君は君のオシマイを見た
「今日の夕飯は、わたしがカレーライスを作ります」
「えっ!?」
ぎょっとした彼をよそに、わたしは懺悔にも似た気持ちでカレーの材料を探した。
じゃがいも、人参、玉葱、白米、賞味期限があと二週間で切れるカレールー。
肉は見つからなかった。無しで良いか。
わたしは磨いたばかりの鍋でカレーを作る。
わたしが具材を切ってる最中、彼は不安そうに覗きに来て、「手伝えることは無いか?」と尋ねた。
わたしが包丁を握るのは数年ぶりなのだ。
心配な気持ちは分かるが、座って休んでいるように言う。
彼はしぶしぶとリビングに戻って、ミントグリーンのソファーに腰を下ろした。
一時間もしないうちに美味しそうなカレーの匂いが立ちのぼる。
二枚のお皿にカレーをよそい、向かい合って「いただきます」をした。
大きめのスプーンを手に取って、わたしはカレーライスを食べる。味は問題なく美味しい。
しかし深くうつむいた彼は、ぽろぽろと涙を零しはじめる。
まさか、泣くほど嫌だったのか。
スプーンはテーブルに置いたままで、カレーライスは一口も食べられていなかった。
「えーちゃん、カレーライスきらい!?それなら無理して食べなくて良いよ!ごめんね!残して良いよ!」
わたしは焦る。よくよく考えてみたら、わたしは彼の食べ物の好き嫌いを一切知らない。
親子として一緒のテーブルで食事をするのは、おそらく今日がはじめての事だった。
彼は顔を上げて、わたしの表情を視界に捉えるとゆっくり首を振る。
遠いところを眺めているような、ぼんやりした目つきをしていた。
「びっくりしちゃった、だけです。うれし、い、です。うれしい、うれしい」
「そう……?無理しないでね?本当に、残して良いからね」
「へいきです。かあさんは、相変わらず料理がお上手ですね」
「あの人の、……えーちゃんのお父さんの一番になりたかったからね!えっへん。これでも、若い頃は毎日自炊頑張ってたんだよ!」
「そう、なんですね……」
親子での食事は、思いのほか平穏で満ち足りた気分になった。
彼は丁寧な動作で、お皿を汚さずにカレーライスを食べている。
わたしは、幼少期の彼に食事のマナーを教えた記憶がない。
浮かない顔をしていた彼も、食器の片付けをする頃には機嫌が直ったのか、にこやかにわたしにアルコールを勧めてきた。
曰く、「親子でお酒を飲んだことが無いから」らしい。
おかしな言い分だったけど、特に断る理由も無かったので快諾した。
北斗七星の描かれた紫色のタンブラーグラスに注がれた液体は、オレンジジュースのような味がして、それから。
部屋が真っ暗だ。いいや、真っ黒だった。
どうしたことか息苦しい。睡眠薬を飲み過ぎた時と似ていた。脳に酸素が上手く回らなくて、頭の中がずっとぼんやりしている。
「……えー、ちゃん?えーちゃん、どこ?」
視界が黒一面で不安になり、縋るように彼を呼ぶと、急に目の前が眩しくなった。
ずるりと、鼻に布が掛かっている。
「ねえ、ひどい、ひどいですよ。ねえ、俺、ずっと頑張ってたじゃないですか……」
寝室のベッドの上で、彼は顔を左手で覆い、肩を細かく震わせて静かに泣いていた。
わたしは何か声をかけようとして、彼の右手で光る包丁に気づく。
悲鳴を上げる為に口を開こうとしたら、彼の骨ばった手の平に顔の半分を覆われた。
「大好きなんですよ?なにが、なにがいけなかったんですか……どうして、好きなのに。こんなに、大好きなのに、誰よりも愛してるのに……ずっと、愛してる、かあさんだけを愛してる、のに」
充血した目から涙がはらはらと流しながら、それでも彼は甘えるような声色で話しかける。
右腕が獲物を絞め殺す大蛇のようにねっとりと、わたしの首元に回った。
頬をぺたぺたと叩くひんやりとした感触。
視界の端で、チカリと金属が反射する。
「ずっと好きでした。今もそうです。愛してます。諦めようとしたのに……あんなに優しく声をかけて、可愛く抱きついてくるアンタが悪いんじゃないですか……」
身体が、石にでもなったようだ。
指一本も動かないのに、呼吸だけは立派に出来てしまっている。
「子供が親を愛しちゃ駄目なんですか?どうして?かあさんは寂しがり屋だから、俺は、俺を愛して欲しい、なんてワガママは一度も口にしたことはなかったじゃないか」
耳元で囁かれる狂気を孕んだ言葉。
青色の瞳は爛々と光ってわたしを射抜く。
「先に母親の役目を放棄したのは咲璃さんじゃないですか。ねえ、ひどくないですか?今更、拒絶するなんて……俺は可哀想なアンタの為にずっと聞き分けの良い息子で、優しく甘やかす恋人で、都合の良い男だったじゃないか」
包丁の刃先がわたしの脇腹に添えられる。
「愛してます、愛してます、愛してます、愛してます。ずっと、ずっとずっと、ずっと、あいしてる、あいしてる。本当に、愛してます」
「い、や……たす、け、……」
「おねがい、俺をこわがらないで。受け入れてよ。にげなきゃやさしくしてあげますから……」
金属が、体内にゆっくりと沈んでいく。
昔と同じように、熱さも冷たさも、痛みは何も感じない。全てが遠くの出来事のようだ。
視覚と聴覚以外の感覚が全部奪われてしまった。
「愛してます。ねえ、いっしょに、ずっと、おれはしあわせになりたいんです」
この男は生きていてはいけない。
渾身の力を振り絞って、腕を振り上げる。
わたしは彼の側頭部を強く殴打した。
意識は失わなかったが、包丁から手が離れる。
彼は頭をおさえ、うずくまり呻き声をあげた。
わたしは重い身体を引きずって、縺れる足を必死で動かし、玄関を目指す。
朦朧とする意識でフラフラと歩くフローリングには、ポタリポタリと血のしずくが落ちた。
さようなら。あんなに好きだった笑顔も、あの声色も、紺碧の瞳も今は全部が黒く塗り変わってしまっている。
彼は、わたしの息子は、どうしてあんな平気な顔をしていられたんだろう。
慢心があったのだ。
わたしは誰かと共にいて、ろくなことになったためしはなかったのに。
必死で息を吸いこむ度に、唇の間から恐怖の喘ぎが洩れた。
寝室を抜けた先のリビングで、よろけた身体が本棚にぶつかって、床上に本の雪崩が起こる。
落ちた本の中から、ひらりと葉書のような薄っぺらい紙が抜け落ちる。
それが、古びた写真だと気づいた。
わたしは声を上げて驚く。
「ずっとあいしてるのに、どうしてかあさんはおれをたいせつにしてくれなかったの?」
あ。
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