日本拳法純粋理性批判

@MasatoHiraguri

第1話 はじめに

 この本は、拙著「思い出は一瞬のうちに」(2010年8月刊)の第8話「日本拳法の世界」で述べた「日本拳法による純粋理性」を実例から見ていこうというものです。



 第8話「日本拳法の世界」とは、(日本拳法で鍛えた)純粋理性から現実の社会を見、一方で、この「日本拳法純粋理性批判」という本は、現実に起きた様々な出来事の根底に働いた純粋理性を見る。


 つまり、日本拳法の面突きという、特異な世界に没頭することで得た純粋理性を現実の生活に生かし、現実の生活の中に「日本拳法による純粋理性」を見い出す。そういう双方向の視点で検討して(批判して)いこうというわけです。



「真の芸術家には2つの役割(double functions)があると思いませんか ? 人生を芸術に生かし、芸術をもって人の世(社会)を批判する(正しく見る)。しかし、私たちは両方の役割を果たしているだろうか。芝居にばかり没頭して現実をなおざりにしていないだろうか。」ヒッチコック映画「殺人」(1930年)



 これから述べるエピソード(話)の数々とは、誰しもが生まれながらに備えている理性によるものであるにはちがいないのですが、大学時代という精神的に最も重要な時期に巡り会った「日本拳法という純粋理性を鍛える世界」なくしては、これを鍛え・磨くことはできなかった。そもそも、自分の内なる純粋理性というものを自覚することすら、できなかったでしょう。


 たとえば、カントの「純粋理性批判」という偉大な著作を、大学日本拳法という体験なくして、自分自身の生活や人生に引き入れて考えることなどできなかった。学問として、この偉大な著作を理解できないのは仕方ないとしても、この本を鏡(触媒・刺激)にして自分の内面を見るという、個人的な本の読み方ですら不可能であったにちがいない。



 私が初めて岩波文庫版「純粋理性批判」を読んだ時。


 P.38「純粋理性批判は、方法に関する論究の書であって・・・」


 P.39「なおなさるべきことが残されている限り、何もかもまだなされていないと見なされる」



 これらの箇所から、私はこうメモしました。


 「哲学を学ぶのではなく、哲学することを学ばねばならない。(日本拳法で)一本を取ることよりも、一本を取るために全身全霊を投入し、恐怖の恥も見栄も捨て去って、この一瞬の中へ飛び込んでいく気迫を学ぶのだ。」と。



 かくして、300年前に印された偉大なカントの(理性についての)言葉は、現代に生きる卑近な私個人における現実の心・思いとなってつながり、実際に私の生活や人生に新しい光を与えて見せてくれる。カントの言葉はもとより、それを反射する鏡(理性)を磨いてくれたのが、大学時代の日本拳法(の面突き)であった、というわけなのです。


2020年7月27日(月)

平栗雅人雅人


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