一小節目「消えた秘密のノート」②


 チョークの音だけが教室内にひびいている。

 幸せって何だろう?

 もくもくと板書する先生のうすくなった後頭部をぼんやりと見つめながら、さっき香澄と話したことを思い返していた。


 お金があること。

 愛する人がいること。

 熱中できる何かがあること。

 私が思う幸せの定義とはそんなところだ。


 お金。半分になっちゃうけど、おづかいはちゃんともらえている。

 愛する人。最近口うるさいけど、お父さんとお母さんのことは好きだし、香澄のことも大好き。あと、スクダンの主人公のケイタ君のことも。

 熱中できる何か。スクダン。


 こうして考えると、今の私はきっと幸せ者なんだろう。

 ただ残念なことに、幸せであり続けることは簡単ではない。強運や特別な才能の持ち主でもない限り、常に努力していなければならない。

 たくさん勉強して、良い大学を出て、良いぎように就職して。

 それらは先を生きる大人たちがいだした、言わば「幸せになるための定石」だ。そして、それは正しいことなんだと思う。


 でも、幸せのあり方はひとつだけじゃない。私たちの目の前には無限の景色が広がっている。

 本当に自分が見たい景色に向かって自分の足で歩くべきなのに、実際には大人が用意してくれたそうされた道路の上を、手を引かれながら歩いていく。

 ちょっと寄り道をしようものならきつくしかられ、ただひたすらに、大人たちが見せたい景色に向かって歩いていく。


 そして、いつかは必ず、つないだ手をはなす日がおとずれる。

 そのとき、私はきっとほうに暮れるんだろう。

 どっちに進めばいいのか、どうやって歩けばいいのか。それすらもわからずに──……。


 ……よし、良い感じだ。こういう感傷的な気分のときは良い作品が書ける。


 カバンからこっそりと一冊のノートを取り出した。

 コンビニで百円で買える、シンプルなデザインのダブルリングノート。教科名も自分の名前も書いていないこのノートは、勉強のために用意したものではない。

 周りから見えないように気を配りながらそっとページを開くと、ていねいな字で整然と並べられた言葉の数々が目に飛び込んでくる。


〈サイレントワールド〉


 ここは音のない世界

 だれかの悲しい泣き声も 誰かの心ない言葉も

 私の耳に届くことはない


 ここは音のない世界

 誰かのじやな笑い声も 誰かをおもう愛の歌も

 私の耳に届くことはない


 悲しみも喜びも

 伝わらなければないのと同じ


 助けを求める私の声も

 誰かの耳に届くことはない


 これは去年の十二月に書いた作品。

 家にいると両親が「勉強しなさい」だの「部屋を片づけなさい」だのうるさくて、外に出かけると街中どこもリアじゆうとクリスマスソングばかりでうるさくて。静かな場所がこいしくなって図書館にこもっているときに書いたものだ。ちょっと痛いくらいのみ具合が気に入っている。

 さらに別のページを開いてみる。


〈ラストフラワー〉


 去り行く背中に向かって

 僕らは手をった

 サヨナラのためじゃない

「ここにいるよ」と伝えるため


 大空に花をかかげる桜の木のように

 僕らは手を振った


 これは去年の春に、スクダンのアニメ第一期の最終回をごうきゆうしながら書いた作品だ。

「スクール☆ダンサーズ」はとある男子高校のダンス部の日常をえがいたテレビアニメで、最終回の見どころは卒業していく三年生のせんぱいたちが主人公たちと別れる感動的なシーン。

 ノートに落ちたなみだで、ひつせきにじんでいるところがある。

 マズイ。今思い出してまた泣きそうになっている。ああ、如月きさらぎ先輩……。


 ……と、まあ、こんな風に、このノートは私が今まで書いてきた詩でくされている。

 詩。そう、英語で言うとポエム。

 スマホがきゆうし、SNSで簡単に感情をき出せるこの時代。ノートに詩を手書きするなんていう古風なしゆをもった女子高生は、おそらく日本に十人くらいしかいないと思われる。

 そのうちの一人が私、櫻井遥だ。

 小学生のころからの趣味で、ノートはこれで八冊目。毎日の生活の中で感じたなやみ、不安、悲しみなどの感情をもとに思いのまま書き連ねている。ほとんどがネガティブな内容で、ポジティブな作品が生まれるのはごくまれだ。

 今の二つの作品はまだマシなほうで、自分でも目をおおうような痛々しいものもある。このノートが他人の目にれることは、つまり私の社会的な死を意味する。絶対に誰にも見られてはならない。

 本当なら自宅の机の引き出しにかぎをかけて保管しておきたいところだけど、困ったことに作品のアイデアというのは夏の夕立のようにとつぜん降ってくるもの。そのとき、なるべくせんの高い状態でノートにしたためるために、こうしてカバンに入れて持ち歩いているのだ。


 さあ、さっきの感傷的な気分がうすれないうちに新作を書いてしまおう。

 私は静かに目をつむった。

 くらやみの中で「これだ!」と思うフレーズを探す。

 周囲の情報や、雑念を取りはらうには目を閉じるのが一番。ただ、授業中にこれを長くやりすぎるとねむりしていると思われてしまうので注意が必要だ。


 さっきまで思いをめぐらせていたこと。

 幸せとは何か。

 子どもたちの幸せを願う大人たち。

 自分が見たい景色。

 大人が見せたい景色。


 頭の中にあるばくぜんとしたイメージをけずり出し、言葉のりんかくを形作る。


 うん、いける。

 すぐに目を開けてシャーペンを手に取った。

 板書を書き写すフリをして黒板をチラッと見ながら、ノートにしんさきを走らせていく。


〈グリーンスカイ〉


 目の前に真っ白なキャンバス

「好きな風景をいて」って誰かが言う

 私が描いたのは緑色の空と青い色の草原


 その人は不満げに笑って

「好きな風景を描いて」ってもう一度言う

 ようやく気づいたの

 私の好きな風景じゃダメなんだと


 仕方なく青い空と緑の草原を描いた


 この手は何でも生み出せる

 この足はどこへでもいける

 そのはずだった そのはずだったのに

 誰かの顔色を見てしまうのは自分自身

 私が描きたい景色は何?


 そこまで一気に書き上げて、私はシャーペンを机に置いた。

 書きながら言いたいことが変わってしまうことはよくある。この詩も、最初は大人に対する不満を表現するはずだった。

 でも、そうじゃない。原因は大人ではなくて「自分自身」なんだ。

 本当はそれがわかっているから、言葉になって姿を現す。


 ふと、窓の外に目をやった。

 絵の具をりたくったようにあざやかな青空が一面に広がっている。


 私が描きたい景色って何だろう?


■□■


 その日の夕食は気が重かった。

 中間テストの結果を受け、我が子のおづかい金額を議論する両親。

 私はただだまってご飯を食べ、決議を待つしかなかった。


「まあ、大目に見てもいいんじゃないのか? 平均点を下回ったのはたったの一教科で、しかもギリギリだったんだから」

 そう口にしたのはお父さんだった。

「それに、大好きなテレビ番組を観るのもまんして勉強がんってたんだろう?」

 ああ、いつもたよりないお父さんが神様のように見える……あとでかたもんであげよう。


「え、姉ちゃん、こっそりスクダン観てたよ」

「ちょ、ちょっと! つばさ!」

 勢いよくちやわんをテーブルに置き、弟の翼をにらみつけた。この子はいつもこういうかんじんなときに空気の読めない発言をする。

 おそるおそる両親の顔色をうかがうと、二人ともあきれた目で私を見ていた。

「だめです。甘やかすのは遥のためにならないわ。頑張ることはもちろん大事。でも、社会に出れば結果しか見られないことがたくさんあるんですから」

 そう言って、お母さんは食べ終わった自分の食器をキッチンに運んだ。


「でも、なあ……あまりに恩情がないというか……」

 お父さん、ナイス……もうちょっと頑張って……。

「あら、じゃあ、お父さんの月々のお小遣いから遥にあてがってもいいの?」

 洗い物をしながらお母さんは背中で冷たく言い放った。

「おい、翼。ブロッコリーも残さず食べなさい」

 目を泳がせながら話題を変えるお父さん。

 なし……!


 櫻井家のお小遣い金額決定会議はこれにてしゆうりようした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る