愛は赦しの中で

明智 颯茄

恋愛編

蓮の場合

メトロノームの追憶

「ディーバ ラスティン サンダルガイアの公演は只今を持って終了したしました。お忘れ物ないようご退場ください」

 降りた幕の向こうでコンサートホールの場内放送が流れる。主役のアーティストはステージ衣装のロングブーツのかかとを鳴らしながら、舞台袖へと戻ってきた。

「お疲れ様でした。ティーバさん」

「お疲れ様」

 ひとこと言うと、アーティストは椅子へ腰掛け、ミネラルウォーターの栓を開けて、冷たい水を体の中へ落とした――



 カチカチカチと銀の細い棒が右へ左へ正確にスイングするメトロノーム。にぎやかだったコンサート会場はアーティストの意識から消え失せ、一人きりの世界へダイブした。



 ディーバ ラスティン サンダルガイアとは俺の芸名だ。俺の名は明智 蓮。俺には妻がふたりいる。いや、正確には一人はだ。

 この話は長くなるが、今日は聞くことを許してやる。ありがたく思え。

 おまけの妻は、地上に肉体を持っている。しかし、魂はない。妻の魂の波動を受けて、仮の魂としてかろうじて存在している。だから、だ。

 俺には親兄弟がいない。親戚もだ。陛下の分身として生まれ、すぐに十八歳へと成長し、のそばへ行くよう命令を受けた。だから、俺はきたまでだ。

 だが、知らないうちに結婚をしていた。おまけはどうであれ、明智 倫礼はいいやつだった。倫礼の両親も親切にしてくださって、身寄りのない俺を養子として家に置いてくれた。

 子供は童子が三人に、姫が一人の四人だ。芸能人だが平和な日常生活を送っている。しかし、おかしなことが起きた。今考えれば、あれが全ての始まりだったのかもしれない。

 俺がまだクラシックをヴァイオリンで弾いている頃のことだ。おまけが寝静まったあとで、たまたま本棚から見つけたのだ。神の名簿というやつを。

 目を通すと、ずいぶんと古い時代のもので、今は存在しない役職名などが書かれていた。そして、ある名前を見つけた――



 薄暗い部屋の中は、神の瞳を持ってしてみれば、蓮には容易いことで、本棚から引っ張り出した神の束をめくった。

光命ひかりのみこと……」

 そこで、おまけの守護神をしている蓮は、彼女の過去を知った――映像が脳裏へなだれ込んできたのだった。今の彼女とは違う、まだまだ魂の修業が必要な濁った魂で、誰かと話している言葉が聞こえてきた。

「光命か。素敵な名前だね。今時の名前だ」

「そうか。光命さんは、理論なんだ」

「私とは違う。だから、曖昧なものがなくて、全て数字でできてるんだ」

「なんて綺麗な世界ん住んでいる神様なんだろう」

「理論を覚えよう」

 光命の思考回路に夢中になり、三ヶ月も寝ずに考え続け、ある朝起きたところで気を失った――おまけのバカさ加減がわかりやすく出ていて、蓮は鼻でバカにしたように笑った。そしてまた、彼女の過去の意識を傾ける。

「え……?  光命さんに恋人ができた?」

 おまけの瞳にみるみる涙が溜まっていって、苦しそうに目を閉じると、涙が膝の上に落ちた。

「そうか。私は光命さんを――」

 慌てて心の声までかき消した。無理やり笑おうとする。

「きっと素敵な人なんだろうな、相手の女の人って。光命さんが選んだんだから、きっとそうだ」

 ねじれる気持ちを抱え切れないほど耐えているのに、おまけは人間の分際で、神にも救いの手を求めなかった。それは彼女なりの気遣いだった。人間の心の声は神に筒抜けだ。もしどこかで、光命が聞いていたとしたら、不快な思いをさせてしまうと思ったのだ。相手の女性神にも。


 死ぬことのない永遠の世界で、蓮は自分とは法則の違う、死が待っている世界で生きているおまけをじっと見つめた。

「出会ったら永遠だからな。別れることはない」

 手に持っていた紙の束を持ち上げて、穴が開くほど見つめていたが、やがて、

「それに、もう結婚しているだろう。神の世界では出会ったらすぐに結婚するのが当たり前だからな」

 過去は過去として、蓮は何の感情も持たずに、本棚に紙の束をしまおうとしたが、ふと手を止めた。守護神は守護する人間の気持ちは手に取るようにわかった。

「おまけはまだ愛している――」

 蓮はどうしようもない怒りに駆られた。

「なぜ、嫌だと言わなかった? 好きなやつがいるなら、なぜ俺と結婚した。お前の意志はなかったのか?」

 早回しでおまけの記憶が六年もの時間を流れていき、初めて蓮と出会った時のおまけの気持ちが入り込んできた。


「私の理想の人に出会った――」


 屈託のない笑みで、ふわふわと地面を風船みたいに飛んでいるように過ごしているのに、しっかりと地面に縛りつけるような蓮がいる。羽目を外しすぎないかと力を制限しながらの人生ではなくて、思いっきり何かをできる――その嬉しさに、おまけは天に上ってしまうほど舞い上がっていた。


「光命のことは忘れたのか、もう」

 おまけは妥協で蓮を好きになったわけでもなく、結婚したわけでもなかった。本気で好きになったのだ。叶わない恋は何とか記憶の奥底に沈めて、一生懸命新しい恋を探した結果だったのだ。

 神である蓮はおまけをじっと見据える。そうして、気づいてしまったのだ。

「いや、今でも好きでいる」

 防御機制が働いて、表面上に浮かび上がらなくても、おまけの心の奥底には、後悔の念がずっと渦巻いていたのだった。

「なぜ、あきらめた?」

 神界育ちの蓮は知らなかった、叶わない恋愛が世の中にはあるのだと。

 愛している妻ならば願いを叶えてやろうと――光命と結婚させてやろうと、蓮はしたがすぐにやめた。

「あきらめたければ、あきらめればいい。望むなら叶えてやってもよかったがな。お前が手を離したら、それでおしまいだ」

 本棚へ神名簿をしまい込んで、眠っているおまけをじっと見つめる。

「なぜ、神の俺に文句を言う? 人間のくせに生意気だ」

 蓮はこう言って、眠っているおまけの枕を足で蹴飛ばしたが、物質に触れられない神の打撃は無効化された。振り返って、本棚を見つめる。

「光命……知らない名前だ」

 ゆっくりと近寄って、もう一度紙の束をパラパラとめくって、他の人と何ら変わることなく名前を印字された人をよく見た。

恩富おんぷ隊……事務所が一緒だ」

 まだ気にしている自分のイラついて、蓮は乱暴に本棚へ紙の束を戻した――



 現実で、コンサートを終えたあとの舞台袖で、ミネラルウォータを飲んでいたがカラになったのを片づけようとして、本人ごと一瞬にして消え去った。

 大道具の脇から出てきた二本足の狼が台本を丸めながら、キョロキョロする。

「ディーバさん、明日の打ち合わせ――あれ、いない」

 約束をしていたのに、主役のアーティストがいないとは困ったもので、近くにいたスタッフが、蓮が消えたのをしっかりと見ていた。

「また考えごとしたまま魔法かけたんじゃないですか?」

「そうかもしれないです〜。先日は、自宅に戻ってましたから、本人が気にかけないうちに」

 花を降らせたいという演出があったとしても、準備も装置もいらない。魔法だけで実現してしまうステージ。

「まあ、そこが、ディーバさんのいいところだよな」

「確かに。笑いを巻き起こしますからね。素晴らしい人です」

「みんなに幸せを与えます」

「打ち合わせは明日、最初にチャチャっとやればいいか」

「大盛況ですね、新人なのにトップに上り詰めるなんて」

「これからが楽しみですね」

 R&B界の大御所となろうとしているアーティストは、俺様なのに、魔法が使えるのに、どこかズレている――非凡ゆえのはみ出した性格の人物だった。

 

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