示す。


 男はそのアクセサリーを自分の首元に掲げた。

 すると彼女は……


 恥ずかしそうに目を伏せ、肌を赤らめ、もじもじと、まるで男に好意があるかのように、照れているかのような仕草や表情をした。


 彼女のあんな表情は、今まで、一度も見たことがなかった。

 

 本当に清楚で、可愛らしく、美しく、そして……艶っぽかった。


 あの物静かで、大人びていて、クールで、平静で、何を考えているのか分からないところがある彼女が、あんな普通の女の子のような感情を顔に表したのは、衝撃的だった。


 心臓が高鳴る。

 胸がドキドキする。


 あんな表情をされたら、きっとどんな男も、彼女に恋をしてしまうだろう。

 それほど魅力的な表情だった。


 それを見ることができたのは、本当に運が良い。

 一生の思い出になることだろう。


 だから……

 だからこそ。


 その表情の向かう先が自分ではないことは、とても苦しかった。

 目を逸らしたかった。

 でも、目が離せなかった。


 気付くと、二人の後を付けていた。


 二人は楽しそうにアクセサリーを眺めていた。

 高そうな、ゴテゴテとした装飾品を指さし、彼女は男に話しかける。


 会話は聞こえない。

 だが、どのような話をしているのか、何をしているのか、大方の検討はつく。


 おそらく、彼女は男に対し、自分が好きな、好みの宝石を語っているのだろう。

 もしかしたら、強請(ねだ)っているのかもしれない。


 誕生日やクリスマスに自分にプレゼントをしてくれ、と。


 一方で男の方は真剣な、しかし余裕そうな表情で彼女の話を聞いている。

 そして時折、困ったような表情を浮かべた。

 

 彼女の我儘に少し呆れてしまうが……

 しかしそれでも、彼女の頼みならば買ってあげよう。

 この程度の値段のモノなら、別にどうということはない。


 そんな顔をし、そんな話をしている。

 ……そんな気がした。


 二人が去ってから、彼女が指さしていたアクセサリーの値段を確認する。

 ……とんでもない価格だった。

 高校生の自分では、いや、大学生になっても、社会人になった自分であっても、買えるかどうか分からないほどの値段だった。


 クラクラとしながら。

 酒や麻薬で酔ったような気分で、二人の後を追う。


 二人は衣類品のエリアへと、入った。

 彼女が秋物の大人っぽいデザインのコートを手に取る。

 そして自分の財布を見て、ため息をつく。

 おそらく、彼女のお小遣いで買えるようなものではなかったのだろう。


 それから男に対し、何かを話す。

 一言二言、会話をする。


 それから店員に話しかけてから、羽織ってみせた。

 そして男へと、話しかける。


 男が何かを言うと、彼女は嬉しそうに笑った。

 それから……少しだけ、声が聞こえてきた。


 買っちゃいますからね?


 と、そんな声だ。

 弾むように、どこか念押しするように、彼女は男に聞いた。


 分かってしまった。

 彼女は男にコートを買ってくれと強請(ねだ)り、男は首を縦に振ったのだ。


 男は財布からクレジットカードを取り出し、あっさりとその高そうな、ブランド物のコートを購入した。

 彼女は店員から、コートの入った紙袋を受け取る。


 嬉しそうに、それを両手で抱きしめた。

 

 誰とも慣れ合わない。

 高嶺の花。

 孤高で美しい一匹狼。


 そんな彼女が……まるで主人に餌を貰った犬や猫のように、男に対して尻尾を振っていた。


 男がゆっくりと、彼女へと手を伸ばす。

 そして彼女のサラサラとした、美しい髪を撫でた。

 

 彼女は一切、逆らう様子はない。

 それどころか、身を委ねている。

 目を細め、心地良さそうにしていた。


 本当に犬猫のようだった。


 彼女のその蕩け切った表情を見ていられなかった。

 だから男の顔を見る。


 男は……ニヤニヤと野卑な笑みを浮かべていた。

 何か、良からぬことを企んでいるように見える。


 騙されるなと、叫びたかった。

 実際、叫ぼうとした。


 だが……その勇気はなかった。

 吐き気が込み上げてきた。


 気付いた時には、男子トイレにいた。

 洗面台で、顔を洗う。


 鏡にはげっそりとした表情の男が……自分が映っていた。






 自分の恋は始まる前に終わっていた。

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