第72話 凶報に震えること、羊の如し

 正月、新年会の席にもたらされた凶報に、会場は大混乱になった。


「越後長尾家が、北信に攻め込んだ!」

「村上義清殿が、家族を連れて逃げてくるらしいぞ!」

「長尾軍は、そのまま小笠原家に攻め込むとか……」


 やがて、騒動は推測の域に入り出す。


『長尾家の狙いは、北信だけなのか?』


 特に信濃から来ている来賓や信濃に近い甲斐の国人は、気が気でない。


 そんなざわついた雰囲気の中で、妖怪じじい小山田虎満が冷静に言葉を発した。


「御屋形様。新年会は、お開きといたしましょう。ワシは、あちこち動いて情報を集めてみます」


「あちこち動く?」


「左様。ひょっとすると、当家に調略の手が伸びているかも……」


「そんなバカな! 昨年、穴山、小山田の両家を潰したばかりだ!」


 俺は小山田虎満の言葉に、つい声を荒げた。


 穴山家と小山田家は、駿河今川家に調略されていた。

 裏切ったところを討ち取り、両家は取り潰したのだ。


「なーに、念のためですじゃ! 用心には、用心を重ねないと……」


 小山田虎満は、飄々とした顔をしているが、目が笑っていない。

 俺は一瞬、小山田虎満が発する鋭い『気』に押された。


 この混乱した状況でも、冷静に対応しようとしている。

 小山田虎満に家老を任せて正解だったな。


「そうだな……。頼めるか?」


「お任せを! なーに、家老として給金分の仕事は、キッチリやりますわい」


 小山田虎満は、ヘラヘラと笑って俺に返事をすると、急にキッとした。


「甘利! お主は、旧穴山家の領地をあたれ! 馬場! お主は、実家の教来石に行け! あそこは信濃に近い。急げよ!」


「承知した……」

「おう!」


 小山田虎満は、甘利虎泰と馬場信春を引き連れて、新年会会場の広間から出て行った。


 俺は隣に座る妹の南にアドバイスを求めることにした。

 南は、一芸賈詡を持つ軍師だ。

 この混乱した事態の中で、落ち着いて座っている。


「南。何か打てる手はあるか?」


「そうね……。兄上、甲斐国内、特に信濃に近い場所へ三ツ者を厚めに配置しましょう」


「狙いは?」


「長尾家が、謀略を仕掛けて来たらすぐわかるように」


 なるほど。

 まず、防諜体制を整えるということか。


「富田郷左衛門! 聞いたな! 急げよ!」


「ハッ!」


 俺は南の案を採用し、富田郷左衛門へ下知した。

 富田郷左衛門が、素早く広間から出て行く。


 俺は目線で南に、次を促す。


「それから……。越後の長尾軍は、小笠原家へ向かいました。小笠原家は、信濃守護家ですから、いざという時は逃げた方が良いですね。兄上の配下を、近場へ派遣しては?」


 小笠原家は、代々信濃の守護を継承する家だ。

 武田家ほどの実力はないが、家格としては甲斐守護家の武田家と同格。


 小笠原家を潰させるわけにはいかないし、長尾家に取り込まれてしまうのも厄介だ。

 長尾家に『信濃守護』の大義名分を与えないためにも、小笠原家が負けそうな時は、逃げていただこう。


「そうだな。それなら……、飯富虎昌! 信濃との国境に騎馬隊を率いて向かえ! 可能なら諏訪家と交渉して、通してもらえ!」


 武田家と小笠原家は、領地を接していない。

 間に諏訪家が入っている。



 武田家(山梨県甲府)

 ↓

 諏訪家(長野県諏訪湖)

 ↓

 小笠原家(長野県松本――戦国時代は深志と呼ばれている)



 諏訪家とは友好関係にあるし、飯富虎昌は諏訪家と面識もある。

 たぶん、通してくれるだろう。


 飯富虎昌は、ギョロっと目を動かし野太い声で答えた。


「長尾家と一戦交えるのですか?」


「いや、にらみを効かせて、牽制するだけで良い。小笠原家が敗れた場合は、小笠原家一党を収容して甲府まで下がってこい!」


「合点!」


 飯富虎昌は、俺と香に一礼すると、ドスドスと足音を響かせながら広間から出て行った。

 飯富虎昌の後を、騎馬隊――赤備え――の武将が追っていく。


 これだけでは、足りない。


 俺は広間の後ろの壁に向かって小声で話しかけた。


「風魔小太郎。聞いていたな?」


 壁越しに風魔小太郎の返事が返ってきた。


「小笠原家の城に忍び込んで、ヤバくなったら逃がせば良いのですね? 逃がした後は、飯富虎昌様の部隊に小笠原家一党を引き渡す。そこまでやれば良いですね?」


「話が早いな。それで頼む」


「承りました」


 壁の向こうから、風魔小太郎の気配が消えた。

 風魔小太郎なら、小笠原家を脱出させてくれるだろう。


 奥様の香が庭から戻ってきて、俺につぶやいた。


「ハル君。今年も大変そうだね……」


「戦国時代だからね……」


 こうして天文五年の新年会は、予期せぬ凶報でお開きになった。

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