カワイソウなんかじゃない

シャツ越しの肩を撫で、両手を彼の頬に当てる。

何度か深呼吸をして、決心がついたところで口付けた。

触れ合った唇は震えていたが、彼ではなくわたしだけが震えていると分かって、心臓が早鐘を打ち始める。

「俺とするキスは、お嫌いですか?」

動揺するわたしの首を掴み、彼はフローリングの床に組み伏せた。

体重をかけない度合いに馬乗りになった彼に、喉元を押さえ付けられる。

息が苦しくて、怯む。

肉食獣のように細められる紺碧の双眸。

もし今わたしが嘔吐したとして、彼はきっとそれすらも愛でるのだろう。


あの人がわたしを最初に抱いた日。

朝からざあざあと雨粒が窓に降り注いでいた。

黒い髪を濡らして、酷く憔悴したような顔をしたあの人が家にやってきたのだ。

雰囲気に負けた一夜の過ち。気の迷いでも良かった、欲望のはけ口を探した結果でも構わない。

求められたことが何より嬉しくて、止められなかった。

中学時代からずっと抱えていた初恋が、恋を栄養に育っていく。

報われることを諦めていたはずの恋心は、わたしの視界を霞ませ、歪ませる。

「一緒にイこうね」

いやに湿った声で囁かれ、思わず息を呑む。

ばらけている香色の髪に男の指が添えられ、軽く梳く。

ああ、慣れているのかもしれない、とふと過ぎった。


わたしが目を覚ましたとき、あの人はいつもPSPで遊んでいた。

ミントグリーンのソファーに寄りかかりながら、ボタンを操作している。

わたしが起きたことに気づくと、あの人は立ち上がってキッチンに向かい、棚からコーヒー豆を取り出した。

わたしの目の前でお湯を沸かして湯気のたつ二杯のコーヒーを作り上げる。

そのうち一つをわたしに差し出してきた。

「ありがとう、すっごくうれしい」

わたしはそう言って、マグカップの縁に唇をつけて黒い液体を飲む。

目覚めてはじめて体内に流し込む栄養。

あの人の淹れるコーヒーが、わたしは大好きだった。


空を厚みのある雲が覆っていて、微かな潮の香りが流れている。

灰色の波は音を立てて砕け、そして勢いよく退いていく。

白い細かい飛沫が眩しく光っていた。

砂浜の上で鮮やかな何かの破片や綺麗な貝殻を拾いながら、わたしはちっとも良いのがないとボヤく。

そんなわたしの後ろで、スケッチブックにサラサラとコンテ(スケッチペンシル)を走らせて彼は懸命にスケッチをしている。

彼は、画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホが好きだという。

自分の耳をカミソリで切り落とし、娼婦にプレゼントした男に全てではないが共感する、と。


わたしも、絵描きになるのが夢だった時期がある。

だから、家の押し入れの中に少量だけど有名ブランドの画材があったのだ。

「咲璃さんは本当に可愛いですね。きっと、死んでもずっと可愛いんだろうなぁ……」

「ねえ、はーちゃん。わたしたちって、どこまで行けるのかな」

「勿論、アンタと一緒なら俺はどこまでも。どんな未来でも二人なら必ず幸福ですよ」

「……にゃー」

わたしは振り返らず、何も分からない猫のように鳴いた。

はーちゃんはさして気にした様子もなく、コンテで紙の上を引っ掻きながらお喋りを続ける。


「愛してますよ、咲璃さん。本当に、本当に、愛してます。俺はアンタが死ぬより他の誰かに取られてしまう方がよっぽど傷つくんですよ。どうしたって許せないんです。ねえ、好き。世間が許さなくても、俺が許してあげる。皆が見捨てようとしても、俺は、俺だけはアンタを諦めません。ねえ、だってさ。俺はアンタが居ないと到底生きていけないんです。産まれた時から、ずっとそうなんだ。俺はアンタを愛する為だけに生きてきた。アンタに会わず死んでいくのはどうしても嫌だった。重要なのは今でしょう?ねえ」

優しい声色のはずなのに、背筋にはじっとりと汗が滲んだ。

彼はわたしの支離滅裂な話を、いつだって穏やかな顔のまま聞いてくれている。


こんなに愛してくれて、それなら何だって良かったはずなのに、身体が強張ってしまう。

少しずつ歩を進めていく、足元で砂が乾いた音を立てる。

わたしの手には、はーちゃんから勝手に拝借して嵌めていた腕時計が握られていた。

塩水に濡れて壊れたのか、時計の秒針がその場で揺れるばかりで動かなくなっている。

わたしが近寄ると、彼は甘く蕩けるような笑みを浮かべた。

不穏なものを隠し持ってはいても、わたしたちは親しみを込めた笑みを交わす。

そんなスタンス、いつ崩れてもおかしくない不安定なバランスで、多分わたしたちはやってきた。

天草咲璃と天草遠志は、ずっと、やってきたのだ。


帰り道、すでに空は暗い。

針金みたいに細い三日月が、黄色く赤く夜に輝いていた。

舗道の先では杉の木がまるで土から燃え上る黒い炎のように、しかし悠々と立ち伸びている。

闇の中で、わたしたちは手を繋いで歩いていた。

「あの杉、きっと糸杉ですよ」

「見ただけでわかるの?」

「さあね」

そっけない返答に、わたしは小首を傾げる。

「……糸杉と、星の見える道です」

「あなたの大好きなゴッホ?」

「はい」

その絵画は精神病院で描かれた作品である。

自らの死期を悟ったゴッホの精神状態が反映されているという。


晩年のゴッホは、死や喪の象徴とされる糸杉に強く心惹かれ、エジプトのオベリスクのように美しいと称した。

「死期って、わたしにもわかるのかな」

「どうなんですかね……あまり変なこと考えないでくださいよ。咲璃さんが死んだら、俺は」

「わたしは、あなたに死に際を見られたくないよ」

「なんで……」

「あなたは、わたしが死ぬ瞬間まで傍に居なくて良いからだよ。後追いなんてしないで、自由に生きて良いの。それに、わたしが死んだことに気づかなければ、あなたの中でわたしは永遠に生きていられるでしょ」

わたしは目をきゅっと瞑り、緊張を和らげるように深呼吸する。


それから大きく目を開くと、視界が戻ってきたような感覚。

冷たい空気が、夜の光をいっそう輝かせていた。

精神薬を過剰摂取せず、正常に現実を捉えたのは久しぶりだ。

十数年ぶりに認識した彼は、昔よりも落ち着いたように見えた。

背は高く、横顔も整っている。

宝石みたいな透き通った青い瞳は父親と瓜二つだけど、髪の色は黒ではなく、わたしと同じ香色だった。

ほんとうは、ぜんぶ気づいていたのだ。

「ねえ」

「……はい。咲璃さん。どうかしました?」

「もう、恋人ごっこするの、辞めてよ」

「、は?」

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