第4話 “婚約者”と朝

「ん……まだ少し眠いな」


 朝、目を覚ました由弦は若干の気怠さを感じていた。

 元々、朝はあまり強くないのだが……昨日は歩き回った上に夜遅くまで話し込んでいたので、余計に眠たい。


 二度寝したいところだが……


「そうだ。今日は愛理沙がいるんだっけ」


 あまり彼女にみっともないところは見せられない。

 そう考えた由弦は起き上がり、顔を洗いに行くことにした。


 廊下を歩いていると……


「ふぁぁ……あ、由弦さん。おはようございます」


 丁度、愛理沙に出くわした。

 どうやら彼女も寝起きらしく、目がしょぼしょぼしている。

 その上、長い髪は寝癖でボサボサになっていた。


 普段は完璧な愛理沙のだらしない姿は新鮮ではあるが……


「由弦さん? どうしましたか?」


 由弦が思わず愛理沙から目を逸らすと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 由弦は自分の浴衣の胸元を掴みながら、愛理沙に言った。


「……直した方が良いぞ」


 愛理沙はまず由弦の浴衣に視線を移し、それから自分の浴衣へと視線を下ろす。

 そして頬を赤らめた。


 というのも浴衣が僅かに崩れ、柔らかそうな双丘と深い谷間、そして清楚な白い下着が覗いていたからだ。

 それだけではなく、帯の方もかなり緩んでいる様子で、真っ白い脚が露わになってしまっている。

 あともう少し崩れれば、ショーツまでも見えてしまっていただろう。

 ……というより、チラチラ見えていた気がしないでもない。


「す、す、すみません!!」


 愛理沙は大慌てで浴衣を直そうとする。

 が、崩れかけているものを強引に取り繕うとすれば余計に崩れてしまうのは道理だ。


 由弦は慌てて、背を向けた。

 背後から愛理沙の悲痛な悲鳴が聞こえてくる。


 由弦は近くにあった部屋を指さした。


「そこ、今は誰もいないから。落ち着いて直すと良い」

「は、はい! し、失礼しました!」


 背後から襖を閉める音がした。 

 ゆっくりと、後ろを振り向く。


 そこには愛理沙の姿はなかったが……


「ありゃりゃ……」


 廊下に一本、紐のようなものが落ちていた。

 おそらくは浴衣の帯だろう。


 由弦はそれを拾い上げ、襖を少しだけ開ける。

 中は覗かず、帯を持った手だけを入れた。


「愛理沙、忘れ物」

「す、すみません! 本当に、すみませんっ!」


 帯を渡すと、由弦はきちんと襖を閉める。

 そしてドキドキと高鳴る胸を抑えながら、呟いた。


「おかげで目が覚めた」


 実に刺激的な朝だったと、しみじみと思った。





「朝ご飯まで用意して頂いて……申し訳ありません」

 

 朝食の席で、愛理沙は彩由に対した頭を下げた。

 彼女の計画では、朝早く起きて彩由を手伝う予定だったようだが……少し寝坊してしまったために、それは叶わなかった。


「良いのよ。愛理沙ちゃんはお客さんですもの」


 ニコニコと彩由は笑顔でそう答えた。

 それから気にせず食べてくれと、愛理沙に促した。


 愛理沙が箸を手に取るのと合わせ、由弦も食事を始める。

 今日は愛理沙がいるので、おかずは一品多いが……味はいつもの通りだった。


「お魚、ふっくらと焼けてて美味しいですね」

「あら、愛理沙ちゃん。お目が高いわね。実は最近、グリルを最新のモノに変えてね」


 嬉しそうに自分の家の調理器具の優秀さを誇り始める彩由。

 味噌汁の味等については敢えて触れない辺り、愛理沙は正直者だ。


「高瀬川さんのお家、本当に大きいですね。お掃除、凄く大変ではないですか?」


 普段、家では家事をしている愛理沙にとって、大きな家を見てすぐに浮かぶ感想は「お掃除大変そうだな」のようだ。

 その純粋な疑問を彩由に問いかける。


「そうでもないわよ。そういうのはお手伝いさんがやっているし」

「あぁ……やっぱり、いるんですか?」

「勿論。犬四頭の世話も合わせて、こんな広い家を一人で家事なんてしたら、私、過労死しちゃうわぁ。仕事もできないし」


 愛理沙は愛想笑いを浮かべていたが……由弦だけが、気付いた。

 「仕事もできない」という発言で、愛理沙は少しだけ驚いたのだ。

 ……専業主婦だと思われていたようだ。


 まあ見た目と雰囲気からして、彩由はのんびりとした人で、少なくともOLをやっているようには見えないだろう。


「お手伝いさんは……どこにいらっしゃるんですか?」

「土日だからお休みよ。うちは週休二日の八時間労働、有給アリだから」


 ちなみにそのお手伝いさんの名前はそれぞれ、鈴木、佐藤、田中と言う。

 もっとも今日中には帰る愛理沙と会うことは、今のところないだろう。


「ところで、その……何のお仕事を?」

「何だと思う?」


 ニヤリと、彩由は笑って愛理沙に問いかけた。

 愛理沙は彩由が仕事をしている姿を全く想像できないのか、うんうんと悩み始める。

 それをニヤニヤと笑って眺める彩由。


 愛理沙が困っているようなので、由弦は代わりに答えてあげることにした。


「大学教授だよ」

「ちょっとー、由弦。どうして答えちゃうのよぉ」


 すると先ほどまで黙っていた彩弓が茶々を入れた。


「愛しのお嫁さんが、姑にイビられてたからでしょう」

「小姑がよく言うわねぇー」


 小競り合いを始める彩由と彩弓。

 一方、“愛しのお嫁さん”扱いをされた愛理沙は恥ずかしそうに顔を俯かせていた。

 耳が真っ赤に染まっている。


 そういう反応をされるとこっちも恥ずかしくなるんだけどなぁー

 と由弦は思いながら、漬物をポリポリと噛み砕く。


「ねぇー、愛理沙ちゃん。じゃあ……私、何の研究者だと思う? 当ててみて?」

「……そうですね。アメリカ文学とか、ですか?」

「えー! どうして分かったの!!」


 あっさりと当てられた彩由は、不満そうな表情を浮かべた。

 それに対し、いつもの平静でクールで余裕そうな表情を取り戻した愛理沙は淡々と答える。


「由弦さんのひいおばあ様がアメリカのご出身だとお聞きしまして。ということは、由弦さんのお父様……和弥さんは、クォーターということになりますよね? それで何かしらのご縁があったのかなと」


「悔しいけどあってるわ。ねぇー、和弥さん」


「そうだね。懐かしいよ」


 彩由が和弥に問いかけると、彼は微笑みながら答えた。

 微妙に甘ったるい空気が流れたので、由弦は味噌汁を口に入れてそれを誤魔化す。

 あまじょっぱい。


 和弥と彩由が出した妙な雰囲気を吹き飛ばすためか、彩弓が唐突に話題を変えた。


「そうだ、愛理沙さん。どうですか? お母さんの料理。美味しいですか?」

「え? あ、はい。勿論……美味しいです」

「さっき、美味しいって言ってただろう」


 何かを企んでいる様子の小姑に対して由弦は言った。

 が、彩弓はそれを無視した。


「いや、兄さんがお母さんの料理よりも愛理沙さんの料理の方が美味しいって、以前言ってたから、気になりまして」


 彩弓の言葉に愛理沙は表情を強張らせた。

 自分の料理を比べられた彩由が気を悪くしないかと、心配しているのだろう。

 そしてジト目で由弦を睨んだ。


 由弦は思わず目を逸らす。


「そう言えば、そんなこと言ってたわねぇ。由弦ったら、愛理沙ちゃんに胃袋を掴まれちゃってるのよ。私、嫉妬しちゃうわ」

 

 おどけた調子で彩由は言った。

 それから愛理沙に対し、パチッとウィンクをする。

 別に全然気にしてはいないから、萎縮しなくて良い。

 そういう合図だ。


 それによって愛理沙は表情を緩ませた。


「……その、お料理というか、味覚には好き好きがありますから。彩由さんのお料理からは愛情が感じられます。私はとても美味しいと思います」


 愛理沙はそう言って彩由を立てるが……

 すっかり小姑気分の彩弓は、そんな無難な言葉を求めてはいないらしい。


「私、愛理沙さんの料理、食べてみたいなぁー。昼食か夕食、作れませんか?」

「えぇー、い、いや……それは……」


 すると今まで黙っていた和弥が、彩弓を睨む。


「彩弓、愛理沙さんが困っているだろう。……やめなさい」


 一方で由弦は愛理沙に語り掛ける。


「彩弓の我儘なんて、無視してくれて良いから。気にするな」


 だが彩由は彩弓と同様に、興味が抑えられない様子だった。


「私は……やっぱり気になっちゃうわぁ。息子が絶賛するお料理。もし本当にお上手なら、私が習いたいくらいだし。……でも、無理強いはできないわね」


 とは言いつつも、期待の眼差しで愛理沙を見た。

 彩弓、彩由の二人から期待の目で見られた愛理沙は……


 顔を赤らめ、縮こまりながら頷いた。


「わ、私の、お料理なんかで良ければ、お作りしますけど……」

「「作戦、成功!!」」


 パチン、と彩由と彩弓は手を合わせた。

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