月は微笑む

春嵐

転職する部下と、最後の呑み会

いい夜だった。

酒が旨い。仕事もうまくいったはず。月も綺麗。


「思い残すことはないな」


知っている。

こういうときが、もっとも危ない。後ろから刺されたり、唐突に事故ったりしてしぬ。


だから途中で呑むのをやめたいんだけど、なかなかやめられない。


「課長」


部下。


「そろそろおやめになっては」


「うん」


会社発足からの部下だった。仕事もできる。女の自分が上にのさばっていられるのも、この部下が下で立ち回ってくれているからだった。


しかし、酒はやめられない。


やめられない理由があった。


この部下が、転職サイトを見ていた。

やめるつもりなのか。この仕事を。私を捨てるのか。


訊けなかった。ずっと長く仕事をして、ずっと長くいたから、社外でも社内でもパートナーのようになっている。休みの日は映画を見に行ったりもする。単なる上司と部下ではないはずだった。


それでも、あらためて振り返ってみれば、特に告白したわけでも告白されたわけでもない。


友達以上、恋人未満。

仕事以上、プライベート未満。


だから、呑むのをやめられない。

というより、もっとずっと、こいつといたい。


「ほら。帰りますよ」


「うん」


私の片想いだったのか。


立ち上がろうとして、少し、よろける。呑みすぎたのか。この程度で。


「ほら」


肩を貸される。彼の暖かさが、今は、切ない。


「珍しいですね。いつもは仕事が順調なときほど慎重になるのに」


「だな。私らしくない」


自分のもとを去ろうとする部下に恋心を抱き、いじきたなく呑んで介抱される私。


「なんてざまだ」


何かを察したように、部下が黙る。


「やめろ。黙るな。惨めになる」


「俺が何か、したでしょうか」


申し訳なさそうな口調。


「いや違う」


違う。


「ごめん。もう大丈夫。ひとりで歩ける」


彼を、突き放す。


何が正解なのか。

決まりきっている。


「転職サイト、見てたな」


上司なら、部下の転職を応援してやるのが務めだろう。どうでもいい恋心など、彼の前では、なんの価値もない。


「すまんな。いい上司じゃなくて。転職がうまくいって、私よりもいい女に恵まれることを祈ってるよ」


これが、せいいっぱいだった。

恋愛経験のなさが裏目に出て、なんとも、皮肉な感じになってしまった。仕事しかしてこなかったのを、ちょっとだけ悔やんだ。


いや。

ほんとうにちょっとだけか。とっても悔しいんじゃないのか。

普通の女性だったら、普通にこの部下を引き留められたんじゃないのか。上司と部下じゃなくて、普通の男と女なら。


無意味だった。会社の関係をなくしてしまえば、部下と私に、なんの関連もないのだから。私と彼の間は、近いようで、永遠に遠い。


「はい。ありがとうございます」


彼のこの一言が、とどめを刺した。

やっぱり、彼は、転職する。私の前から。いなくなる。


言えなかった。

辞めないでくれ。ずっと私の側に。側にいてくれ。

言えない。ただの職権圧力にしか、ならない。


涙が出てきたけど、彼に見られないように、上を向いてごまかした。


綺麗な月。星。

こんなにつらくても、空は綺麗。

もう、何も言うまい。


「俺、転職してもっとできる男になるんで」


「そうか。がんばれ」


「だから、転職が落ち着いたら。俺がいい男になったら。付き合ってください。ぜったいに課長に見合う人間になってみせるんで」

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