逆順番で恋に落ちて

 女王陛下が校長先生を務める、姫ノかん――初等部はちょうど授業を終え、たった二クラスしかない二年生の教室では、生徒たちがそれぞれ休み時間を迎えた。

 深緑の短髪を持つ夕霧命ゆうぎりのみことに、紺の長い髪をしている光命ひかりのみことは素早く近寄って、夏の日差しが窓から入るのを眺めた。

 脳の機能である忘れること――思い出せないことが神様には少ない。だから、テストもないこの世界の学校では、宿題ももちろん出ない。ただ自分で課題を見つけるという自主性が重視されるのだ。

「夏休みの課題は決めたかい?」

「まだだ」

 無感情のはしばみ色をした瞳が横へゆっくりと揺れると、光命の綺麗な唇からこんな話が出てきた。

「君がその言葉を言うのは、これで三十七回目だ」

「いつから数えていた?」

 夕霧命は不思議そうな顔をしていたが、小さな光命はそれを気にした様子もなく、彼の物差しで答えてしまった。

「去年の七月十五日月曜日、十一時十五分二秒からだ」

「お前の頭はどうなっている?」

「どういう意味だい?」

 あどけない水色の瞳とはしばみ色のそれは一直線に交わったまま、チャイムが鳴るまで動かなかった。


    *


 夕霧命の家にある広い芝生の上で、二度目の夏休みを迎える子供たちを見ながら、母親たちは楽しそうに横座りをして、アフタヌーンティーを楽しんでいた。

「夕霧ちゃんは落ち着いてるわね。いつ見ても」

 深緑の曲力短い髪は一ミリも揺らさずに、ずっと同じ場所に座っていて、自分で決めた夏休みの宿題――切り絵をしている無動のはしばみ色の瞳が動くことはほとんどなく、飽きることもなく、絵を完成へと向かわせていた。

「そうね。ほどんど動かないし、ひとつのことを淡々とこなすのが向いてるみたい」

「光とはまったく逆ね。何か気になるものがあると、そこへすぐに行って、調べ物をしているみたい」

 対する光命の夏休みの課題は、身の回りにあるものを理論に変更する――という、彼らしい宿題だった。

「ふたりともそれぞれ個性があっていいんじゃないかしら?」

「そういえば、さっきから姿が見えないわね。どこへ行っちゃったのかしら、光ったら」

 個性は容姿にももちろん出ていて、髪が肩より十センチ長いのが当たり前の我が子――光命はお茶だというのに、子供らしく何かに夢中で、気づくと大抵そばにいないのだった。

 母親同士が話していることを、さっきまで背景みたいにして聞いていなかったが、夕霧命は手を止めて地平線を描くほど広い庭を見渡す。

「どこへ行った?」

 学校でもそうで、気づくと光命はそばにいないのだ。他の人から見ると、何をしているのかと首を傾げるようなことをしているが、理由を聞くと納得させられる。

 無感情のはしばみ色をした瞳は、自分と背丈が変わらない従兄弟を茂みの近くで捉えた。

「何をしている?」

 誰もいない場所で、そこに子供が好きな遊具があるわけでもなく、それどころか興味を引くようなものはない。夕霧命が眺めている先で、光命の小さな体は円を描いているようだった。

「さっきから同じところをぐるぐる回っている……」

 自分も滅多に行かない場所だが、そこに何があるのか思い出した。

「小さな池だ――」

 切り絵を風で飛ばされないよう本の間に挟んで、夕霧命が芝生の上を歩き出すと、母親たちのおしゃべりが背後でどんどん小さくなっていった。


    *


 七五三で履くような立派な革靴は子供の足の大きさで、さっきから池のまわりに置かれた石の不安定な上を一生懸命歩いていたが、足元がフラフラし出して、靴は滑り落ち、

「うわっ!」

 光命は驚き声を上げて、池の中にジャボンと落ちた。小さな王子様みたいな服はあっという間に水に濡れて、綺麗な紺の髪までびしょ濡れ。

 尻餅をついたまま、くりっとした水色の瞳は池の水面が激しく揺れているのを見下ろした。

「いや、こんなことになるなんて……」

「手を貸す」

 自分とは違って低い響きを持つ子供の声が聞こえると、小さな手が差し伸べられていた。いつも自分が何か失敗すると、こうやって助けに来る人がいる。それが従兄弟だ。

 光命は池から片腕を出し、その手をしっかりつかんだ

「あぁ、夕霧、ありがとう。君はいつも優しいんだね」

 屈託のない笑みをする従兄弟を、夕霧命は引っ張り上げた。

「当たり前のことだ。何をしていた?」

 今回の従兄弟の失態は何なのか、単純に気になった。どんな回答を返してくるのか、ただ気になった。

 すると、光命はあっという間に乾いてゆく服の乱れを直しながら、まだ揺れている水面へ振り返った。

「この池のまわりを何歩で歩けるかの平均を取っていた」

「一学期に、学校で教わったやつか?」

 夕霧命とは違って、光命が勉強熱心なのは知っていたが、他の人と違っているようだった。

「そうだ。教わったんだから、僕も何かで試してみたくなったんだ。データが多いほうが正確さは増すだろう? 今ので池のまわりを回るのは、百七十八回目だったんだが……」

「紙に書くのも大変だ」

 晴れ渡る青空を見上げて、夕霧命はため息をついた。その幼い横顔に、光命は問いかける。

「なぜ、紙に書く必要があるんだい?」

 百七十八回分だ。夕霧命は書くのが当たり前だと思っていた。

「どういうことだ?」

「覚えているじゃないか」

「覚えている?」

 単純に自分が覚えていることを、光命は従兄弟に教えたかった。ただそれだけ。自慢するとかそういうことではなく、事実は事実だと伝えたかっただけだ。

「だってそうだろう? 一回目は十歩で……」

 こうして、夕霧命は従兄弟の頭の中にある、百七十八回分の歩数を聞かされることとなった。その間鳥が空を飛ぼうが、宇宙船が離陸しようが、ふたりにとっては蚊帳の外だった。

「……百七十七回目は、十二歩。途中で池に落ちたから、百七十八回目のデータはまだない。だから、全ての歩数を足し算して、百七十七回で割ると、平均は11.4歩だ」

 長い説明は終わり、夏休みの暑い空気が再び色鮮やかにふたりの間に戻ってきた。夕霧命はたった一言で終わりにした。

「お前は頭がよすぎだ」

「どういうことだい?」

 あごに手を当て、思考時のポーズを取っていた光命は、しかめっ面を解いた。

「普通は覚えていない」

 小さい頃から光命は人と同じだと思っていた。しかし、まわりの人の反応がおかしいとも気づいていた。何か理由があるという可能性があると思っていたが、今日その可能性が八十二パーセントを超えた。

 だから、従兄弟の話も受け入れて、紺の長い髪を縦に揺らし、落胆しながらも納得した。

「そうか……僕は人と違っているんだな。だから、クラスの他の子たちが不思議そうな顔をしていたんだな」

 光命には感情がある。夕霧命にはないが、従兄弟にはある。小さい頃からを見ていたからわかる。冷静な頭脳で抑えているが、傷ついたりしていると。だから彼は落ち着き払った様子で言葉を添えた。

「それはお前の個性だ。気にすることではない。だが……」

「だが、何だい?」

「お前は平均に囚われすぎだ。そんな小さな池を何周も回ったら、目を回して池に落ちる」

「その可能性を導き出せなかったのが、今回の失敗だった」

 何を言っても、従兄弟はどこまでも冷静で、ただただデジタルに次の対策を取るために記録しているだけなのである。

「人は失敗しながら学ぶものだと、先生がいつか言っていた」

「それは、去年の六月一日土曜日、算数の授業の時だ」

 また人より細かく答えてきた。光命は彼のスピードと方法で失敗を乗り越えてゆくのだろうと、夕霧命は思い、少しだけ目を細め、何も言わず珍しく微笑んだ。

 ひとまずの研究結果に満足して、光命は芝生の上を歩き出した。

「君の意見はいつも参考になる。僕が気づかないことを君は教えてくれる。君が従兄弟で本当によかったよ」

 いつだって従兄弟は他人に感謝をすることを忘れない。神様を信じていて、その下で光命は生きていて、自分も存在するとは思っているが、そこまで信心深いわけではない。しかし、心地よい言葉だ、感謝とは。夕霧命はゆっくりとあとを追いかける。

「それはこっちのセリフだ。俺が思いもつかないことを、お前はする」

「教会で言ってたんだ」

「説教ってやつか?」

 一緒にいない時のことも、お互いよく話して、知らないことがないほど仲がいい、たった三日しか誕生日が変わらない従兄弟同士。

「そうだ」光命は言って、楽しげに続ける。「どんな人間関係にも運命というものはあるし、相性というものもある。僕と夕霧に神様がそれらを与えてくださったから、お互いのすることが相手のためになるのかもしれない」

 この世界は神の慈愛に満ちていて、光命には全てが輝いて見えた。ピアノが好きな音楽肌らしく、美的センスのルネサンスに包まれている従兄弟の紺色をした長い髪を、感情を一切交えない淡々とした生き方をしている、夕霧命はいつものようにあとを追いかける。

「お前は何でも難しく考えすぎだ」

「そうかい?」

 後ろ向きで光命は歩き出した。転ばないという可能性が高いと踏んでいるのだろう。夕霧命は単純明快シンプルな回答をした。

は、だ。事実は事実だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「そこから、可能性や何かを導き出すから、生きていることは楽しいんだろう?」

 相手を変えたいとは思っていない。ただお互いの意見を言い合う。そして、夕霧命は相手を受け入れたいのだ。

「お前はそれでいい。それがお前だ」

「そうだな。君はあの芝生の上でじっとしているのが、君らしいってことだ」

 光命から見ると、夕霧命はそう見えるようだった。何かに夢中になっていても、自分と違ってまわりの情報をもちゃっかり収集している光命。無感情のはしばみ色をした瞳はまた細められた。

「そうだ」

 細い腕を組んで、光命は正面を向いて、ぶつぶつと思案し続ける。

「違っているのに共感できるというのは、どういう理由がそこに存在するんだろうな?」

「だから考えるな」

 この従兄弟ときたら、さっき池に落ちたことはデジタルに切り捨てて、好きな思考回路にまた酔いしれている。言っても聞かないのだろうと、夕霧命は目を細めて彼なりの笑みをした。


    *


 大きなコンサートホールでたくさんの観客の前に、黒いグランドピアノが音色を人々に響き渡らせていた。

 激しい雨を表すような十六分音符の六連符。雷鳴のように不規則に入り込むフォルティッシモの高音が、紺の長い髪を持つ十一歳になったばかりの、中学一年生の両手で奏でられてゆく。

 天才という名がふさわしい少年が、両手を飛び跳ねるように鍵盤から離すと、曲はフィナーレを迎え、会場から拍手喝采が巻き起こった。

 全体的に線の細い従兄弟が演奏を終えて、お辞儀をしているのを、無感情のはしばみ色をした瞳が頼もしげに見つめていた。

 コンクールは表彰式まで終了し、ロビーは親子連れでごった返していた。その中で、順調に背丈が伸びている夕霧命は、人々に囲まれ、カメラのフラッシュを浴びているている一位を取った子に近づいていった。

「光、コンクール一位おめでとう」

 テレビ局のカメラや雑誌の記者は仕事を終えたというように、光命から去っていった。緊張の多かったコンクールだが、いつも通りに従兄弟がやってきて、光命はほっとし上品に微笑んだ。

「ありがとう。君のことを思って曲を作ったんだ」

「感謝する」

「でも、僕と君は違うところが多いだろう? だから、弾きこなせるようになるまで、いつもよりも練習を多くした」

 表現をするためには、それを演じる力も必要なのだと、すでに学んでいる将来有望なピアニストは、また理論を披露した。

「何回増やした?」

「五十二回だ」

「相変わらずだ」

 花束に埋もれた光命はコンクールのたびに祝ってくれる従兄弟に、自分も同じことをしたくなった。

「君は何か習い事はしないのかい?」

「思いつかない」

「いちばん好きな教科は?」

「体育だ」

「体を動かすことか」

 乗馬はするが、どうも学校の体育は得意とは言えない光命。あごに手を当てて、思案し始める。

「そうだな? 水泳なんかはどうだい? イルカの先生が教えてくれる塾があるって聞いた」

「参考にはしてみる」

 嘘をつかない従兄弟が光命は好きだった。やらなければ、やらないだ。しかし、いつか光命は夕霧命が今日自分にしてくれたように、応援する立場になりたいと願った。

 お手伝いさんが花束をリムジンへ運び出した。

「今日、コンクールで一位を取った記念にお祝いを家でするんだ。夕霧もこないかい?」

「邪魔する」

 荷物はすぐに運び終え、光命は近所に住んでいる従兄弟に振り返った。

「それじゃ、一緒にうちのリムジンで帰ろう?」

「家に連絡する」

 中学生でも親に連絡をしないで、従兄弟の家に行くのは、しつけが厳しい家庭で育っている夕霧命には許されていなかった。しかし、それはいつものことであり、光命は何が起きているか予測済みだった。

「僕の母親がもう連絡している可能性が99.99%だから、する必要はないかもしれないよ」

 いつも自分たちだけの秘密だと思っていることが、母親二人まで知っている。しかも話題にして、楽しそうに笑っている姿を二人とも見てきた。

「そうだ。俺たちの母親は仲がいい」

「その影響を受けて、僕たちもさ」

 ピアノのコンクールに相応しく、正装をしている従兄弟二人は、運転手によって開けられたドアから、黒塗りのリムジンへ乗り込んだ。


    *


 十二歳、中学二年生の二学期。秋空に飛行船が銀の線を引いて飛んでゆく。青々とした学校の芝生に、光命と夕霧命は寝転がって、草の隙間からお互いの声を聞いていた。

「夕霧、地球という場所があることは習っただろう?」

「肉体を持って人間が修業をしているところだ」

「そこには、太陽というものがあるらしいんだ」

「どこで知った?」

 学校で習っていないことを言い出した従兄弟を見ようとしたが、腕枕をしているそれで隠れていて叶わなかった。

「ネットに地球についての研究論文を載せたサイトがあってね。それで知った」

「論文……」

 従兄弟の学力は学年の中で一番を常に貫いていて、とうとう飛び級するみたいなレベルまで行っていた。

「この世界には太陽がないのに、空は明るいだろう?」

「夜は暗い」

 夕霧命は気づいていなかった。話に罠が張られていて、話題を自分からではなく、相手から引き出すように仕向けられていたと。光命はうなずく。

「そうなんだ、そこが問題なんだ。地球では太陽が地上を照らさなくなると、夜になるらしい。そこで、疑問が浮かぶ。なぜ太陽がないこの世界でも、夕方がやってきて夜になって、朝が来るのか。その原理を知りたい」

「理科の先生には聞かなかったのか?」

「聞いたけど、まだ研究が進んでいないらしい」

 何だか話がおかしかった。研究者が書いた論文だ。一教師である学校の先生が知るはずがない。いつもなら、光命がその点を突っ込んでくるはずなのに、夕霧命は真っ直ぐな性格でそのまま話を進めてしまった。

「それなら、結果が出るまで待つしかない」

「そうか」

 いつもの従兄弟なら、こんな可能性があるとか何とか言って、食い下がってくるのに、納得しているのか知らないが、ただのうなずきはどうやってもおかしかった。

 夕霧命は上半身だけ起き上がって、すぐ隣にいる光命を見下ろした。

「どうかしたか?」

「いや、何でもない」

 大人になりかけている冷静な水色の瞳は答えるとすぐに、視線をそらして、草の音を鳴らしながら、自分と同じように起き上がった。

 部活動をする生徒たちをグラウンドに眺めながら、光命は今の自分のことを考える。

(これはどういうことなんだろう? 夕霧のそばによると、ドキドキして、嬉しいと思う。この気持ちは待っていても答えが出ない可能性が非常に高い)

 小さい頃だってそばにいた。それなのに、最近おかしいのだ。

(父や母に聞いてみたけど、わからないと言っていた)

 特に気にした様子もない夕霧命を視界の端でうかがって、光命は可能性を導き出す。

(君に関係することだと思うんだ。それならば、答えが出ないものを君に聞いて困らせるより、まずは他で調べてみてからにしよう)

 ポケットに入れていた携帯電話を細い指先で、誰にも気づかれないように触れた。

(ネットで調べよう)

 記憶を消された少年ふたりには何の対策もなく罪もなく、思春期を迎えたのだった。

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