神辺 京一

 京一は家に着くとまず洗面所へ向かった。手と顔を丁寧に洗う。

鏡に映る自分の顔。左眉の上に、うっすらと切り傷が残っているのが分かる。傷跡を指でそっと触れてみる。


 京一はあの日のことを今でも昨日のことのようにはっきりと覚えている。


 二年前、彼は両親と北海道の釧路市の郊外に住んでいた。


 ある日彼が学校から帰って来ると、玄関に見たことのない男物の靴が置いてあった。


 そして、その靴の主は居間で誰かの上に馬乗りになって何かをしていた。近づいて下になっているのが母親だと確認した瞬間、京一は鞄から図工用の小刀を素早く取り出し、無我夢中で男にぶつかった。京一の小刀は、刃の部分が全部男の左腹部に深々と突き刺さった。


 突然の痛みに驚いた男は、小刀を左腹部から抜き取ると、その小刀で京一の顔を目掛けて切りつけた。


 左目の丁度上辺りに熱い痛みが走ると、京一は反射的に手で顔を拭った。彼の顔一面に血が広がった。


 意識が朦朧としていた母親は、血だらけの顔をした京一を見て正気を取り戻すと、甲高い悲鳴をあげた。


 男は舌打をすると「また来る」と告げ、家を出て行った。


 その後すぐに京一は母親に近くの病院へ連れて行かれ、帰り道にこのことは絶対に父親には言ってはいけないと、きつく口止めをされたことを覚えている。


 どうしてかと聞くと、母親は何も言わず京一におもちゃを買ってくれた。彼がずっと欲しがっていた、乾電池で動く恐竜型のプラモデルだった。 


 いつの間にか、京一の額の怪我は自転車で転んでできたことになっていた。


 結局、京一は父親に何も言わなかった。


 おもちゃを買ってもらったからという理由もあったが、あまりにも非日常的だったあの日のことを、京一は誰にも話したくなかった。


 ただ、あの日以来何かが変わってしまった。それまで仲が良かった両親は、ちょっとしたことで喧嘩するようになり、去年の冬ついに母親は京一たちを置いて家を出た。


 京一は父親としばらく道内を転々とした後、関東圏内のこの街へ引越して来た。それが丁度今年の三月末のことだった。


 ふと、京一は鏡に映る自分の瞳の中にあの男を見た気がした。年頃になってきた京一には、あの男が母親とどういう関係だったのか、何をしていたのかが、ようやく分かりかけてきていた。


 額の傷を見るたびにあの日の記憶が蘇る。


 京一は激しい憎悪が何処からか止め処もなく溢れて来るのを感じていた。


 そんなとき彼は、自分は少しずつ自分ではない何かに変わっていくような気がしていた。


「京一ではなくて狂一ですか……」


 京一は関東圏へ来てからは一時期の間、訛りをごまかすために意図的に標準語をしゃべるよう心掛けていた。その癖で、今では時々自然と敬語でしゃべってしまうことがあった。それを京一は密かに気に入っていた。


 彼は台所へ行き、冷蔵庫からペットボトルのリンゴジュースを取り出すと、そのまままラッパ飲みをした。


 空腹を感じた京一は、コンビニへ出かけることに決めた。


「うひゃひゃひゃひゃ!」


 今日明仁から巻き上げた金額を思い出すと、彼は大声で笑わずにはいられなかった。

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