壱幕 帝都桜京大正浪漫 第二場

 不意に勢いよく扉が開いて、二つの人影が飛び込んできた。

 は慌てて、そちらを振り向いて目を丸くする。

りん!? れん!?」

姉──────────!!」

 左右から飛びついてきた双子のきようだいを、はぎゅっと腕をまわして抱きしめる。

 まるで生き別れの姉に久しぶりにったかのように、しばらくにしがみついていた二人は、やがて腕を緩めると不安そうに顔を上げる。

姉、気がついたんだね、良かったー! あのままずっと目を覚まさないんじゃないかと心配したよ。あの忍者にやられたは、もう治ったんだね!?」

「忍者って……どうしてれんがボクの見た夢の中のことを知っているの?」

「夢? 夢なんかじゃないよ。姉がをしたのは現実だよ。かい兄たちが必死にあの忍者を捕まえようとしてくれているから、もう心配ないよ」

 かい兄たちが? でもあのチャンバラ冒険活劇が現実っていったい……。

姉の意識が戻ったって聞けば、かい兄たちも喜ぶよ。僕、知らせてくる。あ、そうだ。姉、おなか減ってない?」

 は自分のお腹に手を当てた。その途端、思い出したかのように空腹感を覚える。

 まるで一週間くらい何も食べてないみたいにお腹がぺこぺこだ。はうなずく。

「やっぱりね。きっと怪我の再生に力を使い果たしたんだよ。普通の人間なら死んでもおかしくない怪我だったからね。いくら能力の優れた『かみつき』とはいえ、もうしばらく寝ていた方がいいよ。僕、じいって姉のご飯用意してもらってくる」


 ──カミツキ?


 よほど早くかいに知らせにいきたいのだろう。部屋に入ってきたときよりも、さらに勢いよく部屋を飛び出していくれんを、は呼び止める。

「待って、れん! 死んでもおかしくない怪我って何!? ボクどこもなんともないよー!」

 夢の中の話なら、れんだって目に大怪我をしたはずだ。それがなんでもないということは、やっぱりあれは夢の中の出来事だったわけで……。

「頭を怪我したから、記憶が混乱してるんだよ。りん姉のそばに付いていてあげて!」

 弟の言葉に、りんはこくりと静かにうなずいた。

 そしてれんはそれだけ云い残すと、の混乱をよそに、扉も開けっ放しで今度こそさっさと出ていってしまった。

 慌ただしく遠ざかっていく弟の足音に苦笑しながらは扉を閉めると、看病を任されて取り残されたりんに向き直る。

「ごめんね、なんだか心配かけたみたいで」

 どこか作り物めいた硝子ガラス細工のようなりんの瞳がを見つめた。

〈──痛クナイ?〉

 そうつぶやいたりんの唇は閉じたままだ。

 いったいどこから今の声が聞こえたのか、は首をかしげた。

〈──痛クナイ?〉

 同じことを繰り返し問う無機質な声は、彼女が大切に抱きかかえているレトロな布製の洋装人形──文化人形から聞こえる。それはまるで腹話術か手品を見ているようだった。

「う、うん、もう痛くないよ。ありがとう、りん

 とまどいながらもは人形が声を発するという、最近の玩具おもちやのアイデアや精巧さに感心しながらりんの頭を撫でる。

「しゃべる文化人形なんて素敵、めいねえ姉に買ってもらったの?」

「…………」

 りんは撫でられるまま大人しくしている。

 またたきすら忘れたりんうつろな瞳は、どちらが人形なのか判らなくなりそうな錯覚にとらわれる。


 なんだろう、この『違和感』──。


 りんはもっと快活で利発な少女のはずだ。

 もしかしたらりんの方こそ具合でも悪いのかもしれない。

「ボクはもう大丈夫だから、りんこそどこか痛いところやつらところがあったらきちんとわなきゃ駄目だよ?」

 その言葉にりんの顔をジッと見つめ、数秒遅れて、こくりと小さくうなずいた。


 バ───────ン!!!


 突然けたたましい音とともに、部屋の扉が吹っ飛んだ。


 ──なにごと!?


の意識が戻ったというのは本当か!?」

 唐突な出来事に、驚いて振り返ったの視線の先に、長兄のかいが息を切らせて突っ立っていた。鏡台の前に座ってあつにとられているを見つけるなり、血相を変えて駆け寄ってくる。その後ろには、長姉であるめいも一緒だった。

「皆がどれだけ心配したか……」

 かいは言葉を詰まらせての両肩に手を掛けると、あんしたようにその場にへたり込んだ。


 ──おおだなあ。まあ、心配性のかい兄らしいけれど。


 そういえば、しようがつこうの徒競走で転んだときも、かい兄が救急車を呼んで大騒ぎになったり。

 料理中にボクが誤って包丁で指先をちょっとだけ切ってしまったときも、かい兄に包帯で体中ぐるぐる巻きにされたり。

 テレビで怖い映画を見て眠れなくなったときも、ボクの隣でかい兄がずっと歌ってくれて、結局、朝まで眠れなかったり。

 遠足のバスでボクが車酔いしたときなんか、突然、走っているバスの窓の外からかい兄が現れて、酔い止めの薬を手渡して、そのまま去っていったり……。

 語り出したらそれこそきりがないけれど、兄は超がつくほどの心配性なのだ。

れんも心配してたけど、どこもしてないからもう大丈夫。めいねえも心配かけてごめんね」

 扉の外れた入り口に立つめいにもはほほえんで見せる。めいは優しくうなずくと、軍帽のような帽子を脱ぎ、ほっと胸を撫で下ろした。

「…………」

 あんないかつい軍帽や軍服をめいねえが持っていただろうか?

 は改めてきようだいたちを見つめた。

 一度引いたはずの『違和感』が、再び波のように押し寄せる。

 見た目はの知る兄姉にうりふたつだというのに、何かが違う……?

「ねえ、かい兄もみんなも、どうして変な着物袖の衣装を着ているの?」

 かいめいりんだけではない。今は部屋にいないれんも、昨夜見た冒険活劇の夢のときとまるで同じ服装だ。

「何をってるんだ。軍人なら軍服を着用して当然だろう」

「ぐ、軍人!? 誰が?」

「俺たちだ。お前とりんれんはまだ見習いの『がくへい』ではあるが」

 ようやく平常心を取り戻し、軍帽のかぶり位置を直しながら立ち上がるかいを、は驚いた顔で見上げる。

「さっきから軍人とか學徒兵とか、あとお嬢様とか、いろいろなんのこと?」

「お前の方こそ、いったいどうしたんだ?」

 げんそうにを見つめるかいへと、めいが近寄り声を掛ける。

「外傷は完全にしたようだけれど、でも──今の言動からすると、記憶障害でも起こしているのかしら?」

「昨夜の戦いで頭を強く打った、その後遺症か……」

 真剣そうな面持ちで顔を見合わせる兄と姉へ、は不安げに問い掛ける。

「もしかして、ボクどこかおかしいの? 記憶障害ってどういうこと?」

「頭を強打し、おそらく一時的に記憶が混乱しているんだろう。後で辞書でも引くといい。昔から云っているだろう、わからないことは辞書を引けと。だがさすがにここがどこか位はわかるだろう?」

「ううん。さっきも暖炉にまきをくべてた女中みたいな人に、ここがどこだかわからないって云ったら、ボクのこと頭がおかしくなったって」

 は口をとがらせた。

 そりゃあ、がつこうの成績はかなり低空飛行ではあるけれど、なりに努力した結果、その成績なのだ。だからといって、見ず知らずの女中にまであんな風に云われたくはない。

「……確かにおかしいな」

「え?」

 そこは否定してほしかった。

「俺が誰だかわかるか?」

 さり気なく分けた前髪の奥で、に向けられた気遣わしげなあおい瞳が揺れている。不安を煽るようなかいの質問に、はおそるおそる答える。

かい兄でしょ? 変なことかないで」

 だが、かいの厳しい表情は少しも晴れない。それどころか、まゆに刻まれたしわは、ますます深くなるばかりだ。

 ど、どうしてそんな顔するの? まさか、違うなんてわないでよね。

「そのお前らしくもない奇妙な言葉遣いは、いったいどうしたんだ?」

「えっ。そこ!?」

 意表を突かれたとんきような声を上げる。

「いつも『御兄様』か『かい兄様』と……、そう呼んでいただろう?」

「お、おにいさま!?」

 は兄から顔を背けると、口元を押さえた。

 なあんだ、みんなして、ボクをからかっていたんだ。でも今のはかい兄にしては珍しく、こんしんのギャグだった。思わず噴き出してしまいそうになるくらいに。

「じゃあ、ボク……めいねえのことも、『御姉様』って呼んでいたとか?」

 兄と姉の冗談に付き合って、も冗談で返答する。

「いいえ。あたしのことはめい姐よ。でも変ね……なんだか、が別人みたい。本当に記憶障害のせいかしら?」

「……それしか原因は考えられない。あのとき、かなり強く頭を打っていたからな……、今日が何年の何月だか答えられるか?」

 え、まだ続けるの、それ!?

「平成二三年の四月でしょう?」

 云い知れぬ不安が再びの胸に押し寄せてくる。

 は先週、中学二年生の始業式を迎えたばかりだ。その週末に、みんなで桜の花見に出かけたのだから、この質問は間違えようがない。

 しかし嫌な予感は的中した。かいめいの表情が一変して凍りつく。

 めいは口元を手の平で押さえて顔を背け、かいも沈痛な面持ちで改めての顔を見据えた。

「ヘイセイ? なんだそれは……」

 はしどろもどろに言葉を返す。

「いや、なんだそれはと云われましても、平成は平成としか説明のしようがないよ……」

、いいかよく聞け」

「な、何、かい兄。そんな怖い顔して」

 本能的に、この話の先を聞いてはいけないような気がして、は身構える。

 もし聞いてしまったら、何か取り返しのつかないことになるかもしれない。

 の平坦な胸が、得体の知れない不安で満たされていく。

「『ヘイセイ』とやらは初耳だ。今は大正一〇〇年、ながつきの一七日。そしてお前は、このせいしやく家、華族の娘だ」

 思わず耳をふさごうとしたが間に合わなかった。

 兄たちが何をっているのかまるで理解できない。

 しかも兄の言葉は、の想像のそれをはるかに超えていた。

「た、大正一〇〇年!? し、ししゃくって何? かい兄こそ記憶障害なんじゃないの!?」



「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 かいは口から魂まで抜け出てしまいそうな深いため息をついた。


 ──なにごと!?


 不安のあまり、つい声を荒らげてしまっただったが、兄の姿を見て思わず押し黙った。

 床に手を突いたその姿は、まるで甲子園の決勝戦の最終回、逆転サヨナラ満塁ホームランを打たれて、マウンドに沈み込んだピッチャーだ。

 はこんなに打ちひしがれ落胆する兄の姿を、かつて一度も見たことがなかった。

「俺の育てたはどこへ行ってしまったんだ……」

「えっ。ボクならここにいるよ?」

 の言葉に、かいは首を横に何度も振って嘆く。

「自分を『ボク』などと呼ぶ妹など、俺は知らん!」

「ええっ!?」

嗚呼ああ、俺はお前を華族の娘として、どこに出しても恥ずかしくない『完璧なしゆくじよ』に育て上げたはずなのに……」

 ぶつぶつと意味不明な言葉をつぶやいている兄の姿を見かねて、は自分の境遇も忘れて思わず口走る。

「へ……、平成から来てごめんなさい……」

 とにかくなんでもいいから謝って、兄の心を救わなければ……。このままだと本当に壊れてしまいかねない雰囲気だ。

「聞いたか、めい。あああ、俺のがまたおかしな事を口走り始めた……」

貴方あなた、他に行くあての無くなったを、せい家に引き取って、実の妹以上にそれは変態……ううん、大変、できあいしてたものねえ」

 めいは心の底から同情しているような口ぶりで云い、頭を抱えくずおれるかいかたわらに膝を突くと、その背を慰めるようにてのひらでさすった。

姉、食事の到着だよ!」

 かいがいつまでも立ち直れずにいる間に、れんが、初老の男性と先ほどまきをくべていた女性と同じで立ちの女中たちを幾人も引き連れて戻ってきた。

 いつものことなのか、女中たちは手慣れた手つきで先ほどかいが吹っ飛ばした扉を修繕すると、テキパキと室内に食事を運び入れる。

 そんな中、初老の男性がかいへと向かい一礼し、うやうやしく口を開いた。

かいお坊ちゃま。今しがた、まえ大将閣下からげんがございまして、後ほどこの師団に登営するようにとの仰せです」


 ──かいお坊ちゃま!?


「わかった。後ほど向かうと返答しておいてくれ」

 いつの間に復活したのか、ぜんとした動作で起立したかいは、手を後ろに組み重々しくうなずくと、さらに初老の男性と女中に向かって厳しいこわい渡す。

は任務で負ったのせいで、一時的に記憶障害を起こしている。今後は今まで以上に俺の妹を注意深くしっかり世話してやってくれ」

「承知致しました」

 初老の男性はかいにうやうやしく頭を下げると、女中たちを連れ部屋から出ていった。

 まるで別人のように威厳を増したかいに、あつにとられながら、小声でれんたずねる。

「……今のおじさん、誰?」

じいだよ。このせい家の執事」


 ──執事……? 物語の中でしか見たことが無かったけれど、本当にいるんだ。


「じゃあ、さっきの『おゲンワ』って何?」

「幻話は幻話だよ。遠くの人とお話が出来て便利なんだ!」

「え、それって電話と何か違うの?」

「デンワ? 何それ?」

「電話は電話だよ。電気を使ってお話出来る機械でしょ」

「違うよ、幻話は『げん』で動くんだよ。ラジヲや冷蔵庫だって。僕、がつこうで習った」

「學校で?」

「この世界はなんでも幻氣で動いているんだ」

「『』で!? そんなアバウトなものでこの世界は動いてるの!?」

 何がなんだか、さっぱりわからない!!

「……本当に大丈夫? 姉」

 頭を抱えるに、れんが気の毒そうに声を掛けた。

かい、ちょっと」

 暖炉を背にして立っているめいが目配せすると、近づいたかいに何やら耳打ちをする。はその話の内容が少し気になったが、小声で話しているせいで全く聞こえない。の知る兄と姉もいつもああして二人だけでよく会話を交わしていた。見慣れないのは着ている服と、その周りの風景だけで、かいめいも、そしてりんれんの知る家族の姿だ。

 やはりが意識を失い夢を見ている間に世界で異変が起きたのか、それともが平成と呼んだ世界が幻だったのか、考えれば考えるほど、頭が混乱しそうになる。

 そんなの様子を心配そうに見ているりんれんに、かいが声を掛ける。

りんれん。あとのことは俺に任せろ。お前たちは巡回に出かける時間だ」

「え────」

 かいが頃合いを見計らったようにうと、れんはすかさず抗議の声を上げた。

「僕、もうちょっと姉と一緒にいたい」

〈──イタイ〉

 りんりんの文化人形も一緒にうなずいた。

 うわ、あの人形、おしゃべりするだけじゃなく、動くこともできるんだ? まさかあれもゲンキで動いてるのかな。まあ、元気なのに越したことはないけど……。

「……あれ? めいねえは?」

 が文化人形に気を取られている間に、ふと気づけばめいの姿が消えている。

めいには一足先にこの師団本部へ向かってもらった」

 いったいいつ部屋から出ていったのだろう……全く気づかなかった。

かい兄はめいねえと一緒に行かなくて良かったの?」

「お前は余計な心配をしなくてもいい。本部には後で向かう」

「ううん、ボクなら大丈夫、ここの周りの様子も確かめてみたいし……」

 その言葉にかいは心配そうにの顔を見る。

「確かめる……? 大丈夫なのか? 外傷ではない。頭の方だ」

 失礼な。

 しかし、これだけ皆に頭がおかしいと云われ続けると、さすがに自分でも自信が持てなくなってくる。だからこそ、これが夢でないのなら、今自分がどんな状況に置かれているのか、少しでも外の世界をこの目で見て確認しておきたい……は大きくうなずいた。

 その様子にかいは小さなため息を漏らすと、軍帽を正しへと向き直る。

「わかった。俺も付き合おう。記憶を早く取り戻すには、生まれ育った『帝都』を自分の目で見るのが手っ取り早い。食事を済ませ、支度が出来たら下りてくるといい。ただし玄関先まで一人で来られないようなら今日は大事をとって一日安静にしているんだな。その方が『再生』も早まるだろう」

「サイセイって?」

「……辞書を引け。さっきも云ったはずだ」

 そうこたえ、きびすを返したかいの背をれんが慌てて追いかけると、りんもその後に続く。

「ねえかい兄。あとで姉をいつものカフヱに連れてきてよ。この間『シベリア』食べようって姉と約束してたんだ」

 かいがうなずくと、れんは大喜びでりんの手を取り、またあとでねとに声をかけ部屋を出ていった。またしても耳慣れない言葉の登場には首をかしげる。

「シベリア……?」

 部屋を出ていきかけたかいが軍帽のびさしを上げいぶかしげに振り返る。

「辞書を引け」

 かいは、ばたんと大きな音を響かせ、後ろ手に扉を閉めた。


「…………」


 静まりかえった部屋に一人残されたは用意された食事を済ませると、きょろきょろと辺りをうかがう。見れば見るほど豪華な部屋の造りに圧倒されながらもクローゼットとおぼしき場所を見つけ、そっと折りたたみ扉に手をかけた。

「えーっと、やむを得ずお邪魔します、お借りします……かな?」

 念のため断りを入れながら扉を開けると、けんらん豪華なにしきの世界が目の前にひろがっていた。二、三〇畳はあると思われる部屋一杯に、ところ狭しと並んだ色取り取りのワンピースにドレスやケープに毛皮のコート。それに、着物袖の付いたがくせいふくまで揃っていた。

 は學生服の隣に夢の中で自分が着ていた軍服を見つけると、迷うことなくそれを手に取り袖を通してみる。

 間違いない、これは兄と姉が着ていた物と同じデザインの軍服だ。

 兄と姉の姿を思い出しながら、は一通り身支度を済ませると、おそるおそる鏡台の中の自分の姿をのぞき込む。

 両手を拡げ着物の袖をぴんと張り、そのままくるりと一回転してみた。

 うぐいす色の長い二本の束ね髪がゆるやかな弧を描けば、その中心で桜の花片はなびらのようにちようしゆんいろのスカートがふわりと躍る。

 次いでおもむろに右手を掲げると、鏡の中の自分に敬礼を送ってみる。

 なかなか悪くない。ううん、結構いいかも。

 そんな事を考えながら帽子掛けから軍帽を手に取ると、は小走りに部屋を後にした。

 部屋から出たの目の前には、吹き抜けのエントランスが拡がっていた。

 白と灰の市松模様の大理石の床に落ち着いたこんじようのカーペットが敷かれ、玄関正面の大階段の踊り場に置かれた大きな時計が静かに時を刻んでいる。

「う……わ、ホテルのロビーみたい」

 の部屋の扉の横に控えていた女中が、飛び出してきたへと浅く腰を落として目礼した。そして、かいからの伝言を静かに伝える。

かい様が先ほどから下でお待ちです」

「下……というと、あの大きな階段で下に降りればいいの?」

 ここに住む者にとっては至極当然のことだが、それでも女中はていねいこたえる。

ようでございます。この吹き抜けの真下に見える、あちらの扉が外へ出る玄関になります」

 は女中に礼を告げると、一目散に階段を駆け下りていく。

 階段を下りきったその時──踊り場の時計が九時を告げる鐘を鳴らした。

 は弾かれたように立ち止まり、そして大階段の古時計を振り返る。

 この景色、そしてこの鐘の音……なぜだろう、どこか懐かしく感じる……。

 こんなごうしやな場所に来たのは初めてのはずなのに。

 が不思議そうに古時計を見つめ、首をかしげていると、背後から声が掛かった。

お嬢様……どうかくれぐれも御無理はなさいませんよう」

 声の主は先ほどの部屋に料理を届けてくれた執事とやらだ。

「ありがとう……色々とご迷惑をかけちゃって、ごめんなさい」

「いえ、とんでもございません、どうかお気になさらず。いつも通り、何か御用の際は、このじいにお申し付けください」

 執事はうやうやしくお辞儀をすると、くろがねに縁取りされた木製の大扉を開け放った。


<続きは本編でぜひお楽しみください。>

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