第三章 人生は山あり谷あり




「SS」の実力たるや、本当にすさまじかった。

 英語の時間。伊集院くんがあでやかなまでのスピーチでネイティブの先生のかつさいを受ける。音楽の自由実技発表。夏さんがうっとりため息の出るようなピアノ・パフォーマンスでクラスをりよう。体育の時間。冬馬がじゆうどうから馬術までパーフェクトな演武を見せ──。

 授業開始から一週間とたぬ間に、彼らは自分たちがまさにスペシャルな存在だと十二分に知らしめた。

「春臣くん、まだ具合が悪いみたいね。顔色もよくないもの」

「それにしても、あんまりじゃない? とても天王寺家の方とは思えないような……」

 女子のひそひそ話す声が、ここまで聞こえてくる。

「天王寺家の跡取りって言っても、たいしたコトねぇよな」

「つーか全然しゃべらねぇし、わざと気配消してねぇ? 家の格がちがうから、俺たちとは付き合う必要ないとでも思ってんじゃねぇの?」

 男子のやっかみまじりの声も全部聞こえてる。

 けど、違うんだよ。この一週間で、このクラスの人たちと自分のレベルの差を、まざまざと見せつけられた。おかげで元からゼロだった春臣さんを演じられる自信が、マイナス限界まで目減りして……。

 だから、たまにクラスメイトに話しかけられても、「バレるかも」って考えが先に立って、とたんに言葉が出てこなくなる。

 私のほうはむしろみんなと仲良くしたいって、すごく思ってるんだけど……。

 夢だったリア友づくりも遠のくばかりだ。

 私はぼろぼろになった心で右に左によろめきながら、りように帰る並木道を急ぐ。

 カラスがわざわざ私の前に止まって「カァ」と鳴くのすら、「バカ」って聞こえてしまう。

 部屋にかんするなり、洗面所できゆうくつなネクタイと、あんまり窮屈でもない胸を押さえる特別製の下着から解放されて、部屋着でソファにたおれこんだ。

「君、今日もゆかいな仕上がりだったな。どうすればあんな事になるのか、インタビューしてみたいくらいだよ」

 いつしよに帰ってきた夏さんが、クロゼットに向かったままあきれまじりに言う。

「逆にどうすればいいか、私がインタビューしたいです……」

 ソファに顔をうずめたまま、息もたえだえに返事する。

 ゆかい。そう、彼の言うとおり、今日もすごく、ゆかいな仕上がりだったんだ。

 英語のスピーチでは、前日必死にげん稿こうをしこんだにもかかわらず、なんとか出番が終わったと思ったら、教室中ぽかんとしてて。その時、伊集院くんが「Fan-bloody-tastic!」って声を上げたんだ。

「Fantastic」は「すごい」って意味で、「bloody」は「血まみれ」だから──、

 めっちゃ血まみれ!?

「大丈夫!?」ってハンカチ出して彼に飛びつくと、伊集院くんは目をまん丸にするし、みんな絶句するし。

「結局、『Fan-bloody-tastic』って、どんな意味だったんです?」

 いつの間にかラフな姿になってた夏さんは、シャツのそでをまくりながら私を見返る。

「イギリス人が使うスラングだよ。『すっげぇイイね』ってこと」

 おお、じゃあめてくれたんだっ。

 ……なワケない。あれは伊集院くんの表情からして、皮肉だった。

「英語もなかなかだったけど、俺としては音楽の実技もけつさくだったな」

 夏さんは炭酸水のキャップを回して、ちょっと笑う。

「だって私、楽器なんて何一つまともに習ったことないんですから」

そうな顔して前に出てきたと思ったら、トライアングルをチーンチーンって鳴らしながら、ぶつぶつ重低音の一本調子って、むしろ感動したよ。あれ、お経かな?」

「たぶん歌です。オンチですみません……」

 きわめつけに体育の馬術じゃ、馬にまで存在をスルーされ、乗る前から相手にしてもらえなくて。追いまわしてるうちに昨日の雨の水たまりにひっくり返って、頭からどろまみれ。

 冬馬が私の馬をつかまえて女子の株を上げたときのドヤ顔も、クラスメイトがどん引きする顔も忘れられない。

 ソファのクッションにめりこんだまま、もう起き上がる気力がない。

「俺はこれから練習室行ってくるけど、一応、部屋のかぎはかけておきなよ」

「あ、はいっ」

 これからピアノの練習か。もう夕飯まで時間もないのに、すんしんでエラいなぁ。

 目だけで彼を見送ってると、横を通りすがろうとした夏さんが、ぴたりと立ち止まった。

「……なんか君、くさくないか」

「え? ああ、さっき馬場でひっくり返ったとき、泥まみれになったからかなぁ」

 ジャージはえたし、頭や顔もれタオルでふいたんだけど、まだ土臭いかな。

「まさか洗ってないのか」

「入浴は、夜る前に一度の習慣ですから」

 水もったいないし、セッケンも減るし。

 きょとんと顔を上げた私は、彼の形相におののいた。うすく笑ったいつものがおのままだけど、目だけ、目だけ笑ってらっしゃらない!

「おいで」

 ぐわしっと首ねっこをつかまれ、天国ソフアから引きずり下ろされる。

「夏さん、ピアノしに行くんじゃなかったんですかぁっ」

どろくさい同居人を持つ身にもなれ。そのソファもテーブルも共用だぞ」

 寮にも私の安らぎはないらしい。洗面所のボウルに頭をつっこまれかみをがっしがしあわてられ、私は悲鳴を上げながら、はらわなくてもいい寮の水道メーターが回るのを心の中でカウントしていた。



 そして──。

 ぶおおおお、と頭にきつける風が、ぬくぬく気持ちいい。

 ソファに座らされた私の後ろで、夏さんが無言でドライヤーをあやつっている。

 髪に差しこまれた長い指が、毛先までていねいにすべって、またもどってくる。

 ピアニストの指に髪をかわかしてもらうなんて、身にあまりすぎる光栄なのでは。

 しかもドライヤーまでお借りして、まことに申し訳ないかぎりだ。

「あの、夏さん。自分でやりますから」

「『do』と『can』はちがう。君の場合、やってはいてもできてない。まさかいつもセッケンで髪まで洗ってたとはね。やたらから出てくるのが早いなとは思ってたけど」

 ものすごくあきれた声が頭の上に降ってくる。

 男の人らしい低い音が、なんだかこそばゆい。

「だって、夏さんが五分で出てこいって言うから」

 ぱっと見上げると、真上の彼の顔が案外近くにあって、私は目をまたたく。

 ──夏さんってキレイな顔してるよなぁ。

 伊集院くんはぶわっといた大輪のバラって感じだけど、夏さんはスッキリ整ってて、いくらながめててもきないかんじだ。

 さつえいしたいなぁ。とうさつしたらおこるよね。夏さんのピアニスト的なプロモーションビデオを作ったらどんな風になるかなぁなんて、ムズムズしてしまう。せっかくパソコンが届いたのに、勉強がいそがしくて動画作りの内職も休み中だから、よけいにもうそうがたぎっちゃうよ。

 と、手のひらでぐいっと頭を押し下げられた。

「ほら、えりあし、乾かないから下向いて」

 彼の指が、首すじの髪をやさしくこする。

「く、くすぐったいですっ」

「勉強するんだろ。すぐ乾くからテキスト見てろ」

 ひざの英語のテキストに目をもどすけど、くすぐったくて集中するどころじゃない。

 けど私、三ヶ月間の任務を果たすには、SSの三人並みはムリでも、そこそこお茶をにごせる程度にはならないと。

 もくもくと今日の復習にいそしみだすと、夏さんも話すのをやめる。

 部屋がしんと静まってしまったけど、夏さんはもともと必要がなければだまってるタイプだから、気づまりじゃない。

 ドライヤーの音と、時々私がページをめくる音だけが、二人だけの部屋にひびいてる。

「君は、」

 とうとつに夏さんが口を開いたから、私は手を止めて、彼を見上げようとする。

 けどこっちを向くなとばかりに、手のひらが頭を押さえつけてきた。

「君はあきらめず、よくやるな。俺なら、あれだけはじをかかされたらイヤになってほうり出す。借金のためとはいえ、プライドはないのか?」

「そりゃ、父の安否がかかってますから。また家族三人で暮らしたいですもん」

「せっかくばした髪まで切られて?」

 私はきょとんとして、そういえば春臣さんの美容スタッフに切られたっけと思い出した。

「それは確かにビックリしましたけど。でも髪は無料でまた伸びますし。それにTEMAになるときはちやぱつのウィッグ使ってるから、だいじようです」

 夏さんはふうんとつぶやいて、また静かになってしまった。

 私はテキストをめくる。授業中のメモで紙面がほとんど真っ黒だ。

 私はそれを目でたどりながら、あれ、と首をかしげた。この構文、習ってない気がする。

「夏さん、ここってどう分解すればいいんですか?」

「……ああ」

 彼はのぞきこむなり、私のペンを取って、例題の品詞をひょいひょいと区切っていく。

「英語の構文は丸暗記するより、ネイティブが使いやすい言葉のクセなんだって意識しながら理解したほうが、忘れないよ」

 彼の丁寧な解説を一言一句聞きもらすまいと頭をフルどうさせてから、いざ問題にチャレンジしてみると──おお! できた!

「よし、正解」

 上からも満足げな声。

「ありがとう夏さん! この調子でガンガン勉強すれば、ちょっとはみんなに追いつけるかな」

「……そうかもね。君、こんなじようきようでも前向きだからおどろくよ。楽しそうだし」

 風の音の後ろに、夏さんのつぶやくような声が聞こえる。

「え? 私、楽しそうですか?」

「なんだかんだ、逆境を楽しんでるように見えるけど。今も、学校でも」

 思いがけないコトを言われて、私はペンを止める。

 慣れない男装して、クラスメイトとはうまく交流できなくて、やらなきゃいけない、覚えなきゃいけないことも山ほどあって。めちゃくちゃしんどいつもりだったけど。

 私はテキストに目を落とし、夏さんが書きこんでくれたたんせいな文字を見つめた。

 そうしていたら──、ああそうかとに落ちた。

「夏さん。よく考えてみたら、私、こんなふうにお金の心配せずに勉強に打ちこめるのって生まれて初めてなんです。その上ちゃんと屋根があるところに住めて、ご飯も食べられるし、ルームメイトは私の知らないこといっぱい知ってて、聞けば教えてくれて──」

 夏さんに話しながら、だんだん、ヘコんでた気持ちがゆっくりと起き上がってきた。

 しんどいのは確かだけど、言われてみたら、どうにか乗りこえたいとは思っても、ここからげようって気はすっかりなくなってる。

 それは、私自身が今の状況をありがたいって思ってるからだ。

 クラスメイトにはまだ遠巻きにされっぱなしで仲良くなれてないけど、三ヶ月もあれば、心のキョリも縮んで、夢だった青春生活だって送れちゃうかもしれない。

 今までの暗黒生活を思えば、ホントにせき、だよなぁ。

 明日あしたから、もうちょっと積極的にクラスメイトにも話しかけてみようかな。こわがってたら、誤解されたまま時間が過ぎていっちゃうだけだ。

 春臣さん精神で、奇跡はつかんで、利用しないと。

 ──うん。なんだか、久しぶりにやる気が返ってきてくれた。

 気合いのコブシをにぎると、夏さんがドライヤーの電源を切った。

 手が引っこんで頭の重しがなくなったところで、私はふいに思いついて、彼をパッと見上げた。

「そうだ! こんな日々こそ、Fan-bloody-tasticすつげえイイねですよね!」

 つい、がお全開になってしまった。

 彼はドライヤーを持ったまま、今度こそ時が止まったように動かなくなる。

「……あれ。私、また使いどころまちがってました?」

「いや、合ってるよ」

 夏さんは我に返ったようにセキをして、ドライヤーのコードを巻き始める。

「……そうだな。俺にとっては、そういうかんきようって当たり前にあるものだったから、むしろ重荷くらいに思ってたけど。本来、感謝すべきものなんだろうね」

「重荷?」

 首をかたむけると、彼は小さな笑みをかべて、私の頭をポンとたたく。

「今初めて、君がTEMAと同一人物だって気がしたよ」

 どうしたんだろう。

 この複雑な人が何を考えてるかなんてわからないけど──、今の手のひらが、それにはにかんだようなこの笑顔が、うわべだけじゃなくって、ホントに優しかったように見えた。

 ぽかんと見上げてると、

「ほら、食いっぱぐれる前に学食行くよ。その後、勉強みてやる」

「えっ、えっ、いいんですか? 夏さん、ピアノの練習があるのに」

「ただし、その敬語やめたらな。俺も呼び捨てでいいから。テマリ」

 すいっと横を向いてしまった彼の表情は見えなかったけど──、彼が初めて、「君」じゃなくて、私の名前を呼んでくれたんだって気がついた。

 下の名前を呼び捨てって……まるですごく親しい友達みたい。

 夏さんと友達なんて、もうそうにしたって身のほど知らずな考えだけど、でも、うれしいな。

 その後はずっとニヤニヤが止まらなくって、夏さん──じゃないや、夏に、「勉強しすぎて脳がゆだったんじゃないのか」なんて、気味悪がられてしまった。





<続きは本編でぜひお楽しみください。>

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