第2章②

 部室とうを出て校門に向かって歩きはじめたとき、美紅は大事なことに気がついた。

「あっ! しまった!」

「どうしたの、美紅?」

 あわてて鞄の中をさがす美紅に、凜が問いかける。

「スケッチブック、美術室に忘れてきちゃった……」

 悠人のキャンバスをのぞいたとき、近くの机にスケッチブックを置いたまま出てきてしまったのだ。

「凜、ごめん! 私、取りに行ってくるね! すぐもどるから!」

「うん、じゃあ校門で待ってるね」

 凜と別れ、美紅は校舎に向かって走り出す。


 美術室にとうちやくし、とびらを開けた美紅は、まどぎわひとかげに気づいて体をこうちよくさせた。

「月島せんぱい……」

 そこにいたのは美術室にもどってきていた悠人だった。

 悠人が美紅の声に気づいてふり向く。

「藍山……」

 その手にはスケッチブックがあり、美紅がいたペットボトルのページが開かれている。

 思わず声を上げてしまう。

「あっ、そのスケッチブック……」

「ごめん。ここに置いてあったから……つい……」

「い、いえ……とんでもないです……」

 申し訳なさそうにスケッチブックを閉じる悠人に、美紅は小さな声でこたえる。


 入学式の日以来、悠人とまともに会話ができていなかった。

 授業で一年生が三年生と会うことはほとんどないし、唯一会える部活の時間も悠人はひとりで絵を描いていて、終わるとすぐに帰ってしまう。

 とつぜんおとずれた二人きりのじようきように、美紅はきんちようしながらもなんとか口を開いた。

「あ、あの……私のほうこそすみません! 先輩がいない間に勝手に絵を見ちゃって……それで、ここにスケッチブック置き忘れちゃって……その……」


 しどろもどろで話す美紅を、悠人はだまって見つめている。

 窓からしこむゆうが逆光になり、悠人の顔にはかげが落ちていた。

 んだひとみには光が宿り、すべてをかされているように感じてしまう。

 流れた時間はほんの数秒だが、美紅にはこの数秒がとても長く感じられた。


(何か……何か話さなきゃ……そうだ! 先輩の絵のことを……!)


「あの……!」

 あわてて言葉をひねり出す。


「あの、私、好きです!」


 カキン! という小気味の良い金属バットの音がグラウンドから聞こえてくる。

 予想外の発言に、悠人は目を丸くしている。

「えっ……?」

「え……?」

 なぜ悠人がおどろいているのかわからないでいたが、すぐに自分が言ったことを理解する。


「あっ! いや! ちがうんです! 先輩の『絵が』好きです!」


(うわー!! 私、何言ってるの!? っていうか……そんな必死で否定したら逆に失礼じゃない!?)

 顔がみるみるうちに赤くなり、ずかしさでうつむく。


「あ……ああ、絵のことね……」

 悠人は驚いた表情のままこたえた。

「その……上手うまく言えないんですが、花が生きてることが伝わってくるというか、本物以上に存在感があるというか……今までこんな絵に出会ったことがなかったので感動しちゃって……」

 下を向いたまま必死で絵の感想を伝える美紅に、悠人はなつとくした様子をみせる。


「……ありがとう」


 その言葉で美紅はゆっくりと顔を上げ、悠人の顔色をうかがった。

 逆光でわかりにくいが、少しだけ微笑ほほえんでいるように見える。


「普段、あんまり面と向かってほめられることってないからさ。うれしいよ」

 悠人は目をそらして照れくさそうに頭をかいている。

「それより、これ取りに来たんだろ」

 手に持っていたスケッチブックを悠人が差し出してきた。

 混乱したせいで用事をすっかり忘れてしまっていた。

「そ、そうでした……ありがとうございます……!」

 受け取ったスケッチブックをきしめ、深々と頭を下げる。

 久しぶりに悠人と会話をするチャンスなのに、まともに話もすることができない。


(これ以上ここにいても、私、変なこと言っちゃうばかりだ──)


「あの、おじやしてすみませんでした……それじゃあ、私これで失礼します……!」

 げるように立ち去ろうとする美紅に向かって、悠人がとっさに口を開く。


「俺も好きだよ」


 美紅は足を止める。

 グラウンドからカキーン! と、さっきよりも大きなバットの音が聞こえてきた。

 同時に大きなかんせいがわき上がる。


(え、今なんて──)


「藍山が描いた絵。俺も好きだ」

 悠人はしんけんな表情で見つめている。


「えっ……あ、絵……ですか……?」

(なんだ、さっきと同じ流れか……そりゃそうよね……)

 あっさりらくたんしたが、その意味を考えてまたすぐに驚きの声を上げる。


「って、ええ!? 私の絵を……ですか!?」


 練習をはじめて二週間のつたない自分の絵を、経験豊富で才能あふれる悠人が「好き」と言ってくれている。喜びよりも先に信じられない気持ちでいっぱいになった。

「藍山の絵を見てると、絵を描くのが本当に好きなんだなっていうのが伝わってくる。俺は、そういう人の描いた絵が好きだ」

 悠人は自分のキャンバスに視線をうつす。

「毎日のように絵を描いてると、本当に好きで描いてるのか、描かなきゃいけないから描いてるのか、わからなくなることがあるんだ。そんなとき自分の作品が全部まがいものみたいに見えてしまう……」

 そう話す悠人の顔はどこかさみしそうに見える。


 悠人の絵を見て「これだけ上手に描けたら、楽しくて仕方ないだろうな」なんて考えていた。

 でも、本当は美紅には想像もつかないなやみをかかえながらキャンバスに向き合っているに違いない。

 遠いところにいる悠人に、少しだけれることができた気がした。


「私、入学式の日の体験会で月島せんぱいにデッサンのことを教えてもらって、はじめて絵をくのが楽しいって思えたんです。だから、こうして絵を描くのを好きになれたのは先輩のおかげです。ありがとうございました」

 悠人に伝えたいと思っていたことを、ようやく口にすることができた。

 あの日、悠人にデッサンを教えてもらっていなかったら、今こんなに絵に夢中になっている自分はいない。

 その感謝の気持ちをずっと伝えたかったのだ。

「そして、先輩の絵を見て、私もこんな風に描きたいって思いました。いや……私なんか無理かもしれないですけど……」

 美紅は悠人の顔をまっすぐ見つめて続ける。

「だから、その、うまく言えないんですが……私、これからも先輩の絵をもっともっとたくさん見たいです!」


 話し終えると、悠人はやさしく微笑んでくれた。

「ありがとう……俺、藍山が美術部に入部してくれてうれしいよ」

 胸の中が温かい気持ちで満たされていく。

 美紅は照れながらその言葉をかみしめた。


 美術部でもっと絵のことを勉強したい。そして、悠人のことをもっと知りたい──。

 そんな思いが胸の中でふくれ上がる。


「あ、あの……! もしよかったら……私に絵のレッスンをしてもらえませんか?」

 とっさに出た言葉に、自分でも驚いてしまう。

(うわ……私、ちょっと調子にのりすぎちゃったかも……)

「あ、もちろん、めいわくじゃなければ……!」


 悠人はしばらく考え、ニヤリと笑った。

「うん、いいよ。そのかわり、俺、結構厳しいからかくしといて」

 美紅は満面のみをかべてこたえる。

「はい! 私、中学の部活でしごかれるのは慣れてるので、だいじようです! よろしくお願いします!」


 美術室を後にすると、校門で待つ凜のもとへ急いだ。

「凜、お待たせ!」

おそいよー……スケッチブック取りに行くだけでなんでこんな時間かかるのよー……」

「ごめん! ちょっと寄り道してて!」

 ふてくされた顔をする凜に、両手を合わせて謝る。

「むむ……なんかニヤニヤしてるけど、良いことあったの?」

 凜からてきされ、自分の表情がにやけていることに気づいた。

「う、ううん! 何でもない! それより早く帰ろ! あっ、待たせたおびにアイスおごってあげる!」

「ほんと!? わーい! じゃあ、チョコモナカ買ってもらおーっと」

 二人はしずみゆくゆうを背に、帰り道を歩き出した。



<続きは本編でぜひお楽しみください。>

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